United Kingdom ![]() 国連 1983 発行 |
切手で綴る イギリスの冒険大航海(Great Adventure Voyagee)オーストラリア(VIII-10)
トーマス・ミッチェル少佐 1836 クィーンズランド探検、グランピアンズ山脈発見 |
大航海物語 オーストラリア編★ |
| 半島戦争 グランピアンズ ダーリング川 マレー河 グレネグル川 グゥイディアー川 マックワイヤー河 ボーガン川 グレートディヴァイディング山脈 |
| AUSTRALIA ミッチェル少佐 ![]() Exploraion Central Queensland 1846 中央クィーンズランド探検100年記念 1946 オーストラリア 昭和26年 1946/10/14 発行 |
| GUINE-BISSAU 丸木舟カヌーを漕いで探検調査 ![]() ギニア・ビサウ 2007 発行 |
NEDERLAND オーストラリアの地図 ノーザンテリトリー(北部準州) |
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| ウェストオ | ストラリア州 |
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←クィーンズランド州 ←ニューサウスウェールス州 ←タスマニア島州 |
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| サウスオーストラリア州・ヴィクトリア州 オランダ 1988 発行 |
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イギリス・スコットランドのスターリングシャー郡グランジェマス生まれのミッチェル少佐は父親が亡くなると家が困窮したので軍隊に入隊してナポレオン戦争中のポルトガルでの半島戦争に従軍し、軍隊で測量技術を学び測量技師となりました。戦後はオーストラリア南東部の探検をなし、「肥沃で広大な土地」地域を発見し、探検家として一躍有名になりました。 |
| サー・トーマス・リヴィングストン・ミッチェル少佐 Major Sir Thomas Livingstone Mitchell(1792/6/15〜1855/10/5)
1817年に25才でメアリー・ブラント嬢(Mary Blunt)とポルトガルのテージョ河々口のリスボンで結婚しました。1815年にナポレオン戦争(1803-1815)が終わると平時軍務に戻りました。1827年に35才でジョン・オックスレイ(John Oxley)の後任としてオーストラリアのニューサウスウェールズ植民地(ANSW)陸軍検査官将軍(Surveyor-General)に任命されました。赴任すると植民地での不可欠な職務である測量術の質と精度を高めて改良し、大北方道路建設(Great North Road, Australia、Sydney〜Hunter Valley)で、シドニーからハンター谷への260km以上の拡張工事(1826-1836)に貢献し囚人が建設ました。また、シドニーからゴウルバーン(Sydney-Goulburn)までの大南方道路建設(Great South Road)にも囚人が建設するのに貢献しました。1834年にはニューサウスウェールズの19郡の地図作成を命じられ、正確無比な地図を作成して爵位(Sir:Knighthood)を授けられました。 ミッチェル少佐の大冒険 ・第1回探検〜19人、1831/11/24出発、マレー河 ・第2回探検〜24人、1835/04/07出発、ダーリング河からボーガン川に到る ・第3回探検〜26人、1836/3/18出発、マレー河 ・第4回探検〜1836、マレー河南東の探検、グランピアンズ山脈とグレネルグ川を発見 ▼第1回探検
▼第2回探検 1835/4/7に測量技師ジェームス・ラーマー(James Larmer, 1808頃-1886)、植物学者リチャード・カニンガム(Richard Cunningham, 1793-1835)、ブラウン召使、20人の人夫で、ダーリング河の探検に出発。ダーリング河に着いてから、カニンガム学者がアボリジニに殺害されましたが、探検行を続行しました。1829年にスタート大尉が発見したボーガン川に到着し、2隻のボートで川を下りました。1ヵ月の間も川を下り、ボーガン川はダーリング河の支流と確信しました。ダーリング河から直接海へは出られなかったので、9/14で探検を打ち切り、帰途に着きました。 ▼第3回探検 1836/3/18にブラウン召使と24人の男はダーリング河の終りまでの探検に出発。ある所で小グループを西へやりましたが別の川は見つかりませんでした。5/23にオーストラリア南東部を流れ、ダーリング河に次ぐオーストラリア第2の長さを持つ川マレー河に到着。キャンプが200人のアボリジニに3度攻撃され、戦いとなり、7人を射殺。探検を続け、ダーリング河はマレー河に注いいると解り、スタート大尉が正しかったことを認めて探検を断念して帰途につきました。 ▼第4回探検 1836年に前回のマレー河の探検で垣間見た川の南東地域の探検を思い立ち出発。現在のビクトリア州の砂岩のグランピアンズ山脈を発見し、故郷スコットランドの3大山脈の1つのグランピアン山脈(Grampian Mountains)に因んでグランピアンズ(Grampians)山脈と名付けました。さらに探検を続けて、グレネルグ川を発見。その後、川のキャンプ地に戻り川を下って海岸に出て、海岸線を探検中に、その地域で最初の入植者で長男ジェームズ・ヘンティ(James Henty 1800-1882)と弟6人の7人兄弟の、ヘンティ兄弟農場(Henty brothers' farm)を見つけました。そこで大歓迎を受けた後、シドニーへ帰還しました。ミッチェル少佐は「広大で肥沃な土地の地域」を発見したことで探検家として大変な有名人となりました。 ・その後 1851年にミッチェル少佐は、スチュアート・ドナルドソン(Sir Stuart Alexander Donaldson, 1812-1867、後NSW州首相在任1812-1867)が測量総局の過剰支出を公に批判したため、挑戦状を提出しました。植民地最後の決闘(ピストル)はシドニーで9/27に行われるも両者ともに無傷でした。 引退後にミッチェル少佐は「オーストラリア・クィーンズランド探検記」(journals of expeditions)を執筆出版。マレー・ダーリング湿地帯(Murray-Darling Basin)の地域観測と、歴史家・人類学者に同情的な観察で土着の人々の情報を提供しました。ミッチェル少佐はシドニーで63才で亡くなりました。 参考:〜 ・イベリア半島戦争 (1808-1814) Iberian Peninsular War 半島戦争はナポレオン戦争中のイベリア半島でスペイン軍、ポルトガル軍、イギリス軍が共にフランス帝国軍に対して戦った大戦争で、日本ではスペイン独立戦争で知られており、この戦争は「ハンマーと金敷」の役になぞられて、すなわち「ハンマー」とはウェリントン公(Field Marshal Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington, 1769-1852)に率いられた4万から8万の軍勢からなるイギリス・ポルトガル軍で、それによって金敷であるスペインの軍とゲリラとポルトガルの民兵軍によって、フランス軍が打ちのめされました。戦争は、イベリア半島の性質に大きく左右され、土地が貧しいイベリア半島では大軍が侵攻しても侵攻先の食料が足りないため、フランス軍はピーク時で3万を数えたものの、軍を集結させることができませんでした。小部隊による幾つかの地域で限られた期間での戦闘を求められ、決定的な結果を出すのには困難を極めました。この戦争はスペインとポルトガルの社会的、経済的構造を破壊し、1850年まで続く大内戦と半島戦争で訓練された将校に導かれた荒れ狂う解放の時代のさきがけになりました。また、この戦争をきっかけにしてポルトガル、スペインの植民地だったラテンアメリカに独立運動が起きました。なお、フランシスコ・デ・ゴヤはフランス軍による市民の虐殺を「1808/5/3、プリンシペ・ピオの丘での虐殺」という作品に描き激しく非難しました。
ブルー・マウンテンズはシドニーの北西50kmにあって、グレーター・ブルー・マウンテンズ地域(Greater Blue Mountains Area)は「ブルー・マウンテンズ国立公園とその周辺の公園」の総称が2000年にユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録された。グレーター・ブルーマウンテンズ地域は、91種ものユーカリが広範囲で自生する地域で、ここ以外には見られない非常に貴重な地域であり、また、オーストラリア大陸が他の大陸と離れる前の痕跡を残している。ブルー・マウンテンズの名は、気温が上昇するとユーカリに含まれる油が気化し空気中に広がり、景観から反射する光の「青のスペクトラム」を相対的に良く通し、ブルーがかって見えることに由来している。 参考HP:〜 ・ニューサウスウェールズ州の道路地図(現在) ・マレー・ダーリング湿地帯の地図 ・マレー河の場所地図 ・大分水嶺山脈の場所地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 09/10/19、 10/2/25、令和7年 2025/12/29 |