大航海物語
ナイチンゲール
1854〜1856
クリミア戦争に看護婦で従軍

参考資料
DEUTSCHE BUNDESPOST
ナイチンゲール

西ドイツ1955/11/15発行

古代の戦艦アルゴノート クリミヤ半島
(セバストポール)















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カルス
      ギリシャ  エーゲ海     ↑スクタリ     トルコ(小アジア半島)
(Jason & Argonaut) ジョージア 1998/6/23 発行 小型シートより

フローレンス・ナイチンゲール (1820/5/12〜1910/8/13)90才没
 Florence Nightingale

ナイチンゲールは英国の裕福な上流家庭の次女として生まれましたが、出生地は両親の旅行先のイタリ−のフローレンスでしたので、フローレンス(Florence)と名づけられました。1854〜1856年に、従軍看護婦団の婦長として、クリミア戦争(1853/10-1856/2)の傷病兵の看護にあたり、以後、看護や病院管理、軍の衛生管理等の改善に生涯を捧げました。クリミア戦争で不潔な環境に放置されていた傷病兵を目の当たりにして、清潔な環境に整えるだけでも多くの兵士を救えることを教え実行して多くの傷病兵を救い、兵士から女神の如く敬われ「クリミアの天使」と呼ばれたと伝えられています。

1853/11月にイギリスのシドニー・ハーバート(Sidney Herbert, 1st Baron Herbert of Lea PC 1810-1861)戦時大臣は、ナイチンゲールに戦地への従軍を依頼しました。ナイチンゲールはシスター(尼僧)24人、職業看護婦14人の計38人の女性を率いて、トルコの西でアナトリアの西端にあるイスタンブルの一地区、ボスポラス海峡を経て相対するアジア側にあるスクタリ(Scutari 現:ユスキュダル Uskudar)にあって、クリミア戦争中はイギリス軍後方基地の陸軍野戦病院のスクタリ(Scutari)病院の看護師の総責任者としてイギリスを出帆。1854/11月上旬に着いてみると、兵舎病院は極めて不衛生であり、官僚的な縦割り行政の弊害から必要な物資が供給されておらず、さらに現地のホール軍医長官らは、縦割り行政を楯に看護婦団の従軍を拒否しましたが、最初の冬の期間だけでチフス(typhus)、腸チフス(typhoid)、コレラ(cholera)、赤痢(dysentery)などの伝染病などで4,077人の兵士が亡くなりました。ナイチンゲールらは病院の便所掃除がどの部署の管轄にもなっていないことに目をつけ、まず便所掃除を始めることによって病院内へ割りこんでいったのでした。その後の衛生(Hygiene)管理などの改善で、病院内を衛生に保って、2月に約42%まで跳ね上がっていた死亡率が、4月に14.5%、5月に5%になったといわれています。兵舎病院での死者は、大多数が戦傷ではなく、病院内の不衛生(蔓延する感染症 infections)によるものだったと後に推測されました。1856/3/30にパリで平和条約が締結され、4/29にクリミア戦争が終結、7/16に病院の最後の患者が退院しました。

--------- ナイチンゲール誓詞は ---------
1894年にアメリカのデトロイトにあるファランド看護学校のリストラ・グレッダ婦人が委員長をつとめる看護委員会で、「ヒポクラテスの誓い」をもとに作られたものだそうで、4か条よりなり看護婦がなすべきことがら、なしてはならないことがらを誓いの形で示されています。
・「ナイティンゲ−ル誓詞」の原文(百科事典から)
われはここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わん。
@わが生涯を清く過ごし、わが務めを忠実に尽くさんことを、われはすべて毒あるもの、害あるものを断ち、悪しき薬を用いることなく、また、知りつつこれをすすめざるべし。
Aわれは力のかぎり、わが任務の標準(しるし)を高くせんことをつとむべし。
Bわが任務にあたりて、取り扱える人々の私事のすべて、
 わが知りえたる一家の内事のすべて、われは人にもらさざるべし。
Cわれは心より医師を助け、わが手に託されたる人々の幸のために身をささげん。
晩年のナイチンゲール

ベルギー 1939/4/1 発行

以上の通りですが、TVニュース報道を見ていますと、医療現場での事件や事故は上記の「誓い」や「誓詞」を守っておれば防げたことばかりのように見受けられますね。

・参考HP:〜
 イスタンブール市の地図(ボスポラス海峡東岸の南部にスクタリ現:ユスキュダルが有)
 黒海の地図
 クリミヤ半島の地図

上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     09/8/25
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