Portugal 国連 1989 発行 |
切手で綴る 冒険大航海(Adventure Voyages)ポルトガルのインド副王(6-4)
ドン・ルイス・デ・アタイデ船長
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大航海物語 ポルトガル編★ |
ESTADO da INDIA | |
ドン・ルイス・デ・アタイデ副王 ポ領インド 1948 発行 |
アタイデ副王の紋章 ポ領インド 1958/4/3 発行 |
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MOZAMBIQUE ポルトガル・ナオ船、1520 ポ領モザンビーグ 1963/12/1 発行 |
SULTANATE of OMAN インド洋の地図 オマーン 1981/11/23 発行 |
ゴアの地図 ポ領インド 1956/3/24 発行 |
ドン・ルイス・デ・アタイデ船長 Don Luis de Ataide (1517〜インド副王在任:1568〜1571、1578〜1581) ドン・アタイデ船長は16世紀末頃のポルトガルのインド副王(総督)で、「副王ルイス・デ・アタイデの時代のインド史(1617)」というのが有るようですが、ポルトガル王ジョアン3世とその孫セバスティアン1世に仕えた航海者の忠臣でした。 アタイデ船長はヴァスコ・ダ・ガマ提督の息子のエステヴァン(Estevao da Gama)と第1次紅海作戦に次ぐ作戦を実施しました。1540/12/31にゴアを出帆し、エジプトのスエズ港(Suez)のオスマン・トルコの艦隊を攻撃し、翌年1/27にはアデン港、2/12にエリトリアのマッサワ港を攻撃し、シナイ半島のトゥール(El-Tor)も攻撃しました。 1568/10月にインドのゴアに着任してインド副王に就任しました。その頃のマラバール海岸クジャラート王国(Guzerat)は藩王イティーム汗(Itimi)が国を建てており、クジャラート軍がポルトガルの拠点、ダマンやバサイン(ボンベイから50km)に攻め込んできました。クジャラート王国では内紛が起きており、それにつけ込んで、アタイデ副王は反撃し、ダマンのポルトガル砦の指揮官が港で2隻の大きい船を捕えて100,000枚のドゥカート金貨(ducats)で釈放するという事件が起こったりするも、撃退することに成功し、157/6/29にはクジャラート王国のゴア包囲を撃退、解除しました。 1567年に南アメリカでポルトガル軍は砦を築いていたフランス軍を撃退し、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロを占領しました。1570年にはアンゴラの植民地化を開始。着々と進むインド、アフリカ、ブラジルの植民地拡大に加え、ジョアン3世が熟慮の末、放棄したモロッコの要塞を十字軍的精紳で、セバスティアン1世が再征服を夢見るようになっていました。 1572/1/6ポルトガルのテージョ河々口のリスボンに帰着し、セバスティアン1世に仕えました。1577にモロッコ・フェズ攻撃に遠征しました。1578/8/4にモロッコのアルカセル・キビールでポルトガル軍とサード朝スルタン軍との、アルカセル・キビールの戦い(Batalha de Alcacer-Quibir、モロッコ側は「マハザン川の戦い」、タンジールとフェズの中間)が起こり、遠征したセバスティアン1世とポルトガル軍は惨敗し、セバスティアン1世は戦死しました。 1577年にポルトガルのセントロ地方レイリア県ペニシェ郡(Peniche)のアトウグイア村(Atouguia da Baleia)の総督(1580迄)になりました。 1578/8/3にインド副王として再度ゴアに赴任して、ゴアにて64才で亡くなりました。 アタイデ船長は3度結婚をしました。ルイス・アルバレスの娘(Luis Alvares de Tavora)の娘ジョアンナ(Joana de Tavora Vilhena)、ノローニャ家のマリア(Maria de Noronha)、トリスタン・ダ・クーニャ船長の娘イザベル(Isabel de Meneses)。 なお、マラバール海岸などの北部インドはジャラールッディーン・ムハンマド・アクバル(Jalaluddin Muhammad Akbar, 1542-1605)がムガル帝国の第3代君主(在位1556-1605)として支配していました。ポルトガルの拠点、ダマンは1557-1559年までにグジャラート王の貴族によってポルトガルに割譲され〜1961年にインド軍が奪取、バサイン(Bacaim、ボンベイから50km)は1535〜1739の間ポルトガル領でした。 参考HP:〜 ・ペニシェ郡の場所地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2008/8/10、10/10/10、令和6年 2024/7/16 |