United Kingdom

国連 1983 発行
United Kingdom of Great Britain and Northern Irelan
イギリスのシリー諸島
Scilly Islands
大航海物語
 イギリス編








トレスコ島→

ブライアー島→


サムソン島→








セント・アグネス島→
シリー諸島の地図

イギリス 2000 発行








←セント・マーチンズ島






←セント・メアリーズ島

リザード岬


JERSY
英仏海峡の地図

ジャージイ 1970 発行

・イギリスのシリー諸島
  (Isles of Scilly)
  面積は16.37ku。人口は2,153人(2001)。最大の町はヒュータウン。
英国シリー諸島はイギリスの南西部で最南端はリザード岬のあるコーンウォール半島(Cornwall Peninsul, South West Region, England)の西沖合いに有る約140の島・岩礁です。そのうち5つが有人島。紀元前2000年頃の住居跡が発見されており、この頃までには居住が始まっていました。当時は全体が大きな一つの島を形成していたと考えられています。紀元前1世紀頃には古代ローマ帝国の支配下にあったことを示す遺物が多数出土しています。この頃から島域への浸水が始まり、現在の形になったと考えられています。 「世界最長の戦争」として知られる三百三十五年戦争の当事者でした。気候は全体的に安定して、最も暑い月と寒い月の平均温度の差は8度から10度ほどで、温暖です。

シリー諸島は観光に依存しており、人口の70%は観光に携わり、その他に野菜・花の栽培も行われているも、海に囲まれている割には漁業は盛んではありません。シリー諸島では、電力や輸入化石燃料(灯油など)への依存度が高い上、炭素排出量が大きいため、2025年までに電力料金を40%節減する目標を設定。2015年、日立を含めた島内外の組織によるパートナーシップが締結されました。

・シリー諸島の島々(人口:2001)
* 島 名 (Isles) ku 主な居住地 (Main Vilage) メモ
1 セント・メアリーズ島 St Mary's 1,666 6.58 ヒュータウン Hugh Town
2 トレスコ島 Tresco 180 2.97 ニューグリムズビー New Grimsby
3 セント・マーチンズ島 St Martin's 142 2.37 ハイヤータウン Higher Town +White Island
4 セント・アグネス島 St Agnes 73 1.48 ミドルタウン Middle Town +Gugh Island
5 ブライアー島 Bryher 92 1.32 ザ・タウン The Town +Gweal Island
6 サムソン島 Samson 0.38 --- --- 1855迄有人
7 アネット島 Annet --- 0.21 --- ---
8 セント・ヘレンズ島 St. Helen's --- 0.20 --- ---
9 ティーン島 Tean --- 0.16 --- ---
10 グレート・ガニリー島 Great Ganilly --- 0.13 --- ---
11 他45島 Remaining --- 0.57 --- --- (45 islets)
T シリー諸島 (計) (Isles of Scilly) 2,153 16.37 --- --- (Hugh Town)

・セント・メアリーズ島
  (St Mary's Island)
シリー諸島中最も広い島。諸島中最大の町、ヒュータウンが有。
セント・メアリーズ港と本土ペンザンスを結ぶフェリーが有。

・トレスコ島
  (Tresco)
2番目に広い島。亜熱帯植物園が有。

・セント・アグネス島
  (St Agnes)
特殊な形をした奇岩が多く有。

・ビショップ・ロック
  (Bishop Rock)
は大西洋上の非常に小さな岩礁。イギリスのコーンウォール半島から南西45kmに浮かぶシリー諸島の最西部に有。岩の大きさは長さ46m、幅16mで、岩の上に立つ灯台が有名。

参考:〜
・三百三十五年戦争
  (335 Years' War、1651-1986)
三百三十五年戦争は、オランダとシリー諸島の間で335年戦われた戦争で、平和条約が約335年もの間締結されなかったために、一発の銃も撃たれることなく、もっとも犠牲者が少ない、世界でもっとも長く続いた戦争だと言われています。それはシリー諸島がイングランド内戦の頃は、王党派ジョン・グランヴィル卿(John Granville, 1st Earl of Bath PC,1628-1701)の所領だったので、王党派海軍の根拠地で、英仏海峡を航行するオランダの船舶を攻撃していました。そこへ1650年にブリストルから脱出した王党派ルパート王子の艦隊が撤退してきました。すると王党派海軍の攻撃に悩まされていた
トロンプ(父)提督

オランダ 1943 発行
オランダ海軍のトロンプ提督がシリー諸島へ赴き、王党派艦隊に拿捕された船舶や積み荷などへの賠償を要求。1651/4/17にトロンプはペンデニス城(Bulstrode Whitelocke Castle)へ来て、オランダの船舶と積み荷への賠償を要求し、受け入れられなければ宣戦布告すると言い放ちました。そしてイングランドの大半は議会軍の手にあったため、宣戦布告はシリー諸島に対してのみ布告されました。宣戦布告のすぐ後の1651年6月にブレイク提督に率いられた議会派艦隊は、議会派艦隊を降伏に追い込みました。オランダ艦隊は、すでに脅威が存在しなくなったために、一発も発砲せずに立ち去りました。ある国家が、他国の一部に対して宣戦を布告するという曖昧さのため、オランダ艦隊は戦争終結を公式に宣言しないままでした。平和条約は、1985年にシリー諸島議会の歴史家のロイ・ダンカン議長(Roy Duncan)が、ロンドンにあるオランダ大使館(Dutch Embassy, London)に対して手紙を送り、シリー諸島がまだ戦争中であるということについて説明しました。大使館はこの話が事実であることを確認。ダンカン議長は当時の駐英オランダ大使ライン・ハイデコペル準男爵(Rein Huydecoper, Jonkheer:ヨンクヘール)を諸島へ招いて平和条約に調印しました。条約は戦争が始まって、実に335年後の1986/4/17付けで結ばれたのでした。めでたし目出度し♪ 日本の北方四島も早くこうなると宜しいんですが。。。。。。。(^^♪。


イギリス 2000 発行
参考HP:〜
シリー諸島の地図
シリー諸島の場所地図
シリー諸島の場所地図(コーンウォール半島の南西)

こちらで
スパイス (香辛料)
ユネスコ (UNESCO:世界遺産の成立理由)
パルテノン神殿 (ギリシャ)世界遺産
法隆寺 (日本)世界遺産
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   令和 R.2/11/20 (2020)
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