Portugal 国連 1989 発行 |
切手で綴る 冒険大航海(Adventure Voyages)ポルトガル発見者の群像(1-2)
バーソロミュー・ペレストレロ船長 1420 ポルト・サンド島の総督になる |
大航海物語 ポルトガル編★ |
PORTUGAL ポルトガルの航海者 ペレストレロ船長 ポルトガル 1990-94 発行 |
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マデイラ諸島 | ||||||||
マデイラ島 | ←ポルト・サント島 |
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マデイラ 1980 発行 |
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PORTUGAL-MADEIRA |
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探検航海用のカラベル帆船 |
マデイラ諸島のポルトラノ海図 |
マデイラ 1981/7/1 発行 | |
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GAMBIA 西アフリカの地図 |
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アゾレス諸島 . マデイラ諸島 ポルト・サント島 カナリア諸島 . 西サハラ〜ボジャドール岬→ オーロ川 西サハラ〜ブランコ岬→ モーリタニア〜アルギン セネガル〜セネガル川 ヴェルデ岬諸島 ヴェルデ岬→ ガンビア川 ギニア シェラレオーネ |
エルミナ城 |
アフリカ大陸 | |
ガンビア 1992 発行 | |||
黒い突起は上から | ・ボジャドール岬 ・ブランコ岬 ・ヴェルデ岬(ダカールのあるヴェルデ岬半島に有) |
バーソロミュー・ペレストレロ船長(1395頃〜1457) Bartolomeu Perestrelo Bartolomeu Perestrelo, 1st Capitao Donatario (カピタン・モール(船隊司令官):Captain-major、ポ:(Capitao Donatario)Capitao-mor) ペレストレロ船長は、ジョアン1世のポルトガル貴族の出身で、1433年に紋章(旗印:Coat of arms)を許されており、1437年にはセントロ地方のコインブラ(#7 Coimbra, Center region)に屋敷を持っていました。ルーツはイタリアのジェノア(Genoa)貴族の出身だったと言われていますが、3度結婚して、3番目の妻イサベラ・モニツ(Isabel Moniz)の名前をとってペドロ・モニッツ・ペレストレロ(Pedro Moniz Perestrelo)と名乗って、ポルトガルのエンリケ航海王子の探検航海船隊と一緒に大西洋への航海に参加していました。 ザルコ船長とテイシェイラ船長はエンリケ航海王子から、1418/12月にアフリカ沿岸ギニア方面への探検航海を命じられてポルトガルを出帆しましたが、嵐で風に流され、海鳥とアシカがいるだけのポルト・サント島(Porto Santo Island)に漂着しました。この探検船隊にペレストレロ船長も参加していたという説もありますが、そこでザルコ船長は沈み行く太陽の方角にかすかな点を見つけたので、そこへ航海してマデイラ島を発見し、正式に領有を宣言して帰国しました。帰国したザルコ船長達はその新しい島々の発見で大歓迎を受けました。 この探検でマデイラ諸島のポルトサンド島が正式にポルトガル領となり、エンリケ航海王子によりカピタニア(capitania)という領主制で本格的に植民がなされることになりました。ポルトサンド島が植民地になるとペレストレロ船長は友人の船長達と共に、1419年からその島に入植し、定住してエンリケ航海王子のポルトサンド総督(1395頃-1457、正式には1446/11/1)となりました。ペレストレロ船長の娘フェリパ(Filipa Perestrelo e Moniz、1455生)は1479年にポルトサンド島でクリストファー・コロンブスと結婚しました。持参金の一部としてフェリパが持ってきたペレストレロ船長の「大西洋上での全ての風と潮流の地図」は、コロンブスの新世界発見に大きく貢献したといわれています。1480年に長男のディエゴ・コロン(Diego Colon y Moniz Perestrello, 1479頃とも-1526)が生まれました。
・マデイラ諸島の地図 ・マデイラ諸島の場所地図 参考地図HP:〜 ・マデイラ諸島 ・マデイラ諸島 (黒い所がポルトサント島) こちらで ・スパイス (香辛料) ・コーヒー (嗜好品) ・ヌビア遺跡 (エジプト)世界遺産 ・パルテノン神殿 (ギリシャ)世界遺産 ・法隆寺 (日本)世界遺産 をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。08/7/30追記、令和 R.2:2020/3/23、令和6年 2024/12/24 |