★ロシア |
フェドール・リュトケ提督 1827年 アラスカとベーリング海峡を探検航海 |
大航海物語★ |
ROSSIJA POCCUST | ||
北極探検の航海地図 | ||
セニ ャ|ヴ ィン号 |
リ ュトケ船長 |
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1824 リュトケ船長の航海170年記念 1994 ロシア 1994/11/22 発行 |
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ロシアの戦艦 Armed shio Ingermanland 1715 ソビエト連峰 1971/12/15 発行 |
FIJI セニャーヴィン号で世界一周航海 太平洋と世界地図 フィジー 1977/4/12 発行 |
リュトケ提督はロシア帝国海軍に15才で入隊して間も無く、1817年のゴローニン極東アジア遠征航海に参加して世界一周航海をしました。そして、1821年から3年にわたる北極探検航海を成し遂げました。1826年にはクロンシュタット軍港を出帆、極東アジアのカムチャッカから、ベーリング海、アラスカ方面の探検航海をなし、オセアニア方面の探検航海後に、およそ3年にわたる航海で世界一周航海を達成。帰国後に探検航海記を出版しました。 |
提督フェドール・ペトロヴィッチ・リュトケ伯爵 (1797/9/28〜1882/8/28) Admiral Count Fyodor Petrovich Litke ロシア帝国海軍航海士(Russian Naval Navigator) 地理学者(Geographer)、北極探検家(Arctic explorer) ロシア科学アカデミー会員 (1829)、フランス科学アカデミー会員 ロシア科学アカデミー会長 (ペテルブルグ 1864-1882) ロシア地理学協会会長 (1845-1850、1857-1872) ロシア帝国海軍大将 (1855)、伯爵(Count 1866)、ロシア生、84才没 リュトケ提督の祖父ヨハン(Johann F. Litke)はドイツのルター派牧師で、1745年にドイツからモスクワ(Moscow)へルター派の布教のために移住しました。リュトケ提督はルター派の学校で先祖のルター派ドイツ語を学びました。1813年にロシア帝国海軍に15才で入隊しました。 リュトケ提督の大航海:〜 ・第1回航海(1817〜1819)〜ゴローニン極東アジア遠征航海、カムチャッカ号で世界一周航海 ・第2回航海(1821〜1824)〜北極探検、ノヴァヤ・ゼムリヤ探検 ・第3回航海(1826〜1829)〜極東アジア探検航海、セニャーヴィン号で世界一周航海 1817年にゴローニン提督(Vasily Mikhailovich Golovnin 1776-1831)の極東アジア遠征航海に、19才でロシア帝国海軍戦艦カムチャッカ号(Kamchatka)に士官候補生で乗船して参加。1819年に帰港。 1821年に北極探検隊を率いて、ノヴァヤ・ゼムリア(Novaya Zemlya)、白海(White Sea)、バレンツ海(Barents Sea)の東部を主に海岸沿いに探検して、1824年に帰港。 1826年にセニャーヴィン号(corvette Seniavine)の艦長として、スタニュコヴィッチ艦長(Mikhail Nikolaievich Staniukovich)のモラー号(sloop Moller)を随伴して、世界一周航海にクロンシュタット軍港(Cronstadt)を出帆。ホーン岬を回航して、太平洋を北上してベーリング海峡を抜け、ベーリング海(Bering Sea)の西部海岸を探検航海しました。
1835年にロシア帝国皇帝ニコライ1世(Tsar Nicholas I Pavlovit 1796-1855)の次男コンスタンチン・ニコラエヴィチ大公(Grand Duke Konstantin Nikolayevich of Russia 1827-1892)の家庭教師に指名されました。 1839年に験潮儀(tide measurer)のアイデアを世界最初に考案し、1841年に大西洋岸と大平洋岸に設置しました。リュトケ提督はロシア地理学協会(Russian Geographical Society)の設立者の一員となり、1845〜1850年の間と1857〜1872年の間に2度に渡って理事長を務めました。1846年には海軍科学協会(Naval Scientific Committee)の議長に就任。1850年にポートロイヤル(ports of Reval、現:タリン(Tallinn)の海軍総司令官(commander-in-chief)兼、陸軍総督、後にはクロンシュタット知事(Kronstadt)に就任、1857年まで務めました。1855年にロシア皇帝の最高輔弼機関のロシア帝国国家評議会(Russian State Council、ドゥーマ Duma)議員に推挙されました。1873年にロシア地理学協会はリュトケ提督に金賞(gold medal)を授与しました。 リュトケ提督はロシアの航海士(navigator)、地理学者(geographer)、北極探検家(Arctic explorer)、1866年に伯爵(count)、1855年に提督(admiral)、1829年にサンクトペテルブルグ科学アカデミーの会員(Corresponding Member)、1855年に名誉会員(Honorable Member)、1864年に理事長(President of the Russian Academy of Science in St.Petersburg)。パリのフランス科学アカデミー会員(Corresponding Member of the French Academy of Science in Paris)になりました。 バレンツ海でノヴァヤ・ゼムリアのゼムリャフランツァヨシファ(Zemlya Frantsa-Iosifa、Franz Josef Land)の岬や半島や山にリュトケ提督に因んだ名前が付けられました。例、カラ海南部のヤマル半島南にあるイタラタ湾(Baydaratskaya Bay)のリュトケ島、ノルデンスクジョルド諸島(Nordenskiold Archipelago)のリュトケ諸島。そして、カムチャツカ半島の西部にあるウニマク島(Unimak Island)のリュトケ岬(Cape Lutke, Alaska)、カムチャッカ半島とカラギンスキー島(Karaginsky Island)の間のリュトケ海峡。ロシアの砕氷船(Russian icebreaker)リュトケ号など。1847年ロシア水路学会がアリューシャン列島ウナラスカ島にリュトケ岬(Cape Lutke)を名付けました。 参考:〜 ・ゼムリャ・フランツァ・ヨシファ群島 Zemlya Frantsa-Iosifa (Franz Josef Land) 北極海の一部のバレンツ海にあるロシア連邦領の192の島から構成されている島嶼群。 1821年、ロシアのリュトケ船長が探検 1872年、オーストリア・ハンガリー北極隊でパイヤーのテゲトフ号探検隊が探検 1886年、ノルウェーのフリチョフ・ナンセンとヒャルマー・ヨハンセンが北極点到達行で通過 1896年、ナンセンとイギリスのフレデリック・ジョージ・ジャクソンがノルトブルク島で出会う 参考HP:〜 ・ノヴァヤ・ゼムリヤ島の場所地図 ・アラスカ半島の地図 ・フランツ・ヨセフ・ランドの場所地図 ・フランツ・ヨセフ・ランドの地図 ・チュクチ半島のクレスタ湾の場所地図 ・太平洋の探検航海地図(歴史地図、太平洋の主要な寄港地(港)、フォート・ロス有) (ペテルブルグ〜喜望峰〜バタヴィア〜マニラ〜(マカオ・カントン)〜ペトロパブロフスク〜オフォーツク) (ペトロパブロフスク〜ウナラスカ〜コディアク〜シトカ〜ヌトカ〜フォート・ヴァンクーバー〜フォートロス) ・アラスカ湾岸の居住地地図(歴史地図:1790-1884の毛皮取引区域地図、ケナイ半島有) (スリーセインツ湾、コディアク、ノヴォ・アルハンゲリスク(シトカ)、フォート・ヴァンクーバー有) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 09/8/20、10/7/7、11/4/4 |