★ロシア 探検大航海
セミョン・デジニョフ
1648
アジア最東端のデジニョフ岬を発見

大航海物語★
REPUBLIQUE DE DJIBOUTI
セミョン・デジニョフ船長

ジブチ 2010 発行

CCCP
氷海とデジニョフの探検航海
チュクチ半島→
探検ルート→

アラスカ
←デジニョフ達
1648 デジニョフのアジアとアメリカ間の海峡発見300年記念 1948
ソ連 1949/1/30 発行 (200%)

デジニョフ東岬と氷海

ソ連 1949/1/30 発行
ベーリング海の地図

ソ連 極東地域領土 1966/12/25 発行

セミョン・デジニョフはロシア帝国の探検家で、ヴィトゥス・ベーリングの探検に約一世紀先立つ、1648年にシベリア東部への探検隊を率い、ユーラシア大陸の東端となる岬を回航しました。後年、そこはデジニョフ岬と名付けられました。

セミョン・イワノヴィチ・デジニョフ  (1605〜1673)
 Semyon Ivanovich Dezhnyov

  ロシア帝国ポモール人の冒険商人・探検家
  チュクチ半島デジニョフ岬(ユーラシア大陸東端の岬)の発見者
  ヴォログダ州生、モスクワ:68才没
セミョン・デジニョフは17世紀初頭に北ロシアのヴォログダ州(Vologda Oblast)の河港都市ヴェリキイ・ウスチュグ(Veliky Ustyug)の農家に生まれました。長じて、夢と冒険の旅へとシベリア(Siberia)に向かい、トボリスク(Tobolsk)とエニセイスク(Yeniseysk)で働きました。1638年に、東シベリアに進出したコサックが1632年にヤクーツク(Yakutsk)入植地を取り囲むように柵を張り巡らして、レナ川(Lena)右岸にヤクーツク砦を築いて、それがエニセイスク軍政部の管理下にあることを聞き、エニセイスクからさらに東のそこへ向かいました。ヤクーツクに住みついて活動した20年間はデジニョフにとって厳しい時期で、先住民から毛皮を取り立て、何度も先住民と紛争を起こしながら北極圏の北極海沿岸や大河流域を休みなく旅する生活を送って交易活動をしました。地方政府の徴税の仕事(毛皮の徴収)もしていたと伝えられています。

1641年には15人を率いてヤナ川(Yana)流域で毛皮を集めてヤクーツクに生還し、1642年にはミハイル・スタドゥヒン(Mikhail Vasilyevich Stadukhin ?-1666)らとともにインディギルカ川(Indigirka)流域で税として毛皮を取り立てる旅に出ました。3年に渡る任務でスタドゥヒンらはヤクーツクに戻りましたが、デジニョフはそのままインディギルカ川を下り北極海に出てコリマ川河口に至りました。

1647年にデジニョフと同じく北ロシア(現在のアルハンゲリスク州ホルモゴルイ Kholmogory)出身でヤクーツクを拠点とする商人フェドット・アレクシーヴ・ポポフ(Fedot Alekseev Popov)は、コリマ川(Kolyma)河口から北極海沿いに東へ向かう航海を組織。前年の1646年にイグナチェフ(Ignatyev)という人物がコリマ川河口周辺の航海を行いセイウチの牙(Walrus ivory)や、クジラのヒゲ(Baleen)などの貴重な品を持ち帰っていたため、さらに東へ向かいこれらの産品を持ち帰えろうとしました。この時デジニョフはポポフに誘われ、鉱夫や先住民からの税の取り立てを行うためにポポフの航海に同行。ヤクーツクからレナ河を下って、遥か東のアナディリ川(Anadyr)へ向おうとしましたが、北極海航海で海氷が行く手を阻み航海途中で引き返すことになりました。

デジニョフやポポフはあきらめず、翌1648年も同じ航路に挑戦。彼らは90人から105人ほどの探検隊を組み7隻のコッチ船(Koch Sailing boat)に分乗してアナディリ川を目指しました。彼らは10週間の航海の後にアナディリ川河口にたどり着きました。それはアジア大陸の東端を周り、ベーリング海峡を南北に通過したことを意味し、デジニョフはアナディリ川を遡りアナディルスキー・オストログ(Anadyrskiy ostrog (fort)、アナディリ砦)を築き地図を作製しました。同年、デジニョフはアジア大陸先端の北岸に沿って航海し、当時アジア大陸とアメリカ大陸の間にあると想像された海峡で、北西航路や北東航路などヨーロッパからアジアへの最短航路を構成すると考えられていたアジアとアラスカの間の「アニアン海峡」(Strait of Anian)を発見したと記録に残しました。彼は海岸沿いにチュクチ半島(Chukchi Peninsula)を回航し、古代の地図作者が想像した伝説の「タビンの岬」(Tabin Promontorium)の詳細を記録し、デジニョフ岬(Cape Dezhnev)を発見しました。またチュクチ人(Ostrova zubatykh)の住む2つの島を記録していますが、それはベーリング海峡中央に浮かぶダイオミード諸島(Diomede) Islandsを構成する2つの島と考えられています。彼はチュクチの人々について、下唇をセイウチの牙のかけらや石や骨で飾ることを記録しています。一方のポポフはこの年の秋にアナディリ湾沿岸で亡くなりました。デジニョフがどの港に戻ったかは不明。彼は1664年にコサック隊長の称号を授けられました。この1648年のデジニョフとアレクシーヴの、コリマ川河口から東へチュクチ海を進み、チュクチ半島を回って太平洋側のアナディリ川河口へと往復した航海は、アジアとアメリカの間が陸続きでないことを証明する発見でしたが、その功績は長年忘れられたままとなりました。

1670年にクロテンなどの毛皮や書類を運ぶ仕事でヤクーツクからモスクワ(Moscow)へ行くことになり、デジニョフは1年5カ月をかけてモスクワへ到着しました。デジニョフは60才を超え、辺境での生活で負った古傷と長年の疲労のため健康を害して、1673年遅くにモスクワで亡くなりました。デジニョの探検の報告は長い間公文書館に埋もれており、19世紀の末に再発見され、これを受けてロシア地理学会はユーラシア大陸東端の岬をデジニョフ岬と名付けるよう請願を行いました。デジニョフの生涯や探検についてはなお明らかでない部分が多く不明です。探検の途中でアラスカに達しアメリカ大陸の西端を発見した可能性や、そこに砦を築いた可能性すらもありますが、それを行ったのはデジニョフ クロテン(Sable)

ソ連 1966/6/25 発行
より後のロシアの探検家とする見方が多くなっています。なお、ベーリング船長は極東カムチャッカ海域の探検隊の指揮をとり、1728年にベーリング海峡の西端デジネフ岬を回航、アジアとアメリカの間が海で隔てられていることを発見しました。

参考:〜
デジニョフ岬
 Cape Dezhnev(Dezhnyov)

デジニョフ岬とはロシアのチュクチ半島にある岬。アジアの最東端。場所は北緯66度01分、西経169度43分。名前は1648年に岬を発見したセミョン・デジニョフにちなんでつけられました。ベーリング海峡を挟んで反対側はアラスカのプリンスオブウェールズ岬で、2つの岬の間の距離は82km。中間に、ダイオミード諸島(アメリカ合衆国領のリトルダイオミード島とロシア領のビッグダイオミード島)が浮かんでいます。トルコのアナトリア西端にあるババ岬がアジアの最西端で、その距離は10,050km。
デジニョフ東岬

参考HP:〜
デジニョフ岬とプリンスオブウェールズ岬の地図
デジニョフ東岬の地図
チュクチ半島とセワード半島の場所地図
ベーリング海峡の場所地図
北西航路(Northwest Passage、アジア海峡)の地図
北東航路(Northeast Passage、北極海航路(北方航路、Northern Sea Route)=赤線

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   08/08/01、10/7/17、12/7/4

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