★ロシア
ゴローニン事件
1811、日本虜囚の記
 日本に抑留される


大航海物語★
ROSSIJA POCCUST
千島列島の航海地図、ディアナ号
ゴロ|ニン提督 クレムリン
1811 ゴローニンの航海183年記念 1994
ロシア 1994/11/22 発行
日本郵便 NIPPON
北海道と北方4島

日本 2005/8/22 発行




←エトロフ(択捉)島
クナシリ(国後)島
←シコタン(色丹)島
←ハボマイ(歯舞)諸島



←ラッコ
      DDR
  マミヤ(タタール)海峡↓


←樺太(サハリン)
北方4島
千島列島
←宗谷海峡(ラ・ぺルーズ海峡)
←北海道







小笠原諸島


マリアナ諸島
北朝鮮 2001/10/23 発行
小型シートより

             TURKEY
              ユーラシア大陸の図
サンクトペテルブルグ6200km イルクーツク4000kmカムチャッカ

←カムチャッカ半島

←日本
アジアとヨーロッパを結ぶ”ボスポラス海峡”大橋「渡り初め」記念
トルコ 1970/2/20 発行

ゴローニン事件
  日本虜囚の記、1811
   Golovnin Captivity

1807/7/7に艦長ワシリィ・ゴローニン中佐が乗船するロシア帝国スループ型武装帆船ディアナ号(20-gun Armored Russian Sloop-of-War)がオフォーツクのカムチャッカへの物資補給輸送と世界一周航海にクロンシュタット軍港を出帆しました。10ヵ月もの航海でケープタウン付近へ到着、1808/5/3にケープタウン近くのシモンズ港(Simon's Town)に投錨しましたが、イギリスの艦隊に見つかり捕えられ、1年以上もそこに釘づけになりました。1809/5/28に脱出を企て、英艦隊の間を縫うように帆走して脱出に成功しました。イギリス艦隊の追撃を振り切って逃げのびてインド洋を横断し、太平洋からカムチャッカ半島のペトロパブロフスク港に入港しました。1810年にはペトロパブロフスク港を出帆、当時シトカ付近にできたばかりの露米会社(Russian-American Company)植民地のバラノフ島(Baranof Island)への航海をなしました。

1811(文化8)年に海軍総監部から南千島列島の探検調査を命じられ、ゴローニン艦長はディアナ号でクリル諸島(Kuril Islands)の探検に向い、エトロフ島(択捉島 Iturup Island=Etorofu)のホープ海峡(Strait of Hope)から同島東海岸までを探検調査・測量して、詳細な地図を作製しました。その後、ディアナ号の薪や水が欠乏したので、クナシリ島(国後、Kunashir Island)への寄港を目指しました。鎖国していた日本でクナシリ(国後)島を守備していた南部藩兵はディアナ号を発見すると、4年前のロシア船のエトロフ(択捉)島襲撃事件もあったので、ディアナ号を攻撃しました。ボートで上陸していたゴローニン艦長と8人の乗組員は捕らえられ、松前藩の松前へ移送され、2年間に渡って松前で幽閉・抑留されました。

ゴローニン艦長らを捕えて、ディアナ号に対し砲撃する日本側に対し、ディアナ号の副艦長ピョートル・リコルド海軍大尉(Petr Rikord 1776-1855)はディアナ号を指揮してペトロパブロフスク港へ帰港しました。リコルド副艦長はゴローニン艦長らの釈放を求めるため、翌1812(文化9)年にディアナ号でクナシリ(国後)島近海に来航してきました。日本側はゴローニン艦長らを処刑したと偽って拒絶し、ディアナ号に対し砲撃しました。そこでディアナ号は沖合いを航行する一隻の日本船「観世丸」を発見し、ゴローニン艦長らの消息を聞き出すために捕えました。その船に乗っていたのが、エトロフ(択捉)島の漁場視察中の高田屋嘉兵衛でした。嘉兵衛はペトロパブロフスク港へ連行されました。嘉兵衛はそこに滞在中、リコルド副艦長と同じ部屋で起居して越冬し、「一冬中に二人だけの言葉をつくって」話し合い、ロシア語も勉強して両国間の事情を調べ、先年のエトロフ(択捉)島襲撃事件は露米会社支配人ニコライ・レザノフ男爵(Nikolay Petrovich Rezanov 1764-1807)がかってにやったことであり、ロシア政府の命令でなかったこと、ロシアは侵略の意図は無いことを知り、ロシア政府が幕府に謝罪すれば、ゴローニンらは釈放されるであろうと、ねばり強く説明しました。日露間の非常に難しい問題に、嘉兵衛は事件の解決のために全力をもってあたり解放に尽力しました。その結果、ゴローニン艦長らと高田屋嘉兵衛の釈放交換がおこなわれ、日露の紛争平が和裡に解決されることになました。

1813(文化10)年にリコルド副艦長は日本人漂流民を使者・交換材料として乗船させて、再びディアナ号で南千島列島に来航。8月にはクナシリ(国後)島においてゴローニン艦長らと日本人漂流民の交換を求めましたが、日本側はゴローニンらを処刑したと偽り拒絶して、ディアナ号に砲撃してきました。9月にはリコルド副艦長の尽力により、ゴローニン艦長はロシア側が捕らえた高田屋嘉兵衛らの日本人を解放するのと引き換えに釈放交換で解放され、ペトロパブロフスク港経由でロシアへ帰国しました。この一連の事件解決には高田屋嘉兵衛の説得と交渉があったといわれています。

ゴローニン艦長が帰国して執筆した「日本虜囚の記」は、 ロシアのみならずヨーロッパ各国でも翻訳され、広く読まれました。リコルド副艦長もその顛末記を執筆しました。嘉兵衛はゴローニン艦長の救出に携わった高潔な日本人として、その存在がロシアとヨーロッパに知れ渡りました。日本では1825(文政8)年にオランダ本から訳され「遭厄日本紀」として紹介されました。ゴローニン艦長らは抑留中に、村上貞助や上原熊次郎にロシア語を教えました。

その後も、幕府による異国船打払令が出されるなかにロシア船は漂流民返還のために来航し、幕末の1853(嘉永6)年にプチャーチンが通商条約締結のため、長崎・下田へ来航しました。

参考:〜
露米会社のエトロフ(択捉)島襲撃事件
高田屋嘉兵衛が北方で活躍していた頃、ロシア貴族で露米会社を設立した露米会社支配人ニコライ・レザノフは、12年前の1792/10月に大国屋光太夫ら日本漂流民を日本(根室)に送ってアダム・キリロヴィチ・ラクスマン(Adam Kirillovich Laxman、1766-1806頃)が根室に来航した時の幕府の回答にもとづき、文化元年(1804)年長崎に来航して通商を求めました。幕府は彼らを半年近くも待たせたうえ、通商を拒絶しました。レザノフは日本の門戸を開かせるためには、武力で脅かすより方法はないと考えて、武力行使で幕府に通商を認めさせようと、部下に千島列島の攻撃を命じました。1807(文化4)年、露米会社の武装船2隻はエトロフ(択捉)島を襲い、南部・津軽両藩の守備隊を破り、番屋や会所に乱入し、物品を奪ったり、建物を焼いたりの蛮行事件を起しました。松前奉行支配調役戸田亦太夫は、その責任をとって切腹しました。

幕末頃の日ロ関係略年表:〜
1792年、アダム・ラクスマンが日本人漂流民の大黒屋光太夫らを伴い来日
1804/9月、ニコライ・レザノフが日本人漂流民の津太夫一向を返還し、通商を求めるために
       長崎へ来航後、半年以上に渡り半軟禁状態に置かれる
1805/3月、長崎奉行所で遠山景晋が通商を拒絶、レザノフは漂流民を返還して長崎を去る
1807年、レザノフがフォボストフらロシア軍人2人を雇い露米会社の武装船2隻で択捉島を襲い
      南部・津軽両藩の守備隊を破り、番屋や会所に乱入し、物品を奪ったり、
      建物を焼いたりの蛮行事件を起す
      幕府は東北諸藩に臨戦態勢を整えさせて蝦夷地沿岸の警備を強化、北方探査も行う
      ロシアではフォボストフらは処罰されるも、日本の報復を恐れて日露関係は緊張
1808年、長崎でフェートン号事件が起き、日本の対外姿勢は硬化
1813年、ゴローニンと高田屋嘉兵衛の釈放交換がおこなわれ日露紛争が平和裡に解決される
1853年、プチャーチンが通商条約締結のため、長崎、下田へ来航

・参考HP:〜
 ・ロシアの地図(日本語)
 ・ロシアの地図(日本語)
 ・ロシアの州別地図
 ・オフォーツクの場所地図
 ・ハバロフスク州(Khabarovsk Krai)の場所地図
 ・カムチャッカの場所地図(日本語、ペトロパブロフスク・カムチャツキー有)
 ・シトカの場所地図
 ・アレクサンダー諸島の場所地図(バラノフ島有)
 ・クリル諸島とオフォーツク海の場所地図(クリル諸島=千島列島)
 ・クリル諸島の地図(千島列島)
 ・クリル諸島の地図(千島列島、日本語)
 ・択捉島の地図(日本語)
 ・国後島の地図(日本語)
 ・北海道の港の地図(日本語)
 ・コディアク島の地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。    11/2/3
スタンプ・メイツ
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