冒険航海(Adventure Voyage)
第1回
★カルチエ物語第2回
第3回
ジャック・カルティエ
1535
スタダコナ(ケベック)上陸
モン・レアル(モントリオール)命名
大航海物語
フランス★

R F

1534 カルティエのカナダ発見400年記念 1934
フランス 昭和9年 1934/7/18 発行

Canada Postage
フランス船隊のケベック到着
フランスのケベック上陸
1608 カルティエのケベック上陸300年記念 1908
カナダ 明治41年 1908/7/16 発行

CANADA
カルティエのケベック到達の航海地図
セントローレンス湾とガスペ半島付近の地図


アメリカ発見500年モントリアール切手展記念
カナダ 1992/5/25 発行
セント・ローレンス河

カナダ 1993/8/10 発行
BERMUDA
大西洋の地図
カルティエ船長の第2回探検航海地図(往路:赤線、帰路:青線

カナダ

イギリス
ケベック→
モントリオール→
サンピエール島→
←サンマロ



アメリカ



カリブ海




アフリカ
 これはシー・ヴェンチャー号航海地図の切手小型シートで作成
バーミューダ 1984/5/3 発行

ジャック・カルティエ(Jacques Cartier、1491/12/31〜1557/9/1)
第2回探検航海
  (1535/5-1536/6、3隻の船隊、新大陸カナダへ探検航海、セントローレンス河を遡上)
第2回目の探検航海は、国王から再び任務を与えられたカルティエ船長が1535年5月中旬に今度は大船のグランデ・エルミン号(Grande Hermine)に乗船し、エメリョン号(Emerillon)と、一番小さい一隻ペティット・エルミン号(Petite Hermine、別名:かわいいエルミン号)の3隻編成の探検隊110人を率いて、フランスに連れ帰っていた先住民2人のドマガヤ (Domagaya) とタイニョアニ (Taignoagny)を伴い、フランスのブルターニュ地方のサン・マロ港を出帆しました。大西洋を横断して、前年探検したセントローレンス河(St. Lawrence River, 1,197km)の河口へ直行して、9/7に到着しました。現地人の情報で、この大河を遡り、川の水が「海水から淡水」へと徐々に変化していく様を観察しながら、1535/9月初めにイロコイ族(Iroquoians)の首都らしい大きな村落スタダコナ(Stadacona、現:ケベック市、Quebec)到達。首長ドンナコナ(Chief Donnacona, 1539仏没)と会見。そして、カルティエ船長は現地でカナダ(Kanada)と呼ぶその周辺の土地や川を「カナダ」(Canada)と呼びました。さらに上流に向い、乗船グランデ・エルミン号とエメリョン号をサン・ピエール湖(Saint-Pierre lake)に投錨して、以降は一番小さいペティット・エルミン号に乗り換えて河を遡上して、現地人の集落オシュラ(別名:ホチェラガHochelaga)、現モントリオール、Montreal)へと向い、1535/10/2に到達。丘のふもとで、さらに大きなイロコイ族の村落を発見。すると数千人の現地人の群衆が川岸に集まって挨拶しにきました。そこには1930年に橋が架けられてカルチエ橋(Jacques Cartier Bridge、主スパン長590m、幅:22m)と名づけられました。其処と比べればスタダコナ集落は小さくて不潔な所で、オシュラはそことは比べ
ようもない程に堂々とした大きな村落でしたので、モン・レアル(レアル山、英語でモントリオール)と名付けました。カルティエ船長は1535-36年の冬期はスタダコナに戻り、隊員達が築いた砦で過ごしました。フランス船隊は11月半ばから4月半ばまで、氷に閉じ込められたうえ、新鮮な果物や野菜が無く、ビタミンCの欠乏により壊血病に襲われました。1536年2月まで健康だった隊員は110人中10人で、ついには25人の死者を出しましたが、現地人の薬で全滅をまぬかれました。ホワイト・シーダーの樹皮を煎じた液(※)が多量のビタミンCを含んでいたのです。別説では早くもその時に現地人の間でヨーロッパ人が持込んだ伝染病(天然痘か?)が流行し、大勢の現地人が亡くなったという説もあります。カルティエ船長達とイロコイ族の関係は良好で、カルティエ船長は酋長ドンナコナの家でタバコを振舞われました。 また更に北のサグネ川にあるという黄金の地サグネ王国(Kingdom of Saguenay)について サグネ川
Saguenay River 160km , QC

ウィグワム
カナダ 1994/8/22 発行
の情報を得ました。カルティエ船長は次回の航海でカナダへ戻す約束で9人(内子供4人)の現地人とドンナコナ首長を乗船して帰途につき、1536/5月フランスへと出帆して、途中でサンピエール島に上陸。1536/7月サンマロ港に帰港しました。

1535年
05/19、フランスのサンマロ港を3隻、乗船者合計110人で出帆
     ・旗艦グランデ・エルミン号
       船長:ジャック・カルティエ探検隊長
       副長:トーマス・フルモン(Thomas Fromont )
       前年に連れてきた現地人2人が乗船
     ・エメリョン号
       船長:メース・ヤロベルト(Mace Jalobert, 1541カルティエ第3回航海に参加, 1555没)、義弟
       航海長:ジャック・マインゲルト(Jacques Maingart)
     ・ペティット・エルミン号
       船長:ギヨーム・ル・マリー(Guillaume Le Marie)
06/25、大西洋上で嵐に遭遇
     エメリョン号を見失う
06/26、嵐ではぐれていたエメリョン号が船隊に戻る
07/18、50日間で大西洋を横断し、嵐で5人を亡くすも、ニューファウンドランド島の東岸に到達
07/26、船隊が合流してベルアイル島北岸沿いに航海し
     ベルアイル海峡を通過
     ラプラドル半島南岸沿いに西へと航海
     ナタシュカン川西のナタシュカン
     ラプラドル半島南岸沿いに西進航海を始める
     アンティコスティ島の北岸沿いに西進航海
     現カルティエ海峡を通過
     セント・ローレンス河々口(ラプラドル半島とガスペ半島の間)に到達
     セント・ローレンス河々口を探検調査航海(半周)
08/13、ガスペ半島北岸
     フランス帰りの現地人ガイド2人が重要地点(crucial point)を説明
     セント・ローレンス河という大河があって、それは誰も行ったことのない現地名カナダ(Kanada)への
     ルートだと言うので、これこそ北西航路だと察して進むと、分岐してサグネ川となり
     そこは銅(copper)などを参するサグネ王国へ通じているとガイドが話す
     セテ・イル着
     セント・ローレンス河々口を西進航海(遡上)
09/07、川中島のスタダコナ島に到達
     オルレアン島と命名して船隊を停泊させる
     其処はセント・ローレンス河々口の河幅が狭まってセント・ローレンス河と
     なり、カナダが始まる所で上陸して現地人のスタダコナ村落(現ケベック
     に行き、フランスに連れて行っていた現地人2人ドマガヤ (Domagaya) とタ
     イニョアニ (Taignoagny) を戻し、イロコイ族首長ドンナコナと会見。歓迎さ
     れ、トウモロコシ酒を振舞われて交易する
     その付近一帯を現地人がカナダ(Kanata)と言うので、カナタ(Canada)と
     呼んで居住地を造る。その対岸のスタダコナ岬は無防備なイロコイ族の
     モンターニュ族集落(Montagnais、現イヌー族:Innu people)
     現地人の情報で大河があり、オシュラ集落があることを知る
イロコイ族の集落

カナダ 1976 発行
     酋長ドンナコナも素晴らしいサグネ王国の話を語る
     それこそがアジアの中国へ通じる北西航路だと思うも
     オシュラ行きを現地人ガイドが恐れたので、贈り物をやって説得するも反抗する
09/19、現地人ガイド無しでスタダコナ港を出帆、オシュラへと向う
     セント・ローレンス河を遡上
     アングレーム湖と呼んだ現サン・ピエール湖に到着
     グランデ・エルミン号とエメリョン号をサン・ピエール湖に投錨
     以降は一番小さいペティット・エルミン号に乗り換える
     ペティット・エルミン号でセント・ローレンス河をさらに遡上
     現サントジュヌビーブ湾をサン・ローラン湾と呼び停泊
     セントクロイ川と呼んだ現セント・チャールス川に船を乗り入れ、激流口をレイレト(Lairet)と呼ぶ
     ポルトニューフのアシュラシィで停泊
     族長アシュラシイ(Achelacy)と提携を結ぶ
     アングレーム湖と呼んだ現サン・ピエール湖着
     本船から30人を連れてボート(long-boats)に乗り換える
     トロワ・リヴィエール(Trois-Rivieres)に上陸
10/02、川中島のオシュラ群島(現モントリオール諸島)に到達
10/03、オシュラ(現モントリオール)に上陸
     イロコイ族の大きな防備柵(要塞)の中にある町へ向う
     オシュラ(現モントリオールl)着
     現地人のオシュラ大集落村を訪問すると
     1,000人以上のイロコイ族の歓迎を受ける
     楽しい晩餐会のもてなしにキリスト教式(St. John)で応える
     近くの山をモン・レアル(王の山)現ロイヤル山と命名。現地人の
     話で、川の向うの遠くに続く大きな河があり、豊かな国があると聞
     き、それこそが北西航路でアジアへ行ける航路だと思う
イロコイ族の大集団

カナダ 2001 発行
10/04、ロングボートで出帆し、さらに遡上するも現ラシーヌ瀬で行く手を阻まれ、乗員一人が犠牲となり、そ
     の名に因んでサンルイ(Saint-Louis)と命名。現地人は他にも激流があって、それ以上は進めぬも
     もっと北には金銀銅(gold, silver, copper)を参する豊かな土地サグネ王国(Saguenay Kingdom)が
     あると言うも、犠牲者をだしたのでスタダコナ村落に戻ることにする
10/05、オシュラ大集落を出帆
10/07、リヴィエール・ド・フォウェズ(現サン・モーリス)川河口のサン・モーリス集落に着、停泊
10/09、スタダコナ着
     セントクロイ川(ケベック市東の現セント・チャールス川)河畔に残留者が
     セントクロイ砦(Sainte-Croix Fort)の建設を始めているのを目撃
     寒さが厳しくなったので、越冬することにする(翌4月半ば迄)
     越冬のため塩漬け肉・魚を貯蔵
10/14、寒さが益々厳しくなり、天候も悪くなり、壊血病の危機が迫る
     11月になると現地人の様子が不穏になる
11月中旬、河は遥かに遠いオシュラまで凍結し、積雪は30.50cm以上となる
     船隊がスタダコナの現セント・チャールズ川で氷漬けとなったので、
     ペティット川(Petite Riviere)と命名
12月、現地人の様子が険悪になり、柵で防備を固める
12/23、今年のクリスマスは此処で過ごさねばならなくなるも「奇妙な病気」が襲って、まず現地人が50人
     以上も亡くなり、やがて隊員も半数が倒れる
1536年
01/01、酋長の息子ドマガヤが来て、現地人の治療薬で治療すると病気が治まり、就業する
01/14、状況は順調に改善され、就業者も増す
2月中旬、110人の内10人が健康で若いフィリップ・ルジュモン(Philippe Rougemont)他8人が亡くなる
     さらに災厄(壊血病か?)は続き25人が亡くなる
02/23、船隊は未だに氷漬けなるも、大部分の隊員が生き延びて、85人となる
04月中旬、春になり船隊が氷から解放される
     帰国準備に取掛り、帰国する前にフランスの権威を見せつけるため
     に、ドンナコナ酋長と息子2人とに対立していた強力なアゴナ族長
     (Agona)の脅威を取り除いてやる
     隊員が減ったのでペティット・エルミン号を破棄する
     (1842年に残骸が発見される)
05/03、十字架の前で儀式を挙行し、ドンナコナ酋長と通訳兼ガイド2人他数
     人をフランスに招待して乗船させ、現地人が騒いだので1年後には
     フランス国王の豪華な土産と共に帰ってくるとなだめる
帆船の残骸

フォークランド 1982 発行
     ドンナコナ酋長が話した黄金を参する豊かな土地サグネ王国の探査の途上で、サンジャン湖から
     セントローレンス河へ注ぐサグネ川を発見
05/06、天候が回復し、船隊の出発準備も整ったので、イロコイ族10人(酋長他9人:内子供4人)を連れて
     14ヵ月の探検で集めた黄金144塊と多数の毛皮(furs)を積んで、
     スタダコナの砦セントクロイ港を2隻で出帆
05/12、セント・ローレンス河々口を下り、
     ガスペ海峡を通過
     マドレーヌ諸島の北端から南下航海
     ケープ・ブレトン島中央西岸沿いに北進し、北端からノース岬を回り込んで南下後、
     北上してニューファウンドランド島へ向う
05/20、カボット海峡を東へ通過して、前回の航海で触れていなかったので「海峡」と報告
     サンピエール・ミケロン諸島に到達し、上陸してサンピエール島と命名
     大西洋を一路東へ横断航海してフランスへ向う
07/15、サンマロ港に帰港、
     14ヵ月の探検航海が成功裏に終る。

こうしてカナダの探検が成功し、「カナダの黄金」と「カナダのダイアモンド」を持ち帰ったので、国王はカナダに植民地を建設するため、ジャン・フランソワ・デ・ロベルヴァル(Jean-Francois de Roberval 1500-1560)をニューフランス総督(Lieutenant General of New France)に任命し、大規模な開拓移民を送り込む計画をたてました。そしてカルティエ船長は大将(Captain-General)の称号を与えられ、第3回目の遠征航海に出帆することになりました。

なお、セントローレンス河は、1534年にジャック・カルティエ船長が第1回探検航海で河口発見し、第2回探検で河川を航行したものの、当時はモントリオール付近に滝の様な激流ラシーヌ瀬があり、船ではそこまでしか航行できませんでした。※煎じた液とはどうやって煎じたのだろう?、熱を加えるとビタミンは壊れるんとちゃうかな。

第2回探検航海:その他の主な随行者:〜
 ・ギョーム・ル・ブルトン・バスティーユ(Guillaume Le Breton Bastille)、エメリョン号
 ・ローレンス・ボーラン(Laurens Boulain)
 ・エスティエンヌ・ノウエル(Estienne Nouel, nephew)、甥
 ・アンソーニュ・ドゥ・グランシュ(Antoine Des Granches)
 ・ギヨーム・アントワーヌ・アリエクテ(Guillaume et Antoine Aliecte)
 ・ミシェル・フィリポ(Michel Philipot)
 ・ミシェル・オーディヴー(Michel Audiepvre)
 ・ルーカス・ソーミュール(Lucas Saumur)
 ・リチャード・コバス(Richard Cobaz)
 ・ゲオルグ・メイビル(Georget Mabille)
 ・ロビン・ル・トート(Robin Le Tort)
 ・ジャック・デュ・ボグ(Jacques Du Bog)
 ・ギヨーム・ル・ブルトン宣教師(dom Guillaume Le Breton)
 ・ドミニク・アンソーニュ宣教師(dom Dominique Anthoine)
 ・ドイツ系3人のマインゲルト(Maingart)
 ・現地人2人:ドマガヤとタイニョアニ(8ヵ月半滞在で洗礼済&フランス語を修得)
 ・その他、ドイツ系3人のマインゲルト(Maingart)など計:110人(112人説有)

カルティエ船長航海の主な地名:〜
(往路)
 ・フランスのサンマロ港(Saint-Malo, Ille-et-Vilaine、Brittany, France)
 ・ニューファウンドランド島(Newfoundland Island)
 ・ベルアイル島(Belle Isle Island)
 ・ベルアイル海峡(Belle Isle Strait)
 ・ラプラドル半島(Labrador Peninsula)
 ・ナタシュカン川(Natashquan river 410km , Quebec)
 ・アンティコスティ島(Ile d'Anticosti)
 ・カルティエ海峡(Jacques Cartier Strait)
 ・ガスペ半島(Gaspe Peninsula)
 ・セント・ローレンス河々口(Mouth of St.Lawrence River)
 ・セントローレンス河(St.Lawrence River, 1,197km)
 ・セテ・イル(Sept-Iles)
 ・川中島のスタダコナ島(Stadacona Island)、現オルレアン島(Ile d'Orleans)
 ・スタダコナ(Stadacona)、現ケベック市(Quebec City)
 ・サン・ローラン湾(Saint-Laurent bay)、現サントジュヌビーブ湾(Sinte-Genevieve bay)
 ・セントクロイ(Sainte-Croix)、
   モトリオール北東の現セント・チャールス・スル・リシュリュゥ(Saint-Charles-sur-Richelieu, Quebec)
 ・セントクロイ川(riviere Sainte-Croix、ケベック市東の現セント・チャールス川:Saint-Charles river, 33km)
 ・スタダコナ岬(cape of Stadacona)、セントクロイ川対岸
 ・アシュラシィ(Achelacy)、ケベック州ポルトニューフ(Portneuf, Quebec)
 ・アングレーム湖(Angouleme lake)、
   現サン・ピエール湖(Saint-Pierre lake)、ケベックとモントリオールの中間付近に有
 ・川中島のオシュラ群島(Hochelaga Archipelago)、現モントリオール諸島(Montreal Islands)
 ・オシュラ(Hochelaga)、現モントリオール(仏:モン・レアル(Mont Real)、英:モントリオール(Montreal)
 ・モン・レアル(Mont Real:王の山)、現ロイヤル山(Mt. Royal)
 ・サン・ローラン(Saint-Laurent bay)、現サントジュヌビーブ(Sainte-Genevieve)
 ・ラシーヌ瀬(Rapides de Lachine)
(帰路)
 ・オシュラ(現モントリオール)
 ・リヴィエール・ド・フォウェズ(riviere de Fouez)、現サン・モーリス川(Saint-Maurice River, 563km)
 ・スタダコナ(現ケベック)
 ・スタダコナの現サン・チャールズ川(Riviere Saint-Charles, 33km)
 ・サンジャン湖(Lake Saint-Jean)
 ・サグネ川(Saguenay River, Quebec, 160km)
 ・サグネ(Saguenay)、ケベック・シティより北へ200km
 ・セントクロイ川、ケベック市東の現セント・チャールス川
 ・セント・ローレンス河々口
 ・ガスペ海峡(Gaspe Strait)
 ・マドレーヌ諸島(Magdalen Islands)
 ・ケープ・ブレトン島(Cape Breton Island, Nova Scotia)
 ・ケープ・ブレトン島北端ノース岬(Noth Cape)
 ・カボット海峡(John Cabot Strait)
 ・ニューファウンドランド島
 ・サンピエール島、現サンピエール・ミケロン諸島(Saint-Pierre et Miquelon Islands)
 ・フランスのサンマロ港

参考:〜
ラシーヌ瀬
 (英:Lachine Rapids、仏:Rapides de Lachine)
ラシーヌ瀬はモントリオール島と南岸との間のセントローレンス河にある幾つかの連続した急流で、ここに来た最初の欧州人は、ジャック・カルティエ船長でした。船長は1535年にセントローレンス河を溯り北西航路を発見したと信じていました。ここで溺死した乗組員ルイ(Louis)の名に因んで、サンルイ(Saint-Louis)と命名し、その名はその後にサンルイ湖にもつけられました。19世紀の半ばに近隣市の名のラシーヌ(Lachine)に改名されました。これは、この地で急流に行く手を阻まれた際、これが中国(英:China、仏語:la Chine:ラ・シーヌ)への道を阻むものだと考えて「中国の急流」と名づけたことによるといわれています。1611年には、シャンプラン船長がサンルイ滝(Sault Saint-Louis)もしくはサンルイ湖(Lac Saint-Louis)と命名。
激流と戦う

ギニア・ビサウ 2007 発行
現在は、南岸の運河セントローレンス海路(Saint Lawrence Seaway、建設期間1954-1959)の完成により、船で通過できるようになりました。それ迄は一度モトリオールで陸揚げして、鉄道に詰替えて再度、船に積んでいたので、モトリオールは物資の集積地として繁栄しました。

・参考HP〜
カルティエ船長の航海地図(第2回、1535-36)
カルティエ船長の航海地図(仏語、第1回、第2回)
カルティエ船長の航海地図(英語、第1回、第2回、ラシーヌ瀬が有)

セント・ローレンス河の地図(水系)
セント・ローレンス河の地図
 (モントリオール、ケベック、アンティコスティ島、マクダレン諸島、セント・ジョン有)
ナタシュガンの場所地図
ナタシュガン川の場所地図
アンティコスティ島の場所地図(ナタシュガン、カルティエ海峡有)
カルティエ海峡の場所地図(ケベックからアンティコスティ島、セント・ローレンス湾までの地図)
オルレアン島の場所地図
セント・チャールス川の場所地図
  (アブラハム平原、ケベック要塞市、オルレアン島有)
ケベックの場所地図(モントリオール、セントローレンス河々口有)
サン・モリスの場所地図(町)
サン・モリスの場所地図(川)
サン・ピエール湖の場所地図
 (セント・ルイス湖、モントリオール、サン・ピエール湖、トロワ・リヴィエール市など有)
モントリオールの地図(モントリオール島付近の地図)
モントリオール諸島の配置図
モントリオールの場所地図(五大湖からセントローレンス河々口までの広域地図)
セント・チャールス・スル・リシュリュゥの場所地図

セントローレンス湾の地図
セントローレンス湾の地図(日本語)
ケベック州の場所地図
サグネ川の場所地図(カナダの地図上に主要河川名、サグネ川(Saguenay)有)
ケープ・ブレトン島の地図
カナダの地図(日本語)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     03/10/10、04/12/8、07/3/31、08/11/30、14/5/13
★カルチエ物語、第1回、第2回、第3回
スタンプ・メイツ
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