★ロシア |
ゴローニン提督
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大航海物語★ |
ローニン提督 |
ディアナ号、1807 |
1809 ヴァヌアツ寄航200年記念 2009 バヌアツ 2009 発行 |
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北極洋 ウランゲリ島 チュクチ海 ↓ |
US AIR MAIL アラスカ州の地図 アメリカ 1959/1/3 発行 |
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ロシア | アラスカ |
←シトカ |
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カムチャッカ半島→ | |||||
↑ ベーリング海 |
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ノーフォーク 1978/8/29 発行 |
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DDR マミヤ(タタール)海峡↓ |
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←樺太(サハリン) ←北方4島(千島列島) ←宗谷海峡(ラ・ぺルーズ海峡) ←北海道 ←小笠原諸島 ←マリアナ諸島 |
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北朝鮮 2001/10/23 発行 小型シートより |
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ROSSIJA POCCUST | ||
ロシア帝国の 軍 艦 旗→ 白地に青色線 大 砲→ イカリ→ |
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FIJI ディアナ号、カムチャッカ号で世界一周航海 太平洋と世界地図 フィジー 1977/4/12 発行 |
ロシア生まれのゴローニン提督は若くしてロシア帝国の海軍士官となって海に出て、イギリス留学後に海軍の暗号を考案しました。極東アジアのカムチャッカへの補給の命を受けて、2度の世界一周航海をなし、第1回目の千島列島探検時には日本に捕えられ、2年間に渡って抑留されましたが、高田屋嘉兵衛との釈放交換で帰国し、日本虜囚記を執筆しました。第2回目の時に北米太平洋岸を探検航海し、帰国後にカムチャッカ号航海記を執筆しました。海軍中将になり、サンクトペテルブルグの海軍主計総監となって200隻以上の軍艦を建造し、同地でコレラで亡くなりました。 |
ワシリィ・ミハイロヴィチ・ゴローニン提督 (1776/4/8〜1831/6/29) Vice Admiral Vasily Mikhailovich Golovnin (中佐でディアナ号の艦長) ロシア帝国海軍航海士(Russian Naval Navigator) ロシア科学アカデミー会員 (1818) ロシア帝国海軍中将 (1823) ロシア・グリニキ生、サンクトペテルブルグ:55才没 ゴローニン提督はロシア帝国のモスクワの東南方向にあるリャザン・オーブラスチ(州)州都リャザンのグリニキ(Gulyniki, Ryazan Oblast, Russia)で生まれました。祖父と父は大北方戦争(Great Northern War 1700-1721)に従軍したプレオブラゼンスキー連隊(Preobrazhensky regiment)の陸軍士官でした。12才で父が亡くなったので、海軍士官学校(Russian Naval College)の幼年学校(Officer Cadet)に入隊し、1790/5(14才)には早くも士官候補生見習いとなり、1790/6にスウェーデンとの海戦に従軍。1792年に15才で卒業し、士官候補生(Midshipman)になりました。1793〜1798年は幾つかの海外遠征航海を勤めました。1798〜1800年の間はマカロフ提督(Vice Admiral M.K.Makarov)艦隊で従軍して、イギリス艦隊と北海で戦いました。 ロシア皇帝アレキサンデル1世(Tsar Alexander I、1777-1825)の命により、1802〜1805年の間はロシア海軍士官留学隊と共にイギリスに渡って、ネルソン提督艦隊、コリングウッド提督(Admirals Collingwood、1748-1810)艦隊、コーンウォリス提督(Admirals Cornwallis、1744-1819)艦隊などで学びました。1806年に帰国すると、海軍の英国式暗号(code of naval signals)を考案しました。それはロシア海軍で、20年以上に渡って使用されました。 ゴローニン提督の大航海:〜 ・第1回航海(1807-1814)〜極東アジア探検航海、ディアナ号艦長で世界一周航海 ・第2回航海(1817-1819)〜極東アジア遠征航海、カムチャッカ号艦長で世界一周航海 ▼極東アジア探検航海(ディアナ号)世界一周航海、1807-1814 ゴローニン海軍中佐(Lieutenant-Commander)はオフォーツク(Okhotsk、Khabarovsk Krai)のカムチャッカ(Kamchatka)半島にあるペトロパブロフスク港への物資補給輸送と世界一周航海の命を受けて、ロシア帝国建造の最初のスループ型武装帆船ディアナ号(Russian sloop Diana)で、1807/7/7にクロンシュタット軍港を出帆しました。1808/4月にホーン岬を回航するも、補給物資の必要性から東へと転舵して、ケープタウンへ向かいました。ところがその当時は折悪しくロシア帝国はフランスと同盟していたこともあって、イギリスの領域に投錨することは危険と思い、1808/5/3にケープタウン近くのシモンズ港(port of Simon's Town)に投錨しました。10ヵ月もの航海で乗組員の健康が悪化してきたので、補給を受けようとしましたが、イギリスの艦隊に見つかり捕えられました。イギリスの司令官はロンドンからの指示待ちをしたので、1年以上も釘づけになりました。1809/5/28に視界は悪いが、風向き、乗組員の士気ともに最高の状態で脱出を企て、泊地に投錨中のイギリス艦隊の間を縫うように帆走して脱出に成功しました。イギリス艦隊の追撃を受けましたが、振り切って逃げ切り、インド洋を横断し、太平洋でヴァヌアツに寄航してからペトロパブロフスク港に入港しました。1810年にはペトロパブロフスク港を出帆、当時シトカ付近にできたばかりの露米会社(Russian-American Company)植民地のバラノフ島(Baranof Island)へ向かいました。その後、クリル諸島(Kuril Islands=千島列島)から北海道にかけて探検調査をしました。 1811年に海軍総監部からクリル諸島の探検調査を命じられ、ディアナ号で千島列島(クリル諸島、Kuril Islands)のエトロフ島(択捉島 Iturup Island=Etorofu)のホープ海峡(Strait of Hope)から同島東海岸までを探検調査して、詳細な地図を作製しました。1811/7月に、艦長ゴローニン中佐がクナシリ島(国後、Kunashir Island)にボートで上陸している時に、8人の乗組員と共に、鎖国していた日本の松前藩の役人に捕えられ、2年間にわたって北海道の松前で投獄・幽閉されました。1813(文化10)/9月に一時帰港していたディアナ号の副艦長リコルド海軍大尉(Petr Rikord 1776-1855)の尽力により、ロシア側が捕らえた高田屋嘉兵衛らの日本人を解放するのと引き換えにゴローニン艦長が捕虜交換で解放され、1813年カムチャッカのペトロパブロフスク港に帰港しました。 1814年にペトロパブロフスク港を出帆して、同年にロシアのサンクトペテルブルグ港に帰国しました。1818年にサンクトペテルブルグ科学アカデミー(Corresponding Member of the Russian Academy of Sciences)会員となり、1819年に「ディアナ号の航海記」(Journey of the Russian Emperor’s sloop Diana from Kronstadt to Kamchatka)を執筆して、その著書に日本での囚われの詳細「日本虜囚の記」(Captivity in Japan During the Years 1811, 1812, 1813)を書きました。その中で、ゴローニンは一緒に捕虜となったロシアの水夫達が字が書けないのに、日本人は誰でも読み書きできて当たり前なことを知って驚いたと述べているのでした。当時の日本でゴローニンと接触できた日本人達は商人や武士の役人で、読み書きできていましたが、一般の人達はごく少数(寺子屋とかで教育を受けた人々)を除いて、読み書きできませんので、当時は「あきめくら(明き盲人)」と呼ばれていたといわれています。 ▼極東アジア遠征航海(カムチャッカ号)世界一周航海、(1817-1819) 高田屋嘉兵衛と釈放交換により解放されたゴローニン艦長は、1817年から1819年にかけてフリゲート艦カムチャッカ号(Russian frigate Kamchatka)で、再度の世界一周航海に、1817/8/26クロンシュタット港を出帆しました。南米のホーン岬(Cape Horn)からカムチャッカ半島のペトロパブロフスク港に入港、900屯の補給物資を届けました。その後、ペトロパブロフスク港を出帆、カムチャッカ号でアラスカ半島南岸のコディアク島(Kodiak Island)のコディアク(Kodiak)居住地に寄港し、アリューシャン列島の探検航海後、1818/10/18にサンドウィッチ諸島(現:ハワイ諸島)のハワイ島ケアラクア湾(Kealakekua Bay)、オアフ島カイルア湾(Kailua Bay)、カウアイ島(Kauai)湾ワイメア湾(Waimea Bay)に寄航し土地の部族長と交流しました。 喜望峰周りで、1819/9/6にロシアのクロンシュタット港に帰り、「カムチャッカ号の航海記」(Around the World on the Kamchatka)を執筆しました。ゴローニン提督はリュトケ提督、マチュシェキン(Fyodor Fyodorovich Matyushkin 1799-1872)、ウランゲル提督(Baron Ferdinand von Wrangel 1796-1870)などをカムチャッカ号の世界一周航海で、一人前の船乗りに育てました。 ▼その後 1821年にロシア帝国海軍学校副学長(assistant director of the Russian Naval College)に推挙されました。1823年にはロシア帝国艦隊の海軍中将(Vice Admiral)に就任し、海軍主計総監(General Quartermaster of the Fleet)となり、補給(造船・衣類・大砲)部門を統括し、ロシア初の蒸気式船舶を含む200隻以上の艦艇を造って艦隊を組織しました。1831年にサンクトペテルブルグでコレラ(cholera)で亡くなりました。 ▼ゴローニン提督の略年表:〜 1776年、グリニキで誕生 1788年、12才で海軍士官幼年学校入隊 1790/5、14才で士官候補生見習い 1790/6、スウェーデンとの海戦に従軍 1792年、16才で海軍士官学校卒業、士官候補生(Midshipman) 1793〜98年、マカロフ提督艦隊でイギリス艦隊と北海戦に従軍 1801〜05年、ロシア海軍士官留学隊と共に渡英、英国艦隊(British fleet)留学 1805年、ロシア海軍の英国式暗号を考案 1807〜09年、ディアナ号で世界一周航海 1811年、エトロフ島のホープ海峡(Strait of Hope)から同島東海岸までを測量、地図作製 クナシリ島を探検・測量している時にディアナ号が日本の松前藩に拿捕される ゴローニン艦長と乗組員8人が捕えられ、2年間も松前で投獄・幽閉される 1813/9、ゴローニン艦長一行がロシア側が捕らえた高田屋嘉兵衛らとの釈放交換で解放 1814年、カムチャッカ経由でサンクトペテルブルグ港に帰国 1817〜19年、カムチャッカ号で世界一周航海 1818年、ロシア科学アカデミー会員 1819/9、サンクトペテルブルグ港に帰国 「ディアナ号の航海記」(日本虜囚の記)、「カムチャッカ号の航海記」を執筆 1821年、ロシア帝国海軍学校副学長 1823年、海軍中将、ロシア帝国艦隊の海軍主計総監、軍艦200隻以上を建艦 1831年、サンクトペテルブルグで没。 アラスカのゴローニン村(village of Golovin, Alaska)、ゴローニン湾(Golovnin Bay)、ゴローニン環礁(Golovnin Lagoon)、千島列島(Kuril Islands)の国後島(Kunashir Island)のゴローニン火山(Golovnin volcano)など、ゴローニン提督に因む名前がアラスカやクリル諸島の海峡、山とかノヴァヤゼムリヤの岬(Novaya Zemlya)に名付けられています。 ・ディアナ号の装備:〜 Diana、1806 (推定)
参考:〜 ・コディアック Kodiak コディアックをこちらでお楽しみください。 参考HP:〜 ・ロシアの地図(日本語) ・ロシアの地図(日本語) ・ロシアの州別地図 ・ロシアの区分地図(下の赤点付近がRyazan Oblast) ・オフォーツクの場所地図 ・リャザン州の場所地図 ・ハバロフスク州(Khabarovsk Krai)の場所地図 ・カムチャッカの場所地図(日本語、ペトロパブロフスク・カムチャツキー有) ・シトカの場所地図 ・アレクサンダー諸島の場所地図(バラノフ島有) ・クリル諸島とオフォーツク海の場所地図(クリル諸島=千島列島) ・クリル諸島の地図(千島列島) ・クリル諸島の地図(千島列島、日本語) ・択捉島の地図(日本語) ・国後島の地図(日本語) ・北海道の港の地図(日本語) ・コディアク島の地図 ・太平洋の探検航海地図(歴史地図、太平洋の主要な寄港地(港)、フォート・ロス有) (ペテルブルグ〜喜望峰〜バタヴィア〜マニラ〜(マカオ・カントン)〜ペトロパブロフスク〜オフォーツク) (ペトロパブロフスク〜ウナラスカ〜コディアク〜シトカ〜ヌトカ〜フォート・ヴァンクーバー〜フォートロス) ・アラスカ湾岸の居住地地図(歴史地図:1790-1884の毛皮取引区域地図、ケナイ半島有) (スリーセインツ湾、コディアク、ノヴォ・アルハンゲリスク(シトカ)、フォート・ヴァンクーバー有) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2011/2/2 |