★イギリス
フィリップ・キング総督
1788、ノーフォーク島植民地へ上陸
1795、オーストラリア植民地の第3代総督

大航海物語★
フィリップ・ギドリー・キング第3代NSW総督

1987 オーストラリア200年記念 1987
ノーフォーク島 1987-88 発行

シリウス号

ノーフォーク島 1967-68 発行
シドニー・コーヴ上陸、国旗掲揚

ノーフォーク島 1987-88 発行

Australia
オーストラリアの地図と国旗

オーストラリア 1981/8/4 発行
タスマニア島とノーフォーク島

ノーフォーク 1969/9/29 発行

シドニー・コーヴ、1788

ココス島 1988/1/26 発行

イギリスのコンウォール生まれのキング総督は12才でイギリス海軍に入隊し、アメリカ独立戦争が終わるまで軍艦に乗組んで活躍しました。その時一緒になった艦長だったフィリップ総督の誘いで、オーストラリア流刑植民地の第1回囚人護送船団にシリウス号に乗組んでシドニーへ行きました。到着すると間もなく、フィリップ総督の命でノーフォーク島に衛星植民地を建設しました。病で一時帰国しましたが、第2代ハンター総督のあとを引き継いで、第3代ニューサウスウェールズ総督としてシドニーへ赴任し、6年にわたり植民地経営に尽力し、帰国後50才で病によりロンドンにて亡くなりました。

フィリップ・ギドリー・キング
 Philip Gidley King (1758/4/23〜1808/9/3)

  (初代ノーフォーク副総督 在任:1788/3/6〜1790/3/24、再任:1791/11/4〜1800/6/29、
   第3代NSW総督 在任:1800/9/28〜1806/8/12)
フィリップ・ギドリー・キングはイングランド・コンウォールのランセストン(Launceston, Cornwall)で生まれましたが、布地などを商う(cloth & fabrics draper)商人の父は決して豊かではありませんでした。1770/12/22に12才で大英帝国海軍に入隊し、艦長従卒(captain's servant)としてスワロー号(HMS Swallow 278t)に乗組み東インドで5年間勤務しました。1775年にアメリカ独立戦争(1775-1783)が勃発すると、1775/7月に少尉候補生(midshipman)としてリヴァプール号(HMS Liverpool 590t)に乗組み、アメリカ独立戦争に従軍しました。1777年に士官任官試験(examination)に合格、1778/12/25に海軍少尉(lieutenant)に任官してレナウン号(HMS Renown)に乗組みました。

1780/1月に英仏海峡艦隊(Channel Fleet)に転任となり、アーサー・フィリップ艦長(Captain Arthur Phillip)のアリエイドン号(HMS Ariadne、20-gun post ship)に乗組みました。1783年にフィリップ艦長がエウロパ号(HMS Europe、64-gun third rate ship 1370t)に転任となり、艦長に気に入られていたキング少尉も乗組みとなり、インドへ航海しましたが、やがて平和が訪れて予備役(paid off)になりました。

1787/10月にアーサー・フィリップ艦長が初代オーストラリア植民地総督に指名されて総司令官で指揮をとり、オーストラリアへ初めての植民地を建設するために行くことになり、キング少尉も新造艦で旗艦のシリウス号(HMS Sirius 16-gun 511t)ジョン・ハンター艦長に乗組んで中尉(second lieutenant)となり、オーストラリア植民地への第1回囚人護送船団(First Fleet)に参加しました。1787/5/13に囚人護送船団11隻はイギリスのポーツマス港を流刑植民地へと出帆しました。8ヵ月後の、1788/1/26にシドニー(Sydney)近郊のポート・ジャクソン(Port Jackson)に到着、上陸しました。

キング中尉はノーフォーク島でオーストラリア流刑衛星植民地(penal colony)建設を命じられ、1788/2/14にシドニーをハンター艦長のシリウス号で出帆しました。

参考HP:〜
 ・ランセストンの場所地図
 ・コンウォールの地図
 ・イギリスの州別地図
 ・イギリスの州別詳細地図
 ・オーストラリアの州別地図(日本語)






★イギリス
フィリップ・ギドリー・キング副総督
1788
ノーフォーク島植民地へ上陸

大航海物語★
キング副総督
ノーフォーク島にボートで上陸
ノーフォーク島の地図

ノーフォーク島 1974/2/8 発行
ノーフォーク島 1987-88 発行

キング副総督の長男が誕生

ノーフォーク島 1987-88 発行
太平洋上のノーフォーク島
オ|ストラリア

←ノーフォーク島
←ニュージランド
ノーフォーク 1979/9/25 発行

オーストラリア流刑植民地のNSW衛星植民地初代ノーフォーク島副総督
 (在任:1788/3/6〜1790/3/24、再任:1791/11/4〜1800/6/29)
1788/3/6にキング中尉は海兵7人(marines)と囚人労働者15人(convicts)計23人でノーフォーク島に到着、上陸後、キャンプを設営して居住地の建設に取り掛かりながら、島内の偵察・探検・調査をしました。安全な港とライム(lime)が無いにもかかわらず、木材は豊富でしたので、まずは居住地建設のために、生い茂るノーフォーク松林を切り倒して、建設用の木材を製材し、土地を確保しました。その間に虫の被害、特にウジ(grubs)やネズミ(rats)、嵐(サイクロン:Cyclone)、そして日常茶飯事に起る囚人労働者達の騒ぎに悩まされながらの建設作業となりました。魚は豊富で、土地は良く肥えていましたので、100家族の入植が可能なことをフィリップ総督へ伝えました。 島内を調査
ノーフォーク松の木材とアマ(亜麻 Flax、リンネル)を利用しながら、2年以上かかって作物(crops)と家畜(cattle)の生産に成功し、NSWからの補給に頼らなくても良い状態になりました。キング中尉の働きに感動したフィリップ総督は、彼の昇進を海軍本部に何度も推薦しました。彼の年功のせいでなかなか聞き入れられませんでしたが、1789/12月に£250ポンドの給与で、オーストリアNSW衛星植民地ノーフォーク島副総督(lieutenant-governor of Norfolk Island)の地位が与えられました。 ノーフォーク松
1790/3月にフィリップ総督の命で、植民地建設の困難さを本国に報告するために、シドニーをイギリスへと出帆しました。キング中尉が島を離れた後、1790/3/19にシリウス号はノーフォーク島で座礁・沈没しました。1790/3/24にロバート・ロスが副総督としてノーフォーク島に着任しました。

キング中尉はイギリス帰国の途中で病気になりましたが、1790/12/24にロンドン(London)に到着、本国政府に植民地の窮状を訴えました。グレンヴィル卿(Lord Grenville)とバンクス男爵の推薦で海軍大尉に昇進しました。4ヵ月ロンドンに滞在しました。アンナ(Anna Josepha nee Coombe 1765-1844)
シリウス号遭難
と、1791/3/11にロンドンで結婚。4日後にパーカー艦長(Captain Parker)のゴーゴン号(HMS Gorgon)に乗船し、自費で購入した数頭の家畜(livestock)を積み込んでロンドンを出帆。8ヵ月後にシドニーに到着しましたが、家畜のほとんどが途中で死にました。キング大尉夫妻はシドニーに5週間滞在してフィリップ総督に報告した後、1791/11月初旬にノーフォーク島に戻りました。6週間後に長男が誕生、フィリップ総督が名付け親になってアーサー(Admiral Phillip Parker King FRS, RN 1791/12/13-1856)と名付けられました。その子は後に海軍に入隊し、最後には提督になりました。その他に4人の娘が生れました。

キング副総督の留守(20ヵ月)を預かっていたロス副総督はシドニーに戻り、キング副総督が着任してみるとシドニーからの囚人移住者受け入れで、同島の人口が約1000人となっており、それがロスの甘い監督で統制がとれておらず、囚人(convicts)、移住者(settlers)、兵隊(marines)、役人(officials)の全てが不平不満を持ち、いがみ合っているという困難な状況になっていました。島には裁判所が無いので判事の派遣を要請しましたが、なかなか実現せず、1792年に規則を発布して対応を図りました。またキング副総督は皆の意見を良く聞き、賃金(wages)、物価(prices)、その他の物事を是正して成功しました。1794年には自給自足経済が成り立つまでになりました。そして同年に小麦(wheat)と豚(swine)の生産が順調にゆき、島内消費を上回るようになり、食料用にシドニーへ積み出すまでになりました。

本国政府から亜麻の栽培を増やしリンネルを増産するようにとの要請を受けましたが、亜麻は固くてリンネルの製糸が難しかしく生産が思うようにできませんでした。それでニュージランドから製糸の熟練者を連れてこようと思い、かつてクック船長の太平洋探検でノーフォーク島付近の海に詳しいヴァンクバー船長を派遣してくれるようにと本国政府に頼み込みました。ヴァンクバー船長が来島すると、1793/11月にニュージランドへ航海して10日滞在し、現地人の子供マオリ(Maoris)2人を浚ってきて、製糸法を移住者に教えさようとしましたが、それを知らなかったので、再度出かけて子供を開放し、大人の男を連れてきました。ところが男も知りませんでしたので、10日後に戻しました。

1794/2月に20人の海兵隊員(soldiers)を泥酔、反抗などの容疑で逮捕後、シドニーへ送還しました。ところがフランシス・グロスNSW副総督はNSW軍団への仕打ちが厳しすぎるとして彼らを釈放しました。1795/12月にキング副総督の胸(Lungs and Breast)の病気が再発した上に胃潰瘍となり、ハンターNSW総督の命により、イギリスで病気療養となりました。バンクス男爵への多くの植物標本を携えてノーフォーク島をイギリスへと、1796/10月に出帆しましたが、副総督の地位は1800/6/29まで存続し、給与は1795/1月に£450になっていました。キング大尉はイギリスに着くと海軍を引退して、故郷に帰って病気療養に専念しました。フィリップ提督がキング大尉をハンター総督の後任にと考え、バンクス男爵もキング大尉を推薦しました。

参考HP:〜
 ・ノーフォーク島の地図
 ・ノーフォーク島の場所地図







★イギリス
フィリップ・ギドリー・キング総督
1800
オーストラリア植民地の第3代総督、シドニーに到着

大航海物語★
キング第3代NSW総督

ノーフォーク島 1987-88 発行
シドニー上陸

ノーフォーク島 1987-88 発行

オーストラリアの地図

アイルランド 1988/3/1 発行
サプライ号

ノーフォーク島 1987-88 発行
タスマニア島アドヴェンチャー湾

ピトケーン 1989/4/28 発行

ボタニー湾の地図
オ|ストラリア→
1788 La Perouse & Commdoore Phillip 1988
1788/1/24 Botaney Bay

ニューカレドニア 1988 発行
ポート・ジャックソン


現在の
シドニー市街地



ボタニー湾




オーストラリア流刑植民地第3代NSW総督(Governor of New South Wales 在任:1800/9/28〜1806/8/12)として、給与は年£1000ポンドでシドニーに着任したキング総督を待ち受けていたのは、ニューサウスウェールス(NSW)軍団の専横でした。NSW軍団の将校達は土地の有力者と組んで、未だ貨幣経済の未発達な植民地でラム酒を介して輸入物品の取引を独占して、巨利を得ていました。1800/9/28から執務を始めたキング総督は、それを是正するべく輸入品に5%の課税をしょうとしましたが、うまくいきませんでした。内政に関しては地場産業の育成に力を入れ、石炭(coal)鉱山開発、羊毛(ウール、fine-woolled sheep)や枝肉(weight of Carcase)などの牧畜、ぶどう(vines)、タバコ(tobacco)、綿(cotton)、麻(hemp)、藍(indigo)の栽培などの育成を行い奨励しました。捕鯨(whaling)船やアザラシ狩り(sealing)船を積極的に呼び込みました。アマの生産も始めましたがこれは失敗でした。捕鯨船は順調に来航し成功しました。1800/6月にジョセフ・フォウヴォウ(Joseph Foveaux 在任:1800/6/29〜1804/9)をノーフォーク島副総督に任命しました。1801年にタヒチ(Tahiti)へ豚肉(pork)の買い付けに2隻を派遣。1806年にはNSW政府の財政がが5倍になりました。キング総督は人口が増えるにともない新しく生まれた子供の数も増えましたので、NSW植民地での学校教育を始めました。

キング総督は農業や牧畜のための用地確保と新しい居住地建設のために探検隊を各地へ派遣しました。1801年にジェームス・グラント(Lieutenant James Grant 1772-1833)をバス海峡(Bass Strait)探検と、ウェスターン・ポート(Western Port)調査、ハンター川(Hunter's River)探査に派遣。ジョン・マーレー(Lieutenant John Murray 1775-1807)を居住地建設のためにポート・フィリップ(Port Phillip、現:メルボルン)発見の探検航海に派遣。陸上では、1802/11月にフランシス・バラリアー(Francis Barrallier 1773-1853)をキング山脈(King of Mountains)探検軍事作戦に2度派遣。ジョージ・キャリー(George Caley 1770-1829)のウェスターン・ポート探検(Western Port)とジャーヴィス・ベイ(Jervis Bay)探検、そして1804/11月のブルーマウンテン(Blue Mountains)横断を支援しました。

1803/3/11にボーウェン大尉(John Bowen 1780-1827)がグラットン号(HMS Glatton)で、イギリスからポート・ジャックソンへ囚人を輸送して到着しました。直ちにキング総督はヴァン・ディーメンズ・ランド(Van Diemen's Land、タスマニア)への囚人輸送を命じました。ボーウェン大尉はジョージ・バス船長の勧めで、タスマニア島のリズドン湾付近に新居住地を建設するべく、ポート・ジャックソンを出帆しました。1804/1月にボーウェン大尉はフェレット号(Ferrett)でポート・ジャックソンへ戻るためにリズドン・コーヴを出帆しました。シドニーに着いたボーウェン大尉は折から勃発の対仏戦争(Napoleonic Wars 1803-1815)のために帰国しょうとするのを、キング総督が慰留してタスマニア探検を依頼し、4年間に渡り探検航海をしました。1803/1/4にコリンズ中佐をヴァン・ディーメンズ・ランド南部副総督(Lieutenant Governor)に指名しました。コリンズ副総督はタスマニア島アドヴェンチャー湾にホヴァートを建設しました。

1804/5月にパターソン大佐をヴァン・ディーメンズランド北部副総督に指名し、ポート・ダーリンプル(Port Dalrymple)居住地の建設を命じました。1806年に新しい居住地をタマー川上流に建設し、そこをパターソン副総督がキング総督の出身地のイギリス・コンウォール州ローンセストンに因んで、ローンセストン(Launceston)と命名しました。

1806/8/6に後任のブライ総督が到着すると、5440ku(1345acres)の土地を無償交付しました。8/12にNSW総督の任期を終え、8/16に帰国するためにバッファロー号(Buffalo)の準備に取り掛かりましたが、体調が思わしくなく、1807/2/10まで出帆を待たねばなりませんでした。その間の1月にはブライ総督からキング総督夫人が2790ku(690acres)の土地無償交付を受けました。出帆後、ホーン岬で嵐に遭い、11月にロンドン到着しました。そして政府と年金交渉を始めましたが、翌年9/3に、年金を受給する前に50才でロンドンにて亡くなりました。

参考HP:〜
 ・シドニーの地図(日本語)
 ・シドニーの地図(広域地図)
 ・シドニーの中心街地図(日本語)
 ・シドニー付近の地図(シドニー、ハンター・ヴァレー、ブルーマウンテン有)
 ・シドニーの場所地図(日本語)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       2010/8/1

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