★イギリス |
トーマス・ミッチェル少佐 1836 クィーンズランド探検、グランピアンズ山脈発見 |
大航海物語★ |
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GUINEーBISSAU 丸木舟カヌーを漕いで探検調査 ギニア・ビサウ 2007 発行 |
NEDERLAND オーストラリアの地図 オーストラリア100年記念 オランダ 1988/8/30 発行 |
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イギリス・スコットランドの スターリングシャー郡グランジェマス生まれのミッチェル少佐は父親が亡くなると家が困窮したので軍隊に入隊してナポレオン戦争中のポルトガルでの半島戦争に従軍し、軍隊で測量技術を学び測量技師となりました。戦後はオーストラリア南東部の探検をなし、「肥沃で広大な土地」地域を発見し、探検家として一躍有名になりました。 |
サー・トーマス・ミッチェル少佐 (1792/6/16〜1855/10) Major Thomas Mitchell ミッチェル少佐はスコットランドの スターリングシャー郡フォルカーク(Falkirk、Stirlingshire、Scotland)で以前の自由都市(burgh)グランジェマス(Grangemouth)で生まれ、エディンバラ大学(University of Edinburgh)で学びました。父親が亡くなると彼の家族は困窮し、1811年18才で陸軍に入隊し、後のイギリス植民地省長官(Colonial Secretary)になったスコットランドのマーレイ卿(Sir George Murray, GCB(バス勲章), GCH(ゲルフィック勲章), FRS(英国王立学士院会員) 1772-1846)の下でポルトガルでの半島戦争(Peninsular War、1808-1814)に従軍し、軍隊で測量術を学び測量士にもなりました。 1817年に25才でメアリー・ブラント嬢(Mary Blunt)とリスボンで結婚しました。1815年にナポレオン戦争(Napoleonic Wars、1803-1815)が終わると平時軍務に戻りました。1827年に35才でジョン・オックスレイ(John Oxley)の後任としてオーストラリアのニューサウスウェールズ植民地(New South Wales)陸軍検査官将軍(Surveyor-General)に任命されました。赴任すると植民地での不可欠な職務である測量術の質と精度を高めて改良し、大北方道路建設(Great North Road, Australia、 Sydney-Hunter Valley)で、シドニーからハンター谷への260km以上の拡張工事(1826-1836)に貢献し囚人が建設。シドニーからゴウルバーン(Sydney- Goulburn)までの大南方道路建設(Great South Road, Australia)は囚人が建設するのに貢献しました。1834年にはニューサウスウェールズの19郡の地図作成を命じられ、正確無比な地図を作成して爵位(knighthood)を授けられました。 ミッチェル少佐の大冒険 第1回探検〜19人、1831/11/24出発、マレー河 第2回探検〜24人、1835/04/07出発、ダーリング河からボーガン川に到る 第3回探検〜26人、1836/3/18出発、マレー河 第4回探検〜1836、マレー河南東の探検、グランピアンズ山脈とグレネルグ川を発見
1835/4/7に測量技師ジェームス・ラーマー(James Larmer)、植物学者リチャード・カニンガム(Richard Cunningham)、召使のアンソニー・ブラウン、20人の人夫で、ダーリング川(Darling River)の探検に出発。ダーリング川に着いてから、カニンガムがアボリジニに殺害されましたが、探検行を続行しました。1829年にスタート大尉が発見したボーガン川(Bogan River)に到着し、2隻のボートで川を下りました。1ヵ月の間も川を下り、ボーガン川はダーリング川の支流と確信しました。ダーリング川から直接海へは出られませんでしたので、9/14で探検を打ち切り、帰途に着きました。 1836/3/18に召使のアンソニー・ブラウンと24人の男のパーティはダーリング河の終りまでの探検に出発。ある所で小グループを西へやりましたが別の川は見つかりませんでした。5/23にオーストラリア南東部を流れ、ダーリング川に次ぐオーストラリア第2の長さを持つ川マレー河(Murray River)に到着。キャンプが200人のアボリジニに3度攻撃され、戦いとなり、7人を射殺。探検を続け、ダーリング川はマレー河に注いいると解り、スタートが正しかったことを認めて探検を断念し帰途につきました。 1836年に前回のマレー河の探検で垣間見た川の南東地域の探検を思い立ち出発。現在のビクトリア州の砂岩のグランピアンズ山脈を発見し、故郷スコットランドの3大山脈の1つのグランピアン山脈(Grampian Mountains)に因んでグランピアンズ(Grampians)山脈と名付けました。さらに探検を続けて、グレネルグ川(Glenelg River、Victoria)を発見。その後、川のキャンプ地に戻り川を下って海岸に出て、海岸線を探検中に、その地域で最初の入植者ヘンリー兄弟の農場(Henty brothers' farm)を見つけました。そこで大歓迎を受けた後、シドニーへ帰還しました。ミッチェル少佐は「広大で肥沃な土地の地域」を発見したことで探検家として大変な有名人となりました。 1851/9/27にトマス・ミッチェルとスチュアート・ドナルドソンが植民地最後の決闘をしました。 引退後にミッチェル少佐は「オーストラリア・クィーンズランド探検記」(journals of expeditions)を執筆出版して、マレー・ダーリング湿地帯(Murray-Darling Basin)の地域観測と、歴史家・人類学者に同情的な観察で土着の人々の情報を提供しました。ミッチェル少佐はシドニーで63才で亡くなりました。 参考:〜 ・半島戦争 (1808-1814) Peninsular War 半島戦争はナポレオン戦争中のイベリア半島でスペイン軍、ポルトガル軍、イギリス軍が共にフランス帝国軍に対して戦った大戦争で、日本ではスペイン独立戦争として知られており、この戦争は「ハンマーと金敷」の役になぞられて、すなわち「ハンマー」とはウェリントン公に率いられた4万から8万の軍勢からなるイギリス・ポルトガル軍で、それによって金敷であるスペインの軍とゲリラとポルトガルの民兵軍によって、フランス軍が打ちのめされました。戦争は、イベリア半島の性質に大きく左右され、土地が貧しいイベリア半島では大軍が侵攻しても侵攻先の食料が足りないため、フランス軍はピーク時で3万を数えたものの、軍を集結させることができませんでした。小部隊による幾つかの地域で限られた期間での戦闘を求められ、決定的な結果を出すのには困難を極めました。この戦争はスペインとポルトガルの社会的、経済的構造を破壊し、1850年まで続く大内戦と半島戦争で訓練された将校に導かれた荒れ狂う解放の時代のさきがけになりました。また、この戦争をきっかけにしてポルトガル、スペインの植民地だったラテンアメリカに独立運動が起きました。なお、フランシスコ・デ・ゴヤはフランス軍による市民の虐殺を「1808/5/3、プリンシペ・ピオの丘での虐殺」という作品に描き激しく非難しました。
・ダーリング河 (オーストラリア最長の川:2,739km、内陸河川でマレー河に合流) Darling River、New South Wales ダーリング川は、オーストラリアを流れる最長の河川で、ニューサウスウェールズ州北部のバーク町(Bourke Shire)近郊に源を発し、ニューサウスウェールズ州内南西部のウェントワース町(Wentworth)でマレー河に合流。 ・マレー河 (オーストラリア第2の川:2,575km) Murray River, River Murray (ニューサウスウェールズ州とビクトリア州の州境) ・グレネルグ川 (290km) Glenelg River、Victoria グレネグル川は、グランピアンズ山脈に源を発しヴィクトリア州南西部を290km流れ、ネルソン市(Nelson, Victoria)で海に流れ込む川。ミッチェル少佐が1836年にイギリス植民地省大臣チャールス・グラント(Charles Grant, 1st Baron Glenelg PC 1778-1866)にちなんで名付けました。 ・グゥイディアー川 (内陸河川) Gwydir River、New South Wales グゥイディアー川は、ニューサウスウェールズ州北部を流れる内陸河川で、マレー・ダーリング湿地帯(Murray-Darling Basin)の一部を構成している。 ・マックワイヤー河 (内陸河川) Macquarie River マックワイヤー河はオベロン市(Oberon, New South Wales)近くの中央高地(central highlands of New South Wales)に源を発し、バサースト市(Bathurst Regional Council)、ウェリントン市(Wellington Shire)、ドゥボー市(Dubbo Central West Region)、ワレン市(Warren Shire)を通り、マックワイヤー沼自然保護区(Macquarie Marshes Nature Reserve)に流れ込む内陸河川。支流に、マシンタイアー川(Macintyre River)とグゥイディアー川(Gwydir River)の間を流れ、クゥインーズランドの州境を流れるバーオン川(Barwon River)が有る。 ・ボーガン川 (内陸河川でダーリング河に合流) Bogan River ボーガン川はダーリング河の支流で、ニューサウスウェールズ州の西中央郡(central western region)フォーブス(Forbes, Central West of New South Wales)町近郷に源を発し、ニャンガン(Nyngan, New South Wales)町を通って北北西へと流れる川。1829年にスタート大尉が発見し、1835年にミッチェル少佐が到達。ボートで1ヵ月間も川を下り調査して、ダーリング河の支流であることを確認しました。
ブルー・マウンテンズはシドニーの北西50kmにあって、グレーター・ブルー・マウンテンズ地域(Greater Blue Mountains Area)は「ブルー・マウンテンズ国立公園とその周辺の公園」の総称が2000年にユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録された。グレーター・ブルーマウンテンズ地域は、91種ものユーカリが広範囲で自生する地域で、ここ以外には見られない非常に貴重な地域であり、また、オーストラリア大陸が他の大陸と離れる前の痕跡を残している。ブルー・マウンテンズの名は、気温が上昇するとユーカリに含まれる油が気化し空気中に広がり、景観から反射する光の「青のスペクトラム」を相対的に良く通し、ブルーがかって見えることに由来している。 参考HP:〜: ・ミッチェル少佐の探検地図 ・マレー河(マレー河とダーリング河、シドニーからアデレード)の地図 ・グレネグル川の地図 ・ニューサウスウェールズ州の道路地図(現在) ・グランピアンズの公式HP(英語)、(Special Deals & Packages=地図:日本語有) ・マレー・ダーリング湿地帯の地図 ・ブルーマウンテンの場所地図 ・世界遺産100ブルーマウンテン地域(NHK世界遺産シリーズ、日本語) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 09/10/19、 10/2/25 |