★スペイン ホセ・ド・ガルヴェス
1761、ニュースペインへ渡航
1775、スペインのインディアス大臣
大航海物語★

   ESPANA
   
   スペイン 1963/10/12 発行
ESPANA
新大陸からスペインへお宝を運んだ
スパニッシュ・ガレオン船
Spanish Galeon


スペインから新大陸へは人と物資を輸送
サハラ・アラブ共和国 1998 発行
PERU
南アメリカの地図



ペルー
ペルーの 200海里
排他的経済水域を表す地図
ペルー 1983/3/25 発行
サンディエゴ





MEXICO

メキシコ 1915-16 発行
←メキシコシティ
←ベラクルス
←ユカタン半島

ホセ・ド・ガルヴェスは1761年に大西洋を越えてニュー・スペインに渡り、ニュー・スペインの改革を成し遂げ、帰国してニュー・スペインを担当する大臣になりました。

ホセ・ド・ガルヴェス・イ・ガジャルド、ソノーラ侯爵 (1720〜1787)
 Jose de Galvez y Gallardo, marques de Sonora

 スペインのアンダルシア州生
 スペインのマドリード、67才没
 ニュー・スペイン総督:在任1764-1772
 インディアス大臣:在任1775-1787
ホセ・ド・ガルヴェスはスペインのマカラヴィエラ(Macharavialla, Community of Andalucia, Spain)で生まれました。ガルヴェスはスペインのブルボン改革で重要な役割を担ったファミリーの一員で、兄弟にグァテマラ総督(Captain General of Guatemala 1779/4-1783/4/3)で、後にニュースペイン副王(Viceroy of New Spain, 1783/4/29-1784/11/3)になったマティアズ・ド・ガルヴェス将軍(Matias de Galvez y Gallardo 1725-1784) がおり、従兄弟にルイジアナ総督(governor of Louisiana, 1777-1785)で後にニュースペイン副王(Viceroy of New Spain, 1785/6/17-1786/11/30)になったベルナルド・ド・ガルヴェス伯爵(Bernardo de Galvez y Madrid, Viscount of Galveston and Count of Galvez 1746-1786)がいました。

スペインでは1756年に勃発した七年戦争(Seven Years' War、1756-1763)に、カルロス3世(Carlos III, 1716-在位1759-1788)の下で、フランスの要請でイギリスに参戦して、1763年に敗れました。

ホセ・ド・ガルヴェスは1761年迄フランスのスペイン大使館で法律家として働きました。1761年にガルヴェスは41才で大西洋を越えてニュースペイン(現メキシコ)に渡りました。1764年にヌエヴァ・エスパーニャ(ニュー・スペイン)総督(New Spain, 1764-1772)となり、全権限を掌握すると改革に取り掛かり、タバコとパルク酒(Parc Liquor)の独占権を施行。ニュースペインのヴェラクルスとアカプルコの改革を成し遂げました。その結果、政府の販売収入は1763年には600万ペソ、1767年800万ペソ、1773年1200万ペソと増加の一途をたどりました。1765年には植民地陸軍の再編成を成し遂げ、”モント・セラットの戦い”で勝利を勝ち取りました。カルロス3世がロシアのアラスカへの拡大を心配したので、ガルヴェス総督は海軍の確立をなし、1769年にはポルトラ総督に命じたサンディエゴ遠征作戦を行い、1770年にはモンテレイ作戦を実施し、1771年の後半にはカリフォルニヤ湾遠征を成し遂げました

ガルヴェス総督は1772年に通商会議に西インドの貨幣鋳造と鉱業の担当メンバーとしてスペインへ帰国しました。スペイン国王カルロス3世は1775年にガルヴェスをインディアス大臣(Minister of the Indies, 1775-1787)に指名しました。新世界の担当地区は、現:フィリピン北部ルソン島のカガヤン・バレー地方(Cagayan Valley, Region II)に属するヌエヴァ・ヴィスカヤ州(Province of Nueva Vizcaya)、メキシコ北東部メキシコ湾西岸の中央部で現:タマウリパス州(Tamaulipas)のヌエヴォ・サンタンデール州(Nuevo Santander)、メキシコ北西部のソノラ州(Sonora y Sinaloa)、現:米国のカリフォルニア州(Las Californias)、コアウイラ・イ・テハス州(Coahuila y Tejas:or:Coahuila and Texas:コアウイラ・アンド・テキサス)、現:米国のニューメキシコ州(Nuevo Mexico)で、ガルヴェス大臣はニュースペインの北部地域の組織編制を成し遂げました

1776年にペルー副王領(territories of the Viceroyalty of Peru)から、リオ・デ・ラ・プラタ副王領(Viceroyalty of Rio de la Plata)を分離しました。1777年にはヴェネズエラ(Captaincy General of Venezuela)をニュー・グラナダ副王領(Viceroyalty of New Granada)から分離しました。1785年に、カラカスの外港として発展したベネズエラ中北部バルガス州バルガス市にある港湾都市で同州の州都ラ・グアイラ (La Guaira)でスペインとヴェネズエラとの貿易に携わっていた会社(Compania Guipuzcoana de Caracas, 1728-1785)を再編して、新会社(Real Compania de Filipinas)を創設。また、1785年にカルロス3世の勅令で、インディアス枢機会議(Consejo de Indias)がインディアス総合古文書館(Archivo General de Indias)に置かれることになり、その計画の責任はインディアス担当大臣のガルベスに委ねられました。彼はその実務を歴史家のフアン・バウティスタ・ムーニョス(Juan Bautista Munoz, 1745-1799)にまかせました。その目的は、当時シマンカス(Simancas)、カディス(Cadiz)、セビリャ(Seville)に分散していた植民地に関して蓄積されてきた文書を一つ屋根の下に統括することでした。なお、インディアス総合古文書館は、セビリアの旧商品取引所(Casa Lonja de Mercaderes)に置かれている公文書館で、アメリカ大陸やフィリピンにおけるスペイン帝国の歴史を明らかにする上で、比類のない史料群が収められていて、1987年にユネスコの世界遺産に「セビリアの大聖堂、アルカサル、インディアス古文書館」(Cathedral, Alcazar and Archivo de Indias in Seville)として登録されました。

1780年にメキシコのクロイ副王(Teodoro de Croix, 1730-1792)のもとに、査察官として派遣されました。1784年にインディアスへ黒人奴隷輸入税(excise tax)を創設しました。1785にソノーラ侯爵(Marques de Sonora)に叙任されました。1787年にガルヴェスはスペイン・マドリード州南部で首都マドリードから南に48kmのアランフエス(Aranjuez, Community of Madrid, Spain)にて67才で亡くなりました。

参考HP:〜
スペイン領カリフォルニアの場所地図(Nueva Espana, 19世紀)

こちらで
七年戦争
  (1756-1763)、スペイン編
  Seven Years' War

ハバナの戦い
  Battle of Havana (1762/6/6-8/13

マニラの戦い
  Battle of Manila (1762/9/24-10/6

パリ条約
  Treaty of Paris 1763

をお楽しみください。

ブルボン改革
  Bourbon Reforms

ブルボン改革は、18世紀のブルボン家統治下のスペイン王室による、スペイン本国と、後にそのアメリカ植民地の政治的経済的支配の増加を意図した一連の対策のことで、改革の主目標はハプスブルク家の王がカトリック教会と商人のギルドなどの組織に権限を委任していた権力を、王室に取り戻すことでした。このため、改革はしばしばスペイン王室の権力以外を防御した中間的な実体を排除しました。

・スペインの衰退(18世紀)
1700年のブルボン家へのスペイン王室の賠償と、スペイン継承戦争(1701-1714、北アメリカ大陸ではアン女王戦争、1702-1713)の後にスペインはユトレヒト条約(1713/3 & 4月)でジブラルタル及びミノルカ島をイギリスに割譲、アメリカ大陸とのイギリスの貿易を許可し、ラシュタット
スペインの闘牛

マタドールの演技
スペイン1960/2/29発行
和約(1714/3/6)でヨーロッパでの所有地(オーストリアがスペイン領ネーデルラント・ミラノ・ナポリ・サルデーニャを領有)を譲りました。スペイン・ブルボン朝最初の国王フェリペ5世(Felipe V, 1683-在位1700-1724、1724-1746)はスペインの権力の衰退に対抗することを意図した対策を実行し、軍隊の数を増加させ、競争から地域経済を保護するも、彼らは単なる貴金属の資源としか見なしていなかった新世界アメリカの植民地を考慮に入れす、これらの対策の失敗は、スペインがカルロス3世の下で、イギリスとの七年戦争(1756-1763)に敗れた時に明白になりました。

・行政改革
非常に広大であった副王領は、辺境地域の監督が行き届かず、常に他の欧州列強国の標的にされていたので、ペルー副王領は3つに分割(Virreinato del Peru, 1542-1824)され、1717年にヌエバ・グラナダ副王領(Virreinato de la Nueva Granada, 1717-1819)、1776年にリオ・デ・ラ・プラタ副王領(Virreinato del Rio de la Plata, 1776-1814)が新たに創設されました。さらにチリのカラカスに総督領を置き、長官領も設置されました。また、税収の効率化のために、本国スペインから監察官(インテンデンテ)を派遣し、副王の下に置かずに、行政、財政、司法、警察の権限を持たせるインテンデンシア制も導入されました。植民地のコレヒドール(Corregidor)官職は廃止されました。

アメリカ大陸生まれの官僚(クリオーリョ)制度は、王室の直接の任命によって(より適任と推定される)スペイン人の役人に取り替えられ、領土は管理の目的のためによりよく分割されました。 教会の場合では、改革の主要な効果の一つは、イエズス会の修道士が伝道所から追放されたことでした。

・独占貿易の廃止
スペインは重商主義政策のもと、植民地との貿易をカディス港のみで独占していましたが、この頃には国力の衰退と財政難で独占の維持が困難になっており、また実際には他の欧州諸国との密貿易も行われていました。カルロス3世はまず1765年以降に、カディス港の独占貿易を廃止していき、スペインで13、植民地で21の港を開放しました。

参考HP:〜
ニュー・スペインの植民地区分地図(副王領:1819、北米・中米の地図)
ペルー副王領の場所地図(1650:dark green、Viceroyalty 1816:dark brown)
ヌエバ・グラナダ副王領の場所地図
リオ・デ・ラ・プラタ副王領の場所地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。    08/11/22追記、13/3/31、2017/2/27

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