★イギリス
チャールズ・スタート大尉
1828、マックワイヤー河の探検航海
1829、マレー河の探検航海

大航海物語★
チャールス・スタート

イギリス 1972 発行
AUSTRALIA
スタート船長

Exploration Murray River 100
1830 マレー河探検100年記念 1930
オーストラリア 昭和5年  1930/6/2  発行

マレー河

オーストラリア 1986/8/4 発行

GUINEーBISSAU
丸木舟カヌーを漕いで探検調査

ギニア・ビサウ 2007 発行
GRENADA
河用帆走ボート

グレナダ 1998/4/26 発行
NEDERLAND
オーストラリアの地図

オーストラリア100年記念
オランダ 1988/8/30 発行





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インド生まれのチャールス・スタートは5才でロンドンに行き、親の仕送りが続かず15才で大英帝国陸軍に入隊し、スペイン、カナダと転戦、ナポレオン戦争で活躍、「ワーテルローの戦い」に従軍して勝利し、敗軍の将”ナポレオン”はセントヘレナ島へ「島流し」になりました。30才で大尉となりオーストラリアへの囚人護送任務を勤め上げ、ニューサウスウェールス総督の秘書官となり、州東部から西方に流れるマックワイヤー河やマレー河を探検調査し、シドニーからマレー河々口にあるアデレードまでの約3000kmを踏査し目をやられ、イギリスの保養地チェルトナムで亡くなりました。
チャールズ・ナピィャー・スタート大尉 (1795/4/28〜1869/6/16)
 Captain Charles Napier Sturt

チャールス・N・スタートはイギリス領インドで生まれ、5才でイギリスに行きました。父(Thomas Lenox Napier Sturt)はイギリス東インド会社のベンガルの判事でした。大ロンドン市南西部(Harrow on the Hill)のハロー学校(Harrow School)に1810〜1812の間に在学しましたが、父親の資金が続かず、1813/9/9に15才で大英帝国陸軍第39ドーセット歩兵連隊(39th (Dorsetshire) Regiment of Foot)に入隊しました。初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリー(Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington, 1769-1852)の指揮のもと、スペイン、カナダと転戦し、ナポレオンとの戦いで軍功を重ね、最終的にワーテルローの戦いでナポレオンを打ち破り勝利しました。1825年に30才で陸軍大尉に昇進し、1827年にオーストラリア・ニューサウスウェールス(New South Wales)への囚人護送任務に従事しました。1831年にジャネット(Jeanette)と結婚し3人の子供に恵まれました。

オーストラリアへの囚人護送任務の経験でオーストラリアに興味を持ち、ニューサウスウェールス総督のダーリン卿(General Sir Ralph Darling)の推薦で秘書官となりました。そしてオーストラリアの河の探検調査に熱中しているオックスレイ(John Oxley)やカニンガム(Allan Cunningham)やヒューム(Hamilton Hume)などの探検家と親しくなりました。

1828年に総督のダーリン卿はスタート大尉に州西部にあるマックワイヤー河(Macquarie River)の探査を命じました。11/10に下僕と兵士2人、囚人8人の探検隊はシドニーを出帆して河の遡上を始めました。11/27にヒューム(Hamilton Hume)の探検隊と合流しました。1829/4/29にウェリントン谷(Wellington Valley)に達しましたが、ダーリング河(Darling River)にはいたりませんでした。この探検遠征は、北ニューサウスウェールズが内海でなかったことを証明しましたが、ニューサウスウェールズの西部を流れている川が何処へ流れているのかという場所の疑問を残しました。

1829年に総督のダーリン卿はマックワイヤー河が何処へ流れているのかを突き止めるようにスタート大尉に命じました。1830/2にアレクサンドリア湖(Lake Alexandrina)を発見しました。その数日後にマレー河々口の海に出ました。2900kmをボートで帆走したり漕いだりする冒険遠征となり、過酷な船旅で一時盲目となり、生涯正常には回復しませんでした。そして1830年にシドニーへ戻りました。

1832年にノーフォーク島の駐屯地司令官(commandant of garrison)になり、囚人達の反乱に遭遇しました。まもなく目の病でほとんど盲目状態になり、イングランドへ行かざるを得なくなりました。同年イギリスに着いて療養に励みました。1833年に「オーストラリア内陸探検記」(the Interior of Southern Australia during the years 1828, 1829, 1830 and 1831)の第1版を、翌年に第2版を出版し、1835年にオーストラリアに戻りました。

1844/8/10にスタート大尉はオーストラリアの内陸海の謎を解き明かすベく、アデレードから(Adelaide)15人の部隊で200頭の羊と6台の荷馬車を引いて、ニューサウスウェールス州の北西探検へと第3回目の冒険遠征に出発しました。オーストラリア中央部へとダーリン河からマレー河に沿って進み、シドニーから約1160km(アデレードから約500km)離れている所をブロークンヒル(Broken Hill)と名付けて呼びましたが、そこでは後に世界最大の埋蔵量の銀・亜鉛・鉛鉱床が発見されました。夏の猛烈な日差しと補給が来なくて物資が欠乏し、現:ミルパリンカ(Milparinka)という所で6ヵ月間も立ち往生しました。雨が降りだすと北へと向かって出発し、現:スタート国立公園(Sturt National Park、貝塚や石の遺跡が有)に基地としてフォート・グレイ(Fort Grey)を造りました。そして製図者(draughtsman)として随行していたジョン・スチュアート(John McDouall Stuart 1815-1866)を含む少数の部隊で進み、マランビジー川から、スタート・ストーニー砂漠(Sturt's Stony Desert)に到達・命名して横切り、シンプソン砂漠(Simpson Desert)に踏み込みましたが、遥かな彼方へ続く砂漠の余りの困難さで踏破を止めて、デポのフォート・グレイへ戻りました。2回目の挑戦を試み1845/10/9〜11/17の間はクーパーズ・クリーク(Cooper's Creek)一帯を探検して命名しましたが、壊血病(scurvy)の極端な症状で倒れて中止せざるをえませんでした。隊員の外科医ジョン・ブローニ(John Harris Browne 1817-1904)が隊長代理として、彼と部隊を約4,800kmも安全に運んで、1846/1/19にアデレードに戻りました。

1853/3月に家族を連れてイギリスへと出帆し、保養地として知られているイギリスはグロスターシャー州の町チェルトナム (Cheltenham) に住まいし、健康が悪化してきて1869年に突然に亡くなりました。享年74才でした。

参考:〜:
・マレー河 (オーストラリア第2の川:2,575km)
  Murray River, River Murray
 (ニューサウスウェールズ州とビクトリア州の州境)
マレー河は、オーストラリア南東部を流れ、ダーリング川に次ぐ、オーストラリア第2の長さを持つ河。オーストラリアン・アルプスに源を発し、平原を蛇行しながらニューサウスウェールズ州とビクトリア州の州境となる。南へ500km南オーストラリア州を流れて南極海へ注いでいる。2000年代初めより、浚渫機がマレー川の河口で稼動し、海からクーロン国立公園の礁湖への最低限の流れを維持するため、水路から砂を取り除い マレー河ウォーカー・フラット

オーストラリア 1986/8/4 発行
ている。24時間浚渫し続けないと、河口が沈泥で塞がり、クーロン礁湖への新鮮な海水の供給が途絶え、温度が上がりよどんでしまう。ウォーカー・フラットはマレー河のサウス・オーストラリア州側の景勝地として観光用の船下りがある。

マランビジー川
  Murrumbidgee River

マランビジー川はオーストラリアのニューサウスウェールズ州の延長1,400kmの川で、マレー河の主要な支流であり、スノーウィ・マウンテン(Snowy Mountains)のフィーリー・レンジ(Fiery Range)のペッパーコーン・ヒル(Peppercorn Hill)から、900kmの距離でラチャラン川(Lachlan
マランビジー川
River 1450km)に合流してマレー河へと流れ下る。マランビジーは、現地語で「大きい水」の意味。

参考HP:〜
 ・スタートの探検地図(マックワイヤー河、マレー河)
 ・マレー川の地図(Murray、シドニーからアデレード)
 ・マランビジー川付近の地図(北からダーリング河、ラチラン川、マランピジー川、マレー河)
 ・ニューサウスウェールズの地図(赤:ブロークンヒル)
 ・ブロークンヒルの場所地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      08/9/19、 10/2/15
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