冒険航海(Adventure Voyage)
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第1回 ★カルチエ物語第2回 第3回 |
ジャック・カルティエ 1541 スタダコナ(ケベック)に居住地を建設 |
大航海物語 フランス★ |
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カルティエ船長 CAPEX '78 記念 カナダ 1978/6/10 発行 |
カルティエ船長 1534 カルティエのケベック上陸450年記念 1984 カナダ 1984/4/20 発行 |
R F フランスの探検船 フランス 1997/9/13 発行 |
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アジア アラスカ カナダ |
カナダ付近の地図 北極諸島獲得100年記念 カナダ 1980/1/23 発行 |
←グリーンランド ←ニューファンドランド島 ←プリンスエドワード島 ←ケベック |
BERMUDA 大西洋の地図 カルティエ船長の第3回探検航海地図(往路:赤線、帰路:青線) |
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カナダ |
イギリス |
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ケベック→ モントリオール→ セントジョン→ |
←サンマロ フ ラ ン ス |
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アメリカ カリブ海 |
アフリカ |
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これはシー・ヴェンチャー号航海地図の切手小型シートで作成 バーミューダ 1984/5/3 発行 |
ジャック・カルティエ(Jacques Cartier、1491/12/31〜1557/9/1) ・第3回探検航海&殖民遠征航海 (1541-1541/8、5隻の船隊、新大陸カナダへ遠征航海、セントローレンス河方面へ) 第3回の探検航海は、1541年に国王フランソワ1世から初代ニューフランス総督(Lieutenant General of New France, 在任1541-1543、中将格)の称号を与えられたユグノー(新教徒)のジャン・フランソワ・デ・ロベルヴァル(Jean-Francois de Roberval 1500-1560)率いる船隊8隻に開拓移民1,500人という大規模殖民隊が出帆することになりました。この時、前回連れ帰っていた現地人は9人が亡くなっていました。カルティエ船長は一足先に1541/8月カナダのスタダコナ(現ケベック)に到着。大歓迎を受けましたが、酋長ドンナコナが2年前の1539年にフランスで亡くなったことを知らせると、険悪な状況になりました。カルティエ船長はケベックのカプ・ルージュでフランス最初の居住地建設にとりかかり、サグネ王国を探そうと試みましたが、オシュラ(モントリオール)より北に行くことはできませんでした。厳しい冬を過ごして、翌春までロベルヴァル殖民移住隊一行を待ちましたが来ませんでしたので、1542年春にフランスへの帰途につき、ニューファウンドランド島のセントジョン港でロベルヴァル隊長に出会って、ケベックへ戻るよう命じられるも、越冬の困難さを伝えました。カルティエ船長は夜陰に乗じて港を抜け出して出帆し、フランスへ帰りました。 1540年 10/07、カルティエ船長がフランス国王フランソワ1世の命で、大将(Captain-General)の称号を与えられて、 第3回目の探検航海船隊を組織し、今度はカナダ(ケベック)からオシュラ(モントリオール)に至り、 黄金を参するというサグネ王国(land of Saguenay)の探索をすることになる 囚人50人を乗組員に採用 1541年 01/15、ロベルヴァルがフランス国王から中将格(Lieutenant General)の初代ニューフランス総督の称号を 与えられて、8隻の船隊に開拓移民1,500人という大規模な探検隊を率いることが決定 05/19、ロベルヴァル総督が隊員を集められないので、 カルティエ船長がサン・マロ港を第1陣と出帆 05/23、カルティエ船長の第2陣がサン・マロ港を出帆 計5隻の探検船隊に開拓移民の移住者500人となる ・旗艦グランデ・エルミン号 船長:ジャック・カルティエ探検隊長 ・随伴船:エメリョン号 ・随伴船:義弟ボープレ船長 ・その他:2隻 08/23、スタダコナ(ケベック)到着、大歓迎を受ける 前回に造ったセントクロイ(Sainte-Croix)居住地は放棄 リヴィエール・ドゥ・カプ・ルージュ(Riviere du Cap-Rouge、ルージュ岬川)河口でヌマヒノキ(white cedar)が生い茂る所の現ケベック市カプルージュ(Cap-Rouge, Quebec City)に居住地を建設し、 シャルブール・ロイヤル(Charlesbourg-Royal)と命名 カナダ最初の欧州人居住地となる 09/02、水先案内人メース・ヤロベルトに命じ、2隻でフランスへ報告のため出帆させる 岬と居住地に砦を建設し始める 09/07、義弟ボープレ船長の船で、友人の族長アシュラシイ(Achelacy)に会いに オシュラ(モントリオール)へ向う 着くと敵意に満ち充ちており、スタダコナへ引返し、越冬 越冬中に食糧不足で飢えた上に、 現地人の攻撃を受け35人が戦死するも 移住者400人が厳しい寒さと現地人の攻撃にもかかわらず、その最初の冬を生き延びる 1542年 春、シャルブール・ロイヤル(カプルージュ)のキャンプ地を放棄して引き払い帰国することにする 帰国のため出帆 ニューファウンドランド島セント・ジョン(St. John)でロベルヴァル総督に出会い越冬の困難さを伝える 06月、フランスのサン・マロ港に帰港、帰国。 ・第3回探検航海の主な随行者:〜 ・船長:トーマス・フロモント・ディ・ラ・ブーイエ(shipmaster Thomas Fromont dit La Bouille)、今航海中に没 ・水先案内人:メース・ヤロベルト(pilot Mace Jalobert、1555没)、義兄弟 ・甥:エティエンヌ・ノウエル(Etienne Noel, nephew) ・義兄:グヨン・ドゥ・グランシュ(Guyon Des Granches, brothers-in-law) ・義弟:ヴィコント・ド・ボープレ(Vicomte de Beaupre, brothers-in-law) ・1536年に連れてきていたイロコイ族は全て仏で没(但し小さい少女一人だけは生存するも消息不明) こうして帰国すると、前回持ち帰っていた「カルティエのカナダの黄金」(Canadian Gold)は黄鉄鉱(iron pyrites)であり、「カルティエのカナダのダイアモンド」(Canadian Diamonds)は石英(quartz)となっており、サン・マロの商人に約束が違うと告訴される始末と相成りました。 1544年 春頃、裁判所に召喚されて国王へ9,000ルーブル(livres)の支払いを命じられる 1545年 カナダ探検航海記(Canada expeditions and voyages of explorations)を出版(主として第2回航海) 1557年 09/01、カルティエ船長がサン・マロ近郷リモイロウ屋敷(manor of Limoilou, Saint-Malo)で没 1575年 04月、カルティエ船長夫人カトリーヌ・カルティエがリモイロウ没 カルティエ船長は帰国後、サンマロ近郷の田舎に落ち着きました。1520年にカトリーヌ・ドゥ・グランシュ(Catherine Des Granches、1575/4没)と結婚していましたが、子供には恵まれておらず、甥のジャック・ノウエル(Jacques Noel)はカルティエ船長の仕事を手伝い、もう一人の甥エティエンヌ・ノウエルはカルティエ船長と共にカナダへ渡航しました。1557/9/1にサンマロ近郷にて62才で亡くなりました。 こちらで ・プリンスエドワード島 ・ミクマク族 ・ガスペ半島 をお楽しみください。 ・参考HP〜 ・カルティエ船長の航海地図(全2回、1534-36、矢印の赤線が動く) ・カルティエ船長の航海地図(第1回・第2回、第3回は2回とほぼ同じ) ・セントローレンス湾の地図(日本語) ・カナダの地図(日本語) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 03/10/10、04/12/8、07/3/31、08/11/30、14/5/14 |
★カルチエ物語、第1回、第2回、第3回
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