切手で綴る 太平洋戦争 物語
第2部 <帝国の侵攻>

第3章 <ホンコン攻略>

14 <ホンコン陥落>
1941/12/25


英領時代の香港

ホンコン 1984/6/21 発行

香港を砲撃する帝国軍

Hong Kong Falls to Japanese
タンザニヤ 1992/4/27 発行
ホンコン島

イギリス領ホンコン 1984/6/21 発行

・香港攻略作戦(昭和16年12月2日〜12月25日)はアメリカ・イギリスの極東三大拠点がシンガポールマニラ香港であり、大日本帝国の南進の脅威となっていたので、その奪取は不可欠と考えられていました。シンガポールとマニラの進攻作戦が南方軍によって行われたのに併行し、香港攻略戦は支那事変遂行上の大きな弊害となっていたこともあって、支那派遣軍によって行われました。敵性租界地の処理と在華米英武力の掃討が香港攻略作戦の主眼でした。香港は英国領の香港島と租借地・九竜半島からなり、九竜半島南部の高地にはトーチカ陣地からなる堅固な防御線(ジン・ドリンカーズ・ライン:Gin Drinkers' Line)が築かれていました。香港島の海側には堅固な砲台が構築され、九竜半島側に対しても複郭陣地が設けられていました。しかし、大局的には日本の制海空権下に孤立した要塞であり、又その弱点は180万人にも及ぶ過密人口とその給水の困難にありました。

昭和16年12月2日「大陸令第572号(鷹)発令さる」という電報で香港攻略命令が発令されました。酒井第23軍司令官は、12月9日1030 敵主陣地に対する攻撃準備に関する部署を命令。敵はその防御線において抵抗するものと判断し、砲兵を推進し1週間の攻撃準備期間を予定。敵要塞に対しての攻撃原則に従う組織的攻撃の指導でした。

・若林中尉の独断
第38師団・佐野兵団の歩兵228連隊は、右部署から第一線に進出していました。その先遣隊は若林東一中尉(1912/3/27-1943/1/14ガダルカナル島見晴山30才没)の指揮する第11中隊でした。若林中尉は連隊の先頭にあって標高255高地を偵察中、敵兵力配備の欠陥と警戒の欠如に乗じて9日夕刻、独断で敵陣地に突入、これを奪取してしまいました。歩兵228連隊主力はその機に乗じて一気に戦果を拡大し、第38師団は所定の攻撃準備期間を待たず10日に攻撃を開始、軍主力として12日に敵防御線の突破に成功。若林東一中尉はその後昭和18年1月にガダルカナル島で戦死しましたが、ガ島の決死敢闘及び香港攻略戦の偉攻に鑑み、後に2度の感状が授与されました。だが軍司令部内には当初、この独断行動に対し軍法会議に付すべきとの声もあったそうです。結果的には成功となった若林中尉の独断を黙認し擁護した土井連隊長・佐野師団長ら第38師団首脳と第23軍司令部内との間のしこりは、この後まで残りました

敵としても予想しなかった防御線の崩壊により、13日に九竜半島全部の掃討は終了。敵英軍の大部分は香港島に後退。

・香港島攻撃:
第23軍は香港島に対し、12/13と12/17の2回に亘り軍参謀多田中佐を派遣、降伏勧告を実施。非戦闘員への配慮と立籠ることへの戦略的な無意味さからでした。ヤング総督は2回ともこれを拒絶しましたが、帝国軍が香港島の一角に上陸すれば降伏するのではとの印象を与えました。

12月14日、北島司令官率いる重砲隊は攻撃を開始。12/18、香港島北角付近と東北部の2ヵ所で渡海を開始して、香港島東北部を占領。敵はニコルソン山の以西・以南の地区で抵抗を続行。戦闘は、18・20日の両日は混戦状態。香港要塞の本格的抵抗に直面。予想に反し、香港島の複郭陣地は九竜半島の防衛線よりも一層堅固なものでした。12/21、貯水池のある高地を占領、香港全域に対する給水を断ちました。さらに数昼夜にわたる激戦が続き、焦りの色が現れるようになった12/25、17:50英軍は白旗を揚げました。

かくして12月25日19:30をもって停戦になり、香港攻略作戦は終了しました。大日本帝国軍では九龍半島の攻略に数週間を見込んでいるも、準備不足のイギリス軍は城門貯水池の防衛線を簡単に突破され、九龍半島から撤退。香港島への上陸作戦は18日夜から19日未明にかけて行われました。島内では激戦となるも、イギリス軍は給水を断たれ、25日に降伏。日本軍はわずか18日間で香港攻略を完了しました。

・両軍の編成と損害:
 ・帝国軍の編成〜
   ・陸軍総兵力 39,700人
    ・第23軍 軍司令官 酒井隆中将(1887-1946)
           参 謀 長  栗林忠道少将(1891‐1945/3/26硫黄島没)
     ・第38師団  師団長 佐野忠義中将(1889-1945/7月仙台没)、23,228人
     ・第1砲兵隊 司令官  北島驥子雄中将(1888-1975)、 5,892人
     ・荒木支隊(第51師:66連隊基幹、 6,000人)
        荒木勝利大佐(1916-在任1941-1944、1945/6/10少将)
     ・軍飛行隊、作戦機 56機、 1,300人
        九八式軽爆撃機 34機、九七式戦闘機 13機
        九七式司令部偵察機 3機、九八式直協偵察機 6機
   ・海軍
    ・第二遣支艦隊 司令長官 新見政一中将(1887-1993)
     ・巡洋艦 五十鈴、駆逐艦 3隻

 ・英国軍の編成〜
   香港総督兼総指揮官(総兵力 13,000人)
    マーク・ヤング卿(Sir Mark Aitchison Young、在任1941/9/10-1941/12/25)
  ・陸軍〜香港駐屯軍司令官:クリストファー・マルトビイ少将
        (Major-general Christopher Michael Maltby、軍歴1911-1946)
     ・香港歩兵旅団
     ・カナダ旅団
     ・ロイヤル砲兵隊
     ・香港義勇軍   合計12,000人
  ・海軍〜司令官:A.C.コリンソン代将(Commodore A.C. Collinson)
     ・駆逐艦1隻、砲艦4隻(780人)
  ・空軍〜(100人)
     ・作戦機 5機
      ・ヴィッカーズ・ヴィルドビースト 3機
      ・スーパーマリン・ワルラス水偵 2機

 ・帝国の戦果   遺棄死体     1,555人
             捕虜        9,495人
             捕獲各種砲     110門
             戦車装甲車      10両

 ・帝国の損害   戦死        683人(内、海軍6)
             戦傷      1,413人(内、海軍8)


参考:〜
スーパーマリン・ワルラス Mk I の装備:〜初飛行:1933/6/21
  (Supermarine Walrus、イギリス海軍の複葉水陸両用偵察機)、運用開始:1935年
略 称 ワルラス(セイウチ)水偵 英:スーパーマリン・ワルラス水偵

パラオ 1992/9 発行
機体略号 Mk I
全 長 14.0m
全 幅 14.0m
全 高 4.6m
運用時重量 3,265kg
最大速度 215km/h
最大運用高度 5,650m
エンジン 680hp
航続距離 965km
乗 員 3〜4人
製造者 スーパーマリン社
生産数 740機
武 装 ヴィッカースK7.7mm機関銃×2
爆 装 345kg

こちらで
マレー攻略
ホンコン空襲
をお楽しみください。

参考HP〜
香港の戦い地図(赤線は堅固な防御線のジン・ドリンカーズ・ライン)
香港の場所地図
香港の地図(現在の特別行政地区)
香港の地図(Google Map、日本語)

・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。    15/8/8

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