★ロシア |
ピョートル・リコルド提督 1807-1809 ディアナ号で世界一周航海 |
大航海物語★ |
VANUATU リコルド副館長の乗船 ディアナ号、1807 1809 ヴァヌアツ寄航200年記念 2009 バヌアツ 2009 発行 |
ROSSIJA POCCUST | ||
ロシア帝国の 軍 艦 旗→ 白地に青色線 大 砲→ イカリ→ |
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FIJI ディアナ号で世界一周航海 太平洋と世界地図 フィジー 1977/4/12 発行 |
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DDR マミヤ(タタール)海峡↓ |
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←樺太(サハリン) ←北方4島(千島列島) ←宗谷海峡(ラ・ぺルーズ海峡) ←北海道 ←小笠原諸島 ←マリアナ諸島 |
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北朝鮮 2001/10/23 発行 小型シートより |
ロシア生まれのリコルド大尉は極東アジアのカムチャッカへの補給の命を受けて、クロンシュタット軍港を出帆するゴローニン艦長のディアナ号に副艦長として乗組み、極東アジア探検航海から世界一周航海に参加して、千島列島探検時にはゴローニン艦長が日本に捕えられ、2年間に渡って抑留されましたが、高田屋嘉兵衛との釈放交換に尽力して成功しました。帰国後に日本虜囚の顛末記を執筆しました。その後にロシア帝国海軍省に入省して海軍大将となり、クリミア戦争中はクロンシュタット軍港の防衛の任にあたり、サンクトペテルブルグで亡くなりました。 |
ピョートル・イワノヴィッチ・リコルド海軍大将 (1776/2/9〜1855/2/28) Admiral Petr Ivanovich Rikord (大尉でディアナ号の副艦長) ロシア帝国海軍航海士(Russian Naval Navigator) ロシア科学アカデミー会員 (1818) ロシア帝国海軍大将 (1843) ロシア・トロペッツ生:サンクトペテルブルグ79才没 リコルド提督はロシアのトヴェリ州(Tver Oblast)トロペッツ(Toropets Kalinin Oblast)で生れたロシア海軍航海士(Russian navigator)で、1818年にはロシア科学アカデミー会員(Corresponding member of the St. Petersburg Academy of Sciences)になり、1843年にロシア帝国海軍大将(Admiral)になりました。 1794年に18才で海軍士官学校(Naval Cadet Corps)を卒業.。1807(31才)〜1814年の間はゴローニン中佐の極東アジア探検航海から世界一周航海(V. M. Golovnin’s circumnavigation of the globe)にディアナ号の副艦長として参加しました。 リコルド海軍大尉の大航海:〜 ・極東アジア探検航海(1807-1814)〜ディアナ号副艦長で世界一周航海 ・カムチャッカ遠征航海(1807-1809):〜クロンシュタットからペトロパブロフスク ・クナシリ(国後)島遠征航海(1811-1813):〜ペトロパブロフスクからクナシリ島、2回航海 ・クロンシュタットへの帰国航海(1813-1814):〜ペトロパブロフスクからペテルブルグ 1807/7/7に、艦長ゴローニン中佐が乗船するロシア帝国スループ型武装帆船ディアナ号(20-gun Armored Russian Sloop-of-War)がカムチャッカ半島ペトロパブロフスク港への物資補給輸送と世界一周航海にリコルド海軍大尉もディアナ号の副艦長として参加して、クロンシュタット軍港を出帆しました。10ヵ月もの航海でケープタウン付近へ到着、1808/5/3にケープタウン近くのシモンズ港(Simon's Town)に投錨しましたが、イギリスの艦隊に見つかり捕えられ、1年以上もそこに釘づけになりました。1809/5/28に脱出を企て、英艦隊の間を縫うように帆走して脱出に成功しました。イギリス艦隊の追撃を振り切って逃げのびてインド洋を横断し、太平洋からカムチャッカ半島のペトロパブロフスク港に入港しました。1810年にはペトロパブロフスク港を出帆、当時シトカ付近にできたばかりの露米会社(Russian-American Company)植民地のバラノフ島(Baranof Island)への航海をなし、フォート・ロスへも行きました。 1811(文化8)年に海軍総監部から南千島列島の探検調査を命じられ、ゴローニン艦長とリコルド副艦長はディアナ号でクリル諸島(Kuril Islands)の探検に向い、エトロフ島(択捉島 Iturup Island=Etorofu)のホープ海峡(Strait of Hope)から同島東海岸までを探検調査・測量して、詳細な地図を作製しました。その後、ディアナ号の薪や水が欠乏したので、クナシリ島(国後、Kunashir Island)への寄港・補給を目指しました。鎖国していた日本でクナシリ(国後)島を守備していた南部藩兵はディアナ号を発見すると、4年前のロシア船のエトロフ(択捉)島襲撃事件もあったので、ディアナ号を攻撃しました。1811/7月にボートで上陸していたゴローニン艦長と8人の乗組員は捕らえられ、北海道の松前藩の松前へ移送され、2年間に渡って箱館で幽閉・抑留されることになりました。 ゴローニン艦長らを捕えて、ディアナ号に対し砲撃する日本側に対し、リコルド副艦長はディアナ号を指揮してペトロパブロフスク港へ帰港しました。リコルド副艦長はゴローニン艦長らの釈放を求めるため、翌1812(文化9)年にディアナ号でクナシリ(国後)島近海に来航して、沖合いを航行する一隻の日本船「観世丸」を発見し、ゴローニン艦長らの消息を聞き出すために捕え、その船に乗っていた高田屋嘉兵衛をペトロパブロフスク港へ連行しました。リコルド副艦長は嘉兵衛と同じ部屋で起居して越冬し、両国間の事情を調べ、先年のエトロフ(択捉)島襲撃事件は露米会社支配人ニコライ・レザノフ男爵(Nikolay Petrovich Rezanov 1764-1807)がかってにやったことであり、ロシア政府の命令ではなかったこと、ロシアは日本侵略の意図は無いこと、ゴローニンらの釈放についてなどを語りあい、日露間の非常に難しい問題に、リコルド副艦長と嘉兵衛は事件の解決のために尽力しました。その結果、ゴローニン艦長らと高田屋嘉兵衛の釈放交換がおこなわれ、日露の紛争が平和裡に解決されることになました。 1813(文化10)年にリコルド副艦長は日本人漂流民を使者・交換材料として乗船させて、再びディアナ号で南千島列島に来航。8月にはクナシリ(国後)島においてゴローニン艦長らと日本人漂流民の交換を求めましたが、日本側はゴローニンらを処刑したと偽り拒絶して、ディアナ号に砲撃してきたりしましたが、9月にはリコルド副艦長の尽力により、ゴローニン艦長はロシア側が捕らえた高田屋嘉兵衛らの日本人を解放するのと引き換えに釈放交換で箱館(現:函館)にて解放され、ペトロパブロフスク港経由でロシアのサンクトペテルブルグ港へ帰港しました。(ゴローニン事件)。 ・リコルド提督の略年表:〜 1811〜13年、クリル諸島(Kuril Islands:千島列島)の探検調査に従事 1817〜22年、カムチャッカ地方(Kamchatka region)で指揮 1825〜27年、クロンシュタット軍港(commander of Kronstadt)の司令官 1828〜29年、地中海でロシア艦隊司令官として、ロシア・トルコ戦争(Russo-Turkish War)を戦う 1830〜33年、エーゲ海でロシア艦隊の指揮をとり、トルコからのギリシャ独立を援助 1836年、ロシア帝国海軍省(Admiralty Council)に入省 1843年、ロシア帝国海軍大将 1850年、ロシア帝国海軍学術委員会(Naval Scholarly Committee)議長に就任 1854〜55年、クリミア戦争(Crimean War)中はクロンシュタット軍港の防衛 1855/2/28、サンクトペテルブルグで亡くなりました。 ・参考HP:〜 ・ロシアの地図(日本語) ・ロシアの地図(日本語) ・ロシアの州別地図 ・ロシアの区分地図(下の赤点付近がRyazan Oblast) ・オフォーツクの場所地図 ・リャザン州の場所地図 ・ハバロフスク州(Khabarovsk Krai)の場所地図 ・カムチャッカの場所地図(日本語、ペトロパブロフスク・カムチャツキー有) ・シトカの場所地図 ・アレクサンダー諸島の場所地図(バラノフ島有) ・クリル諸島とオフォーツク海の場所地図(クリル諸島=千島列島) ・クリル諸島の地図(千島列島) ・クリル諸島の地図(千島列島、日本語) ・択捉島の地図(日本語) ・国後島の地図(日本語) ・北海道の港の地図(日本語) ・コディアク島の地図 ・トヴェル州トロペッツの場所地図 ・トヴェル州(Tver Oblast)の場所地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2011/2/1 |