Spain 国連 1988 発行 |
切手で綴る 歴史の証人シリーズ (Historical
Witness)No.3
フェルナンド・ポー島 (ビオコ島) 1778〜1968 Spanish Fernado Poo |
Equatorial Guinea 国連 1981 発行 |
地 図 編 |
大航海物語 |
リンサン (ジャコウネコ) Linsang フェルナンドポー 1957/11/23 発行 |
ハリヅメガラゴ (コビトキツネザル) Needle Clawed Galago フェルナンドポー 1957/11/23 発行 |
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S.TOME E.PRINCIPE | ||
アフリカ西海岸 大西洋 サントメ島 |
メルカトル・ホンディウス版アトラスの1610年版地図 アフリカ・ギニア海岸の拡大図 1492 コロンブス新大陸発見500年記念 1992 サントメプリンシペ 1991/10/12 発行 |
←アフリカ 赤道ギニア領 ←-フェルンドポー島 (マラボ) ←プリンシペ島 ←サントメ島 ←アンノボン島 |
フェルナンド・ポー島 Fernado Poo (現:ビオコ島 Bioko)Fernado Poo (現:ビオコ島 Bioko) 現在:赤道ギニア共和国領(Republic of Equatorial Guinea) 旧スペイン領フェルナンド・ポー(Spanish Fernando Poo, 1778〜1968) 面積:約2017ku(日本の淡路島は855.26ku、佐渡島は592ku)、人口:約124,000人(2002) 最高峰:マラボ火山(3,008m)のピコ・バシル山頂(Pico Basile 3,012m) 民族:ブビ族(Bubi 58%)、ファング族(Fang 16%)、フェルナンディーノ(Fernandino 12%)、 イグボ(Igbo 7%、2002)、1番切手:"FERNANDO POO" 首都:サンタイサベラ 1860〜1968年発行。 フェルナンド・ポー島は、現在はビオコ島となり、赤道ギニア共和国領のギニア湾東部でビアフラ湾との境に浮かぶ島で火山島。島内最大都市は首都のマラボ。 ギニア湾には北から ・ビオコ島(旧フェルナンド・ポー島)、赤道ギニア領 ・南北70 km、東西60 kmで ・北北東から南南西に延びる島 ・プリンシペ島、サントメ・プリンシペ領 ・サントメ島、サントメプリンシペ領 ・アンノボン島(面積約17ku)、赤道ギニア領(サントメ島南西690 km) が有。 ビオコ島の海岸線は単調で、167km有。地理的には東方のカメルーンに近く、56kmしか離れていない。一方、南東のリオ・ムニへは260 kmと遠方に有。北部には成層火山マラボ山(サンタ・イサベル山)が有。南部はモカ台地を初めとする高地となり、南西部には直径5kmのカルデラ地形有。南部の山岳は浸食が早壮年期の段階にあって断崖と深い渓谷が縦横に走るため、交通手段がなく、居住に向かなかった。 1469年にポルトガルのフェルナン・ド・ポー船長(Captain Fernand Po)が発見してフォルモサ島(Formosa Flora Island)と命名。後にフェルナンド・ポー島と改名された。ポルトガル人はビオコ島に砦を築き領有したが、1778年にスペインに割譲。ビオコ島は奴隷貿易の中継基地となったが、1823〜1843年の間、イギリスの賃借地となり、奴隷制度が廃止となる。ビオコ島の気候が、特に降水パターンが<カカオの栽培に向いていたので、植民地時代にはナイジェリア東部から半強制的に連れてきたイボ族とイビビオ族を栽培に従事させてプランテーションを経営した。これらの住民はニヘリアノスと呼ばれている。第2次世界大戦後は1958年に赤道ギニアはスペインの県となり、現地住民はスペインの市民権を獲得。1963年にはフェルナンド・ポー県(ビオコ島)とリオムニ県に分かれた。 1966年に将来の独立が決まり、1968/10/12に赤道ギニア共和国として独立。カカオプランテーションではナイジェリア人季節労働者が栽培に携わっていたが、赤道ギニア政府の支給する賃金や労働条件が劣悪であるため、ナイジェリアとの間で関係が悪化、1975年には季節労働者の渡航を制限したため、2000年時点ではプランテーション労働者が不足している。1992/4月にアクバ油田の原油生産が始まり、1996年からはアメリカ合衆国のモービル石油が海底油田ザフィーロ油田からの原油採掘を開始して石油ブームが起きた。 ・フェルナンド・ポー略史:〜 1469、ポルトガルのフェルナンド・ポー船長が発見してフォルモサ島(美しい花)と命名 1494、ポルトガルがフェルナンド・ポー島と改名して殖民 1778、ポルトガルがスペインに割譲 1784、ポルトガルはスペインにアンノボン島を割譲 1823〜1843年の間、イギリスの賃借地となり、奴隷制度が廃止となる 1958、赤道ギニアはスペインの県となる 1963、赤道ギニアがフェルナンド・ポー県(ビオコ島)とリオムニ県に分かれ 1966、将来の独立が決まり 1968/10/12、赤道ギニア共和国として独立 1975、季節労働者の渡航を制限 1996、アメリカ合衆国のモービル石油が海底油田から原油採掘を開始、石油ブーム 2000、プランテーション労働者が不足。 フェルナンド・ポー以外のスペイン領アフリカ:〜 ・プラサス・デ・ソベラニア(Plazas de soberania) ・セウタ ・ペニョン・デ・ヴェレス・デ・ラ・ゴメラ ・イフニ ・西サハラ ・リオムニ
マシアス・ンゲマ大統領がファン族で、恐怖政治の強権的独裁体制を敷き、ビオコ島の多数派(赤道ギニア全体では少数派)であるブビ族の迫害・虐殺を行う。マシアス・ンゲマ治世の末期には、「赤道ギニアはアフリカのアウシュヴィッツと化した」といわれるほど、政権の残虐性が露呈していた。その拠点である首都マラボは、まさに恐怖の象徴であった。 現在のマラボは、1992年にビオコ島沖で油田が発掘されて以来、マラボはギニア湾の石油拠点として急速に発展を遂げることとなる。マラボ近くの沖合にある巨大油田ザフィーロ油田で、米国のモービル(現在のエクソンモービル)が原油生産を開始。赤道ギニア全体で1997年の成長率が71%という驚異的な数値が記録されるなど、現在に至るまでマラボは石油ブームに沸いている。それに比例し、各種企業や外国からの移民が相次いでマラボに集中するようになり、都市規模が拡大。石油輸出のために港湾施設も整備され、ギニア湾東部における交通拠点ともなり始めているが、この石油ブームの恩恵にあずかっているのは大統領一族と一部の政府高官、富裕層だけで、貧富の差が劇的に広がっている。マラボ住民の大半は一日2ドル以下で生活する極貧層で、スラムの形成から犯罪の増加も懸念されている。 赤道ギニア共和国の区分は7県(Province)に分けられいる。
参考HP:〜 ・フェルナンド・ポー島の地図(現:ビオゴ島) ・ギニア湾の地図(ビオコ島の場所地図) ・赤道ギニア共和国の区分地図 (ビオ島は:2・3) ・赤道ギニア共和国の地図(地勢図、川が良く解る) こちらで ・コーヒー ・スパイス (香辛料) ・ユネスコ (UNESCO:世界遺産の成立理由) ・パルテノン神殿 (ギリシャ)世界遺産 ・法隆寺 (日本)世界遺産 をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 11/4/5、2019/1/29、令和6年 2024/2/23 |