United Kingdom

国連 1983 発行
切手で綴る イギリスの冒険大航海(Great Adventure Voyagee)オーストラリア(VIII-12
エドモンド・ストルゼレスキ伯爵
1839、オーストラリア最初の「金」を発見
1840、オーストラリア最高峰コジアスコ山、命名

ギプスランド ストルゼレスキ砂漠 コジアスコ山  
大航海物語
オーストラリア編

パウエル・エドモンド・デ・ストルゼレスキ伯爵
Polska AUSTRALIA

ポーランド 1987/8/23 発行

オーストラリア 1983/9/26 発行


POLSKA
ストルゼレスキ伯爵の航海・探検地図
オーストラリアの地図
豪州最高峰コジアスコ山とストルゼレスキ川の眺望
ポーランド .
(イギリス)→
ストルゼレスキ オ|ストラリア
サイン→


←タスマニア島
ストルゼレスキ伯爵生誕200年記念
ポーランド 1997/7/20 発行 (200%)

NEDERLAND
オーストラリアの州別区分地図
ノーザンテリトリー(北部準州)
AUSTRALIA
オーストラリアの砂漠

図案はグレート・サンディー砂漠
オーストラリア 2000/6/20 発行



ウェストオーストラリア→

サウスオーストラリア



←クィーンズランド

←ニューサウスウェールス
←ヴィクトリア
タスマニア
オーストラリア100年記念
オランダ 1988/8/30 発行

ポーランド生れのストルゼレスキ伯爵はプロシャ帝国とロシア帝国に分断された祖国で、ロシア帝国に対する反乱に巻き込まれ、反乱が鎮圧されるとイギリスへ渡り、新大陸へ大航海しました。1839年にオーストラリアのシドニーへ渡航して、4年間のオーストラリア東部からタスマニア島の探検調査をなし、シドニー近郷で「金」を発見し、オーストラリア最高峰の登頂に成功してコジアスコ山と命名しました。晩年はイギリスでアイルランドのジャガイモ飢饉救済やクリミヤ戦争の傷病兵への支援につくし、ヴィクトリア女王から爵位を授けられ、76才でロンドンで亡くなりました。
パヴェル・エドモンド・デ・ストルゼレスキ卿
 Sir Paul Edmund de Strzelecki KCB CMG FRGS MRS(1797/7/20〜1873/10/6)
  (Count Pawel Edmund Strzelecki)
  英名:パウェル・エドモンド・ストルゼレスキ伯爵
ストルゼレスキ伯爵はポーランド中西部でプロシャ帝国領ヴィエルコポルスカ県のグルゼニア(Guszyna 現ポズナン、Pozna、Wielkopolska Greater Poland)で名誉も土地もない貧しい父母(Franciszek Strzelecki、Anna Raczyska)の第3子として生まれ、基礎教育を受けてから、当時の若者の誰でもがそうしていたようにプロシャ国陸軍(Prussian army)に入隊するも、近所の娘アレクサンドラーニャ(Aleksandryna Turno)と駆け落ちして、ザクセン(Saxony)の鉱山へ行き、イタリーのカンパニア州にあるヴェスヴィオ火山(Mount Vesuvius、Campania、1,281m)へ移りました。1830年26才でポーランド王家の王子(Prince Sapieha)騎下のロシア領域ポーランドに行きました。そこで、1830年に起った、ポーランド及びリトアニアでロシア帝国の支配に対する武装反乱の「11月蜂起」(士官学校の革命、1830-1831)に加わりました。それは1830/11/29にポーランドの首都ワルシャワで、ロシア帝国軍の陸軍士官学校に所属する若い下士官たちが、ピョートル・ヴィソツキ(Piotr Wysocki 1797-1875)に率いられて蜂起したのが発端となり、蜂起にはポーランド社会の大部分が参加。蜂起はいくつかの地域で成功を収めましたが、数の上で圧倒的に優位なイヴァン・パスケヴィチ将軍(Ivan Paskevich 1782-1856)率いるロシア軍に鎮圧されました。ストルゼレスキはポーランドからイギリスへ渡航、1833年からロンドンで伯爵(Title Count)の称号を用いました。

1834/6/8にイングランドのマージーサイド州リヴァプール(Liverpool, #E46)から新大陸のニューヨークへと出帆しました。北アメリカ(カナダで銅山発見)やキューバを土壌調査や鉱山の試掘をしながら旅行し、1836年にチリからカルフォルニアの鉱山地帯を訪れ、奴隷制度の反対者になりました。イギリス海軍のフライ号(HMS Fly)に便乗して、ハワイでキラウエア火山(Kilauea)に登頂し、さらにポリネシアマルケサス諸島を航海してから、タヒチで陪審員制度(jury system)を導入しました。1839年に、ニュージランド独立の基礎となるワイタンギ条約に貢献し、またスペインフランスからワイン用ブドウの株をオーストラリア(ハンター・ヴァレー)に移植した「オーストラリアンワインの父」と呼ばれるジェームズ・バスビー(James Busby 1801-1871)の招きで、オーストラリアへ航海しました。

ストルゼレスキ伯爵のオーストラリア探検
第1回探検〜ギブスランド地域、1839年
第2回探検〜ブルーマウンテン、1839/8月出発
第3回探検〜スノーウィマウンテンズ、1840年
第4回探検〜タスマニア、

▼1839年、第1回探検〜ヴィクトリア州東部のギブスランド地域
1839/4/25にストルゼレスキ伯爵はオーストラリアのシドニー(Sydney)に到着しました。ジョン・マッカーサーの四男ジェームズ・マッカーサー(James MacArthur, 1798-1867)にシドニー郊外カムデン(Camden)の邸宅で出会いました。ニューサウスウェールズ(ANSW第9代総督ジョージ・ギッブス卿(Sir George Gipps 1791-1847)の要請で、ヴィクトリア東部のギブスランド地域(Gippsland region)の地質学(geological)、鉱物学(mineralogical)調査を実施して、多くの発見をしました。特にバサースト・ウェリントン地区(Bathurst Wellington district, NSW)ウェリントン・ケーヴ(Wellington Caves)にて、オーストラリアで最初の「金」の発見をしました。ウェリントン近郊およびハートリー近郊のクルイド渓谷で金と銀を発見しました。そこで多数のオーストラリア産金のサンプルを収集し、ロンドンの著名な地質学者ロデリック・マーチソン(Sir Roderick Murchison 1792-1871)などに送りました。ところが、ジョージ・ギップス総督は4万5千人の囚人の不穏の恐れや、ゴールドラッシュでパニックになるのを恐れて秘密にしました。

▼1839年、第2回探検〜ブルーマウンテン
 ストルゼレスキ伯爵、ジェームズ・マッカーサー、ジェームズ・ライリー、
 アボリジニガイド2人、チャーリー・タラとジャッキー
 (Strzelecki, MacArthur, James Riley, Charlie Tarra & Jackey:計5人)
8月 シドニー郊外のパラマッタ(Paramatta)を出発、ブルーマウンテンへ向かう
9/08 ブルーマウンテンの東端のトマー山(Mount Tomah)着
9/10 キング・ジョージ山(Mount King George)着 金を発見
9/15 困難な土地を抜けて西の平原に到着
バサースト近郷のハートレイ谷(Hartley Vale)近くで「金」を発見
引き続きウェリントン地区で鉱物学調査を実施
9/16 ウェリントン洞窟(Wellington Caves, NSW)で化石を発見
9/17 リスゴウ(Lithgow)近郷ウォラーラワング(Wallerawang)着
その後、シドニーから遥か644km彼方のオレンジ(Orange)近くのキャノボラス山(Mount Canobolas 1395m)とパークス(Parkes)近くのラチラン川(Lachlan River 1450km)までを徒歩で踏破
10/16 ウェリントン(Wellington、SA)着
11/28 シドニーへ帰着。

1839年末にはオーストラリア・アルプス(Australian Alps)とスノーウィー・マウンテンズ(Snowy Mountains)の探検に、ジェームス・マックアーサー(James Macarthur 1798-1867)、ジェームス・ライリー(James Riley)、アボリジニのガイドのチャーリー・タラ(Charlie Tarra)とジャッキー
(Jackey)の5人(計6人)を連れて行きました。1840/3/12にスノーウィー・マウンテンズの中心で、オーストラリア最高峰の登頂に成功し、ポーランドの英雄で、アメリカ独立戦争ワシントン将軍(George Washington、1732-1799)の副官をつとめたタデウシュ・コシチュシュコ将軍(Andrzej Tadeusz Bonawentura Kosciuszko 1746-1817)に因んでコジアスコ山(Mount Kosciuszko、2,228m)と命名しました。そしてラトローブ川 コシチュシュコ将軍と米革命

ポーランド 1974/9/24 発行
(Latrobe River, 270km, CVIC)を越えて、ウェスターン・ポート(Western Port, CVIC)に1840/5/12到着。ギブスランド地域を通って、マックミラン地区(Division of McMillan, CVIC)を横切る22日間の飢えとの戦いの行程を、アボリジニのガイドが獲ってくれた獲物で飢えをしのぎながら踏破しました。1840/5/28にビクトリア州南部を流れるヤラ川(Yarra River 242km)河口のメルボルン(Melbourne, CVIC)に到着しました。

▼1839年、第3回探検〜スノーウィマウンテンズ(Snowy Mountains)
12/22 スノーウィマウンテンズ南部とタスマニア探検のため、シドニーを出発
12/23 カムデン・パーク(Camden Park)到着 オーストラリアの砂漠
12/26 カムデン・パークでドイツ人居住者(German settlers)に会う
12/27 カムデン・パークを出発
1840年
1/08 オーストラリア・クロニクル(Australasian Chronicle)新聞とポートフィリップ・ガゼット(Port Phillip Gazette)新聞が探検を報ずる
2/05 エラースリー(Ellerslie)着
2/21 頃、マッカサーとライリーがエラースリー到着
3/02 6人でエラースリー発
マッカサー(James Macarthur)、ライリー(James Riley)
アボリジニのタラ(Charles Tara)、囚人従僕(convict servants)2人
3/07 ワラレガング(Welaregang)着
3/09 ワラレガング発
3/12 コジアスコ山(Mount Kosciusko)登頂後、ワラレガングへ戻る
3/16 ワラレガング発
3/26 マックアリスター基地(McAlister's station)
4/06 フォード・ニコルソン川(Ford Nicholson (Riley) River)
5/12 ウェスターン・ポート(Western Port)
5/15 ウェスターン・ポート発
5/16 オーストラリアンクロニクル紙がヴィクトリア探検(Victorian expedition)を掲載
5/19 メルボルン(CVIC)到着
41日間滞在し、報告書と地図を作成して総督への提出を準備
5/24 オーストラリアン新聞がヴィクトリア探検(Victorian expedition)を掲載
5/30 ポートフィリップガゼット紙がメルボルン到着を報じる
6/02 ポートフィリップヘラルド新聞(Port Phillip Herald)が探検を報じる
6/26 シドニーで、ギッブス総督へ探検を報告

▼1840年、第4回探検〜タスマニア
1840/7/24〜1842/9/29の2年間はタスマニア副総督ジョン・フランクリン卿(Sir John Franklin, FRGS 1786-1847)の要請で、ローンセストン(Launceston)を基地として、タスマニア島を探検しました。ストルゼレスキ伯爵はNSWからヴィクトリアを経て、タスマニア島まで11,000km(7,000マイル)を探検し、地質学の調査をしました。1842/9/29にタスマニアを蒸気船でシドニー(Sydney)へと出港、
タスマニア原生地域
1842/10/2にシドニー到着。年末までNSW北部で標本の収集をしました。1843/4/22にシドニーを出発して、香港からシンガポールを経てイギリスへと航海しました。

▼その後、
1843/10月にイギリスに帰国してみると、フランスで投資していた銀行が倒産していましたが、オーストラリアで発見した金を元手に、新たにロンドンで年金に投資して、老後は裕福に暮らしました。1845年にイギリスで「ニューサウスウェールズとヴァンディーメンズランドの科学的描写」(Physical Description of New South Wales and Van Diemen's Land)を出版しました。

1846年末までにアイルランドジャガイモ飢饉苦難者救済に合計£500,000ポンドの救済基金が創設され、スライゴ県(#24)と隣のメイヨー県(#22)の物資供給官に指名され、困難な状況のもとで職務に専念し成功させました。1847〜1848年の間は首都ダブリン(#1)で救済基金の支給官として引き続き働き、アイルランド人のオーストラリア移住を助けました。1848/11月にバス勲章(KCB)を受勲しました。

クリミヤ戦争(Crimean War 1853/10-1856/2)戦傷病者の救済のためにナイティンゲールを個人的に支援しました。1849年にロンドンでロイヤル・ソサイエティのフェロー(Fellow of the Royal Geographic Society、FRGS)に選ばれ、オーストラリア探検で金賞(Gold medal)を受賞しました。1856年に「金と銀」(Gold
爵位(ナイト)親授式

ヴァ−ジン諸島 1980 発行
and Silver)をロンドンで出版。1869年にはヴィクトリア女王から爵位を受勲しました。

オックスフォード大学(University of Oxford)から名誉学位を贈られ、1869年に聖マイケル・聖ジョージ勲章(the Order of St. Michael and St. George、CMG)を受勲し、王立地質学協会員(FRGS)、王立協会員(MRG)に選出されました。ロンドンで療養中に癌で76才で亡くなり、ロンドンのケンサルグリーン墓地(Kensal Green cemetery)に葬られました。

サウスオーストラリア州のエーア湖湿地帯北東部にある乾燥地帯がストルゼレスキ伯爵に因んで「ストルゼレスキ砂漠」(Strzelecki Desert)と名付けられ、その他にもオーストラリア各地にその名を残しています。
・ストルゼレスキ・レーンジ(Strzelecki Ranges, Victoria)
・ストルゼレスキ町(Township of Strzelecki, Victoria)
・ストルゼレスキ鉄道(Strzelecki railway line, Victoria)
・ストルゼレスキ山(Mount Strzelecki, 756m、Strzelecki National Park、Flinders Island NT)
・ストルゼレスキ・ピーク(Strzelecki Peak, Flinders Island)
・ストルゼレスキ・クリーク(Strzelecki Creek, South Australia)
・ストルゼレスキ・ハイウェイ(Strzelecki Highway, Victoria)
・ストルゼレスキ・トラック(Strzelecki Track, South Australia)
・ストルゼレス砂漠(キStrzelecki Desert, east of Lake Eyre South Australia)
・ストルゼレスキ・シーニックロックアウト(Strzelecki Scenic Lookout, Newcastle, NSW)

参考:〜
・ギプスランド
 Gippsland
ギプスランドは、オーストラリア・ビクトリア州の田舎地域のことである。メルボルン東部から、ニューサウスウェールズ州境、南はバス海峡迄の地域にあって、地名はニューサウスウェールズ州ジョージ・ギプス第9代総督に因んで名付けられました。

ストルゼレスキ砂漠
  Strzelecki Desert
ストルゼレスキ砂漠は、オーストラリア中東部にある砂漠で、北部準州南部、クイーンズランド州南西部、サウスオーストラリア州西部にまたがり、エーア湖湿地帯北東部にある乾燥地帯、スタート砂漠の南で、クーパーペディの東に有。

コジアスコ山
  Mount Kosciuszko
コジアスコ山は標高2,228mで、オーストラリアのニュー・サウス・ウェールズ州の南東部にあるオーストラリア・アルプスの最高峰で、オーストラリア大陸の最高峰でもあります。1840年にストルゼレスキ伯爵が初登頂してポーランドの英雄コシチュシュコ将軍に因んで命名しました。コジアスコ国立公園の中心地で、この山を中心とする地域はスノーウィー・マウンテンズと通称され、冬季にはオーストラリアの主要なスキーリゾートとして知られていて、タウンゼント山(2,209m)が近接し、ウィンタースポーツの中心地になっています。
コジアスコ山

参考HP:〜
オーストラリアの地図
オレンジの場所地図
NSWの区分地図(黄色はパークス、東隣の中の小さい所がオレンジ)
ラクラン川の地図(Lachlan River 1,440 km)マランビジー流域の一部
マランビジー河付近の地図(アデレード、メルボルン、シドニー、ブリスベーン)
   (北からダーリング河、ラチラン川、マランピジー川、マレー河)
コジアスコ山の場所地図
ウェスタンポート湾の地図( Western Port, VIC)
アイルランドの州別地図(詳細)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   10/4/30、12/3/23、令和7年 2025/12/31
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