大航海物語 オーストラリアの探検
マランビジー川
Murrumbidgee River

参考資料

AUSTRALIA
マランビジー川

オーストラリア 2000 発行


NEDERLAND
ノーザンテリトリー(北部準州)
EIRE
オーストラリアの地図

アイルランド 1988/3/1 発行 (200%)



ウェストオーストラリア→

サウスオーストラリア




←クィーンズランド


ニューサウスウェールス
←ヴィクトリア
←タスマニア
オランダ 1988/8/30 発行

マランビジー河 (マレー河の支流:1,400 km)
  Murrumbidgee River
、NSW
マランビジー河はオーストラリアのニューサウスウェールズ州の延長1,400kmの川で、マレー河の主要な支流であり、スノーウィ・マウンテン(Snowy Mountains)のフィーリー・レンジ(Fiery Range)のペッパーコーン・ヒル(Peppercorn Hill)から、900kmの距離でラクラン川(LachlanRiver 1450km)に合流してマレー河へと流れ下る。マランビジーは、現地語で「大きい水」の意味。

ニューサウスウェールズ州にある人口46735人のオーストラリアの内陸都市で、シドニーから南西452km(281マイル)、メルボルンから北東456km(283マイル)にあるマランビジー河畔のワガワガ(Wagga Wagga)にはチャールス・スタート大尉の記念碑がある。
参考HP:〜
 ・マランビジー河付近の地図(アデレード、メルボルン、シドニー、ブリスベーン)
   (北からダーリング河、ラチラン川、マランピジー川、マレー河)

ワガワガ
  Wagga Wagga
、NSW
ワガワガはマランビジー川の近くにある歴史あるカントリー・タウンで、スポーツ好きの歴史とアートが盛んなことで有名。シドニーから南西へ車で5時間半の所。美しいマランビジー川沿いにあるワガワガは、自然と建築物両方の美しさを併せ持つユニークな町で、アートが盛んなこの地域では年間80以上のライブ・ショーが開催され、地元には6つの芸術組織がある。ワガワガ美術館(Wagga Wagga Art Gallery)は、オーストラリアでも有数の絵画の所蔵を誇る。またメインギャラリーの一部の国立アート・グラス・ギャラリー(National Art Glass Gallery)はガラス作品のコレクションで知られている。スポーツも盛んな土地柄で、立派なスポーツ施設を誇っている。近辺は多様な自然に恵まれ、ブッシュウォーキング、キャンプ、バードウォッチングなどに適している。
参考HP:〜
 ・ワガワガの場所地図(NSW道路地図)

スノーウィー・マウンテンズ
  Snowy Mountains
、NSW
スノーウィー・マウンテンズはニューサウスウェールズ南東部の山岳地帯で、オーストラリアで最も高度の高い場所がある。この山岳地域は1820年代からスノーウィーといわれてきたが、正式にこの名称をつけたのは、W.B.クラークで、1851-52年にこの地域の地質学調査を行い、この名称を採用した。また、スノーウィー・マウンテンズの最高峰コジアスコ山(Mount Kosciuszko)は、1840/2/14にストルゼレスキ伯爵がオーストラリアの最高峰に登頂したときに、ポーランドの英雄にちなんで名づけた。1830年代からスクオッターが入り、1846年から1847年にはトマス・タウンゼントが、山の測量をおこなった。1898年から1902年に測候所が設けられ、1906年から1908年にホテル・コジアスコウがオープンし、山頂への道は1909年に開通した。1944年に州立公園となり、1967年に国立公園となった。1949年スノーウィー・マウンテンズの水資源開発計画に州と連邦が合意し、水力発電と内陸の潅漑のための水資源の利用が実施に移された。クーマにその本部がおかれ、最初の発電所が1955年に完成し、最初の主要なダムのユーカンビーン・ダムが1956年から1958年に建設された。1840年代に建設されたジンダバイン(Jindabyne)の町は、ダムによってできたレイク・ジンダバインの湖底に沈み、新しい町が1964年に建設された。現在のジンダバインの町(1996年の人口4,320)は、スキーや水上スポーツの盛んなリゾートとして発展している。スノーウィー・マウンテンズ水資源開発(水力発電)計画は1972年に完成。1920年代にシャーロッツ・パスにスキー・リゾートができて以来、第2次世界大戦後にはペリッシャー(Perisher)やスレドボー(Thredbo)、セルウィン(Selwyn)などのリゾートが発達した。
参考HP:〜
 ・スノーウィー・マウンテンズの場所地図

パラマッタ
  Parramatta
、NSW、
  人口の:130,783(1986)、20,816(1947)、 12,520(1911)、
   推移:  4,128(1858)、3,600(1836)。
パラマッタはニューサウスウェールズ(NSW)東部で、シドニーシティ西方の郊外にある。白人入植以前にはダルグ(Dharug)のアボリジニの居住地で、バラマッタガル(Barramatugal)「ウサギが繁殖する場所」を意味するとされる地名に由来しています。初期にはローズ・ヒル(Rose Hill)と呼ばれていましたが、1791年にパラマッタと改名されました。シドニーの入植地は農耕に適さなかったので、農耕地として開発されて初期植民地の穀倉地帯となりま
シドニーの政府庁舎、1790

パラマッタ、1791
オーストラリア 1988/4/13 発行
した。1789年にオーストラリアで初めての小麦が収穫されました。そこはオーストラリア大陸で2番目の入植地で、シドニーが拡大して、ホークスバリー(Hawkesbury)が穀倉地帯として成長する1792年までは最大の入植地でした。1791年に白人オーストラリア最古の墓地、セント・ジョンズ墓地が建設されました。

主に水運が利用されていましたが、1794年シドニーとの道路が開通し、1811年には料金所が設けられ、1799年に旧総督官邸で現存するオーストラリア最古の公共建築物が造られ、1847年まで総督の居所として用いられていました。その建物は1967年にナショナル・トラスト
小 麦

オーストラリア1969/9/17発行
によって購入され、その敷地は公園になりました。1796年にニューサウスウェールズで最初に建設された教会が1803年に完成し、オーストラリアで最初のカトリック礼拝が行われましたが、1850年代にセント・ジョンズ教会に立て替えられました。1810年には最初の競馬が開催されたと言われています。

ヨーロッパ人の入植に対して、先住民は抵抗を続け、ペマルワイ
競馬

オーストラリア 1978/10/18 発行
(Pemulwuy)は有名な戦士で、負傷して1度は入植者に捕らえられたが、脱出に成功し、射殺される1802年まで入植者たちを攻撃しました。その首は切り落とされてイギリスへ送られました。1805年に一応の和解にいたるまで、入植者たちはダルグの人々を無差別に殺害しました。また、このころ流行した天然痘は人口を激減させました。マックワイアー総督の時代になると、先住民に対する文明化政策が進められるようになり、食物や毛布が配布されるようになりました。1811年にマックワイアー総督が新しい町づくりをして通りの名前がつけられました。1819年には「女性工場」が設けられ、毛織物の生産が行われ、1831年からシドニーとの間に定期連絡船が走るようになり、1928年まで続きました。ニューサウスウェールズ初の鉄道が、1855年にシドニーからパラマッタ・ジャンクション(グランヴィル)まで開通し、1860年にパラマッタまで延長されました。1861年自治体となり、1938年にシティとなりました。大シドニーの地理的なほぼ中心にあって、交通の要衝です。工業や商業施設が集積し、公共施設も多く、便利な場所ですが、雑然としており、他の郊外の町に比べて美しい町とはいえない状態です。多くのハイウェイがこの付近で交錯しますが、慣れない人間にとっては紛らわしい場所です。多くの古建築物が公開されており、植民地時代初期の歴史を知るには重要な場所になっています。
参考HP:〜
 ・シドニーの地図(Parramatta有)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。        10/2/26

スタンプ・メイツ
Copyright(C):Nicky
無断転載禁止