バウンティ号
の反乱物語

ジョン・ハレット候補生
1789
ボートに追放・六分儀を持ち出す、無罪・大尉となる

大航海物語
イギリス
PITCAIRN ISLANDS
ボートに追放されるハレット候補生たち

1789 バウンティ号の反乱200年記念 1989
ピトケーン 1989/4/28 発行
バウンティ号

英領ピトケーン 1988/5/9 発行
六分儀

ソロモン 1979 発行

ISLE OF MAN
ボートで漂流するハレットたち

マン島 1989 発行
fiji
フィジー水道を抜けるブライ艦長のボート

バウンティ号の反乱200年記念
英領フィジー 1989/4/28 発行
Bounty’s longboat being chased
in Fiji waters

ブライ艦長一行が乗せられたバウンティ号のボートがフィージー水道を通過しました。

ジョン・ハレットはバウンティ号に乗り組み、艦長の忠実な部下として働きましたが、反乱に遭遇して艦長と共に追放され、彼が六分儀と航海用テキストを袋に入れて持ち出していたので、その後の生死を分ける漂流に重要な役割を果たし、イギリスに生還できました。
ジョン・ハレット (1772〜1794/12/1)
 John Hallett
海軍大尉 Lieutenant
ブライ艦長夫人によりますと、ハレットは彼女のロンドンから来た友人の弟で、ベドフォード(Bedford)で生まれ、15才のときにバウンティ号に乗船し、ヘイワード候補生の友達だったということですので、1772年生まれということになります。彼はバウンティ号の他の士官達とは違って余り知られていませんが、上流階級の出身ではなかったようです。

1787年にウィリアム・ブライ艦長が西インド諸島のプランテーションで働く奴隷の安い食料を確保するため、太平洋のタヒチ島から「人手無用で育つ食料の木」と思われていた”パンの木”の苗木を、西インド諸島に運び植林する作戦を命じられました。「パンノキの苗木の輸送作戦」を実施するため南太平洋への航海へ出帆するブライに与えられた船は”バウンティ号”(HMAV Bounty)でした。ブライ艦長は乗組員を募り、ハレットは少尉候補生として15才で乗り組むことが出来ました。

1787/12/23にバウンティ号はイギリス・スピツヘッド海峡近くのポーツマス港を出帆しました。航海中はブライ艦長が乗組員全員に対して、幾つもの欠点をあげつらっては猛烈に叱責しました。1ヵ月後にブライ艦長の命令でマゼラン海峡ではなく、南アメリカ最南端で「吠える60度」という南極海からの強風で年中荒れ狂っていて、船乗りに恐れられていた難所中の難所のホーン岬Cape Horn)を回航してドレーク海峡を抜けて、太平洋へ出てることになりました。ジョン・フライヤー航海長の冷静な指導のもとで嵐の中にホーン岬を望見できましたが、折りしもさらなる大嵐が襲いかかりました。ブライ艦長は「進路を見失った」としてドレーク海峡の突破を断念して、喜望峰への転舵を命令しました。喜望峰周りで無事にインド洋へ出ましたが、そのために2ヵ月もの遅れを出したとして、艦長は航海長のフライヤーを降格し、上級士官の1人フレッチャー・クリスチャン1等航海しを副艦長に抜擢しました。1788/3/10にはマシュー・クィンタルがその横柄で反抗的な態度に、ブライ艦長から24回の鞭打ち刑を受けました。その後の航海中もブライ艦長の厳しい態度に、乗組員の多くが不満を抱いていきましたが、ヘイワードは艦長に忠実に仕えて艦長に取り入ってシニア少尉候補生となり、クリスチャン副長を嫌っていました。
バウンティ号は10ヵ月以上の航海の後、1788/10/26にタヒチ島に到着しました。1789年4月までの約半年間を”パンの木”の苗木やその他の植物を搭載するためにタヒチ島に滞在しました。その期間中、クリスチャン副長はタヒチの女性と結婚し、その他の多くの船員も現地生活を楽しみました。島での約6ヵ月間の生活は水夫たちにしてみれば楽園だったのでした。水夫の多くは短気なブライ艦長と再び航海に出るのをますます嫌うようになりました。3人の水夫が仕事を放棄して逃げようとしたため、ブライ艦長は鞭打ちの刑を科しました。そして”パンの木”の苗木を積み込んだバウンティ号は、1789/4/4にタヒチ島を出帆しました。 タヒチ島

仏領ポリネシア 1986/8/28 発行
1789/4/28にフレンドリー諸島(トンガ)近海に差しかかった時に反乱が起きました。イギリス出帆時から艦長の厳しさに不満を抱いていた乗組員達は、”パンの木”の苗木を積み込んでからの、水の制限により、不満が一気につのりました。クリスチャン副長をそそのかして味方につけ、1789年4月28日早朝に副長と反乱者達が船を乗っ取り、ブライ艦長達を1隻のボート(longboat、ランチ・救命艇)に押し込めて船から追放しました。当時乗組んでいた46人の内、途中で死亡していた2人を除き、反乱者はクリスチャン副長以下12人でした。ブライ艦長以下19人はボートに乗せられて追放され、反乱に加わらなかった者のうち艦長と行を共にしなかった(ボートに乗れなかったか、直接手は下さなかったが反乱に同調したという説も有)13人は船に残されました。
艦長に忠実だったハレットもボートに追放されました
ボートで漂流するハレットたち
ハレットが袋の中に入れて、「六分儀と航海用テキスト」を持ち出していましたが、それがその後の生死を分ける漂流に重要な役割を果たしました。ブライ艦長が指揮するボートは、海図無しで六分儀と艦長が持っていた時計のみで航行し、トンガのトフォア島を経由して45日かけて、ニューギニアとオーストラリアの間の早い潮流の難所トレス海峡を通り、1789/6/12にオランダ領チモール島にたどり着きました。約1年後の1790/3/4ブライ艦長以下15人が英国に生還できました。同年3/15にブライ艦長たちはイギリスで反乱を報告しました。 チモール島

その後のハレットの消息は定かではありませんが、一説によると、パンドラ号に乗船してバウンティ号反乱者の追跡捜索に案内役として、ヘイワードと共に加わった後に、帰国後、ペネロープ号(Penelope)に乗艦し、同艦が嵐で沈没したときに艦と運命を共にしたという説で、ペネロープ号の乗艦者名簿にジョン・ハレット海軍大尉の名があるようです。

もう一つは、両方の肢に一時的な麻痺(paralysis)症状が出ていたのをのりこえて、ブライ艦長の第2回「パンの木の苗木」輸送作戦に同行して、その成功後の帰国後、肘の麻痺が再発したので、退役して郷里のベドフォード(Bedford)に帰り、1794/12/1に22才で亡くなり、聖メアリー教会(St. Mary's church)に葬られたという説です。

そして、さらに、ボートに追放されてから、ずっとオールを漕ぎ続けていたので、両方の肘を痛めて、帰国後それが悪化して彼を苦しめ、郷里に帰って亡くなり、息子を誇りにしていた両親が立派な墓をベドフォードの教会に作り、供養したという説も有ります。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      08/1/27
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