バウンティ号
の反乱物語

ジョン・アダムス
1789
「バウンティ号の反乱」、最期の生存者

大航海物語
イギリス
PITCAIRN ISLANDS
ジョン・アダムス と
ピトケ−ン島のバウンテイ湾

ピトケ−ン諸島 1999/5/25 発行
パンの木の苗木を船外へ投げ捨て

1789 バウンティ号の反乱200年記念 1989
ピトケーン 1989/4/28 発行
バウンティ号

英領ピトケーン 1988/5/9 発行
ピトケ−ン島のアダムスの家

ピトケ−ン諸島 1940-51 発行

我々は何処から来たのか? 我々は何者か? 我々は何処へ行くのか?
Where have we come from? What are we?
Where are we going? Gaugin(1848-1903)

ポール・ゴーギャン 1897-1898年作 ボストン美術館)蔵
仏領ポリネシア 1985/5/17 発行

PITCAIRN ISLANDS
ピトケ−ン島

ピトケーン 1969/9/17 発行
PITCAIRN ISLANDS
太平洋でのタヒチ島ピトケーン島の位置(中央付近)
ノーオーク、フィジー、トンガ、サモア、タヒチピトケーン、イースターの島々

英領(ジョージ6世)ピトケーン 1940-51 発行(200%)

バウンティ号の反乱でピトケーン島へ移住した9人は、4年後には4人になり、最期に生き残ったのはジョン・アダムスただ一人だけとなりました。
ジョン・アダムズ (1766〜1829)
(John Adams

ジョン・アダムスはイングランド・ロンドンのテームズ河の上流付近(ワピング、セントジョンバウ二ー、スタンフォードビル、ミドルセクスの何処か?)辺りの出身と言われていますが詳細は不明です。アダムズには3人の兄弟がいましたが親からほとんど見捨てらて、アダムズと2人の兄弟は救貧院で育てられました。もう1人の兄弟は父がなくなった後で結婚したと伝えられています。

1787年にウィリアム・ブライ艦長が西インド諸島のプランテーションで働く奴隷の安い食料を確保するため、太平洋のタヒチ島から「人手無用で育つ食料の木」と思われていた”パンの木”の苗木を、西インド諸島に運び植林する作戦を命じられました。「パンの木の苗木の輸送作戦」を実施するため南太平洋への航海へ出帆するキャップテン・ブライに与えられた船は”バウンティ号”(HMAV Bounty)でした。ブライ艦長は乗組員を募り、ジョン・アダムスがバウンティ号の乗組員として志願して乗船しましたが、最初はアレキサンダー・スミスの偽名を使っていたといわれています。

1787/12/23にバウンティ号はイギリス・スピツヘッド海峡近くのポーツマス港を出帆しました。1ヵ月後にブライ艦長の命令でマゼラン海峡ではなく、南アメリカ最南端で「吠える60度」といって南極海からの強風で年中荒れ狂っていて、船乗りに恐れられていた難所中の難所のホーン岬Cape Horn)を回航してドレーク海峡を抜けて、太平洋へ出てることになりました。ジョン・フライヤー航海長の冷静な指導のもとで嵐の中にホーン岬を望見できましたが、折りしもさらなる大嵐が襲いかかりました。ブライ艦長は「進路を見失った」としてドレーク海峡の突破を断念して、喜望峰への転舵を命令しました。喜望峰周りで無事にインド洋へ出ましたが、そのために2ヵ月もの遅れを出したとして、艦長は航海長のフライヤーを降格し、上級士官の1人フレッチャー・クリスチャン1等航海しを副艦長に抜擢しました。1788/3/10にはマッシュー・クィンタルがその横柄で反抗的な態度に、ブライ艦長から24回の鞭打ち刑を受けました。その後の航海中もブライ艦長の厳しい態度に、乗組員の多くが不満を抱いていきました。アダムスは同じくブライ艦長に対して不満を抱いていたアイザック・マーティンから反乱について聞かされ、マーティンと結託した後は、アダムスもクリスチャン副長を反乱計画に誘い込む話しを支持してクリスチャン副長に接近した乗組員の一人となりました。バウンティ号はさらに西へ帆走して、出港から10ヵ月以上の航海の後、1788/10/26にタヒチ島に到着しました。
それからの約半年間を”パンの木”の苗木やその他の植物を搭載するためにタヒチ島に滞在しました。その期間中、アダムスはタヒチの女性オブアレイ(Obuarei)と結婚しクリスチャン副長もタヒチの女性と結婚し、その他の多くの乗組員達も現地生活を楽しみました。島での約6ヵ月間の生活は水夫たちにしてみれば楽園だったのでした。水夫の多くは短気なブライ艦長と再び航海に出るのをますます嫌うようになりました。3人の水夫が仕事を放棄して逃げようとしたため、ブライ艦長は鞭打ちの刑を科しました。そして”パンの木”の苗木を積み込んだバウンティ号は、1789/4/4にタヒチ島を出帆しました。 タヒチの女(浜辺にて)
ゴーギャン 1891年作オルセー美術館蔵


仏領ポリネシア 1958/11/3 発行
1789/4/28にフレンドリー諸島(トンガ)近海に差しかかった時に反乱が起きました。イギリス出帆時から艦長の厳しさに不満を抱いていた乗組員達は、”パンの木”の苗木を積み込んでからの、水の制限により、不満が一気につのりました。クリスチャン副長をそそのかして味方につけ、1789年4月28日早朝に副長とアダムスとと反乱者達が船を乗っ取り、ブライ艦長達を1隻のボートlongboatランチ・救命艇)に押し込めて船から追放しました。出帆当時乗組んでいた46人の内、途中で死亡していた2人を除き、反乱者はアダムスとクリスチャン副長など12人でした。ブライ艦長以下19人はボートに乗せられて追放され、反乱に加わらなかった者のうち艦長と行を共にしなかった(ボートに乗れなかったか、直接手は下さなかったが反乱に同調したという説も有)13人は船に残されました。

その後、バウンティ号はポリネシアのツバイ島(Tubuai 、Austral Islands)に寄航し、定住地建設を試みましたが、原住民の攻撃にあって失敗しましたので、タヒチ島に戻りました。クリスチャン副長はイギリスの手の及ばない南海の未知の島に移住しようと覚悟を決め、1789年9月に23人の反乱者のうち、14人をタヒチに残し、17人のタヒチ人男女(男6人、女11人)を連れて、隠れ住むための未知の無人島探しの航海へとタヒチ島を後に、アダムスも一緒に出帆しました。1790/1/15にアダムスたちは絶海の孤島で、イギリス海軍の海図にも正確には載っていない無人島”ピトケーン島”にたどり着きました。ピトケーン島に到着した後、入植者の間でバウンティ号を破壊するかどうかの議論がおき、破壊するかどうか反乱者の間で議論している間に、クィンタルが船を燃やしたと言われています。

ピトケーン島に住み着いてから、一緒に連れて来たタヒチ(ポリネシア)人との間に争い(反乱)が起こり、反乱から4年後には、アダムズの他にネッド・ヤング、マシュー・クィンタル、ウィリアム・マッコイの合計4人のみとなりました。その後、マッコイが酒を造って、泥酔したある時に崖から転落(投身自殺の説有)して亡くなりました。マッコイが酒を造ったので、クィンタルは酔っ払いの日々を送り、酔っ払うとタヒチで結婚した妻をひどく虐待しました。このような酒飲みで乱暴者のクィンタルを、アダムズがヤングを誘って1779年に斧で殺害しました。 PITCAIRN ISLANDS
アダムスの家


ピトケ−ン諸島 1940-51 発行
マッコイの死後の1779年に酔ったクィンタルは、彼の英国に残した妻イザベラを連れて行くことが出来なかったから、彼は子供達を皆殺しにしてやると、生き残った反乱者であるアダムズとヤングに対して脅迫しました。アダムズとヤングは彼を何とかしないと、自分や子供達や他の者の命が危ないと判断し、クィンタルをアダムズの小屋へ呼び寄せて斧で殺害しました。
その後、ネッド・ヤングは1800年に喘息により死亡。ただ1人生き残ったアダムズは、島で生き残った10人のポリネシア人女性と23人の子供の家長的存在となりました。そして、アダムズは島社会の言わば創造者となりました。アダムズは充分な教育を受けず、文字もどうにか読める程度でしたが、バウンティ号から持参した聖書を用いて子供達に読み書きを教えました。彼により、島の土地は反乱乗組員1人ごとに9等分され、乗組員達の子供の代にさらに細分されました。厳格なキリスト教徒であったアダムズは水曜日と金曜日の断食を守り、毎日必ず祈りの時間を持つことを怠りませんでした。 アダムスと聖書
反乱事件から19年後の1808年にアメリカの捕鯨船トパーズ号がたまたまピトケーン島の近海を通りかかって上陸し、そこで男性1人、後は女性が10人、子供が20数人の集団と出会いました。男性の名前はジョン・アダムスと言い、彼の他にこの島には成人した男性は住んでいませんでした。このようにして、絶海の孤島ピトケ−ン島で唯一の生存者ジョン・アダムスが発見されましたが、クリスチャン副長はその生死が分からず不明でした。 トパ−ズ号、1808

ピトケ−ン諸島 1999/5/25 発行
さらに、1814年にピトケーン島にたどり着いたイギリス船によって、この島がバウンティ号の反乱に加わった水兵達が落ち延びてきた島であることが判明しました。そこでアダムスに対する尋問が始まり、判明したことは、この島に辿り着いた水兵とタヒチ島から連れてきた男性達が互いに殺し合い、その他の者は病気、自殺、事故、喧嘩により既に死亡していました。アダムスただ一人が生き残ったと言うことでした。この事件はバウンティ号の反乱の後日談として、本国イギリスでは非常にセンセーショナルに伝えられました。
1825年にイギリス船のビーチー船長がピトケーン島に来島し、アダムズに国王からの恩赦を伝えました。アダムズの最初の妻オブアレイはピトケーン島について間もなく、鳥の卵を収穫に行っていて断崖から落ちて亡くなっていましたが、1825年59才でメアリー(Mary)と名付けたタヒ島女性と再婚してジョージ(George)という一人息子を残して、1829年62才でピトケーン島で亡くなりました。島の集落は彼の名を冠してアダムスタウンと命名されました。
1838年ピトケーン諸島は正式にイギリス領となりました。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   08/1/28

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