Spain![]() 国連 1988 発行 |
切手で綴る スペインの大航海 (Adventure Voyage)財宝輸送と対外戦争(VII-2)
ブラス・ド・レゾ提督 1740 イギリスのカルタヘナ攻撃に勝利 |
大航海物語 スペイン編★ |
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カリブ海沿岸の地図![]() マラカイボ湖 ジャマイカ 1992 発行 |
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ドン・ブラス・ド・レゾ提督は、片目・片手・片足で、時代こそ違いますが、イギリスの片目、片腕のホレイショ・ネルソン提督と好対照の海軍々人で、大西洋せましと活躍しました。 |
ドン・ブラス・ド・レゾ提督 Don Blas de Lezo y Olavarrieta (1687〜1741/9/7) レゾ提督はスペインのバスク州(#5)ギプスコア県パサジェス(Pasajes, Guipuzcoa)で生れました。1701年14才で士官候補生(Midshipman)としてフランスの海軍に入隊しました。1704年には17才でスペイン承継戦争(War of the Spanish Succession, 1701/7-1715/7/2)に従軍してイギリス・オランダ連合艦隊と戦いました。1704/8/24にスペイン・アンダルシア州(#1)マラガ県(#7)沖で発生したベレス・マラガの海戦(Battle of Velez Malaga) ・フランス・スペイン艦隊96隻 戦列艦51隻・フリゲート艦6隻・ガレー船12隻などと兵士24,277人 ・英ルーク提督(Sir George Rooke, 1650-1709)の英蘭艦隊 戦列艦53隻・フリゲート艦6隻などと兵士22,543人 が対峙して引き分けた海戦に従軍したレゾ候補生は戦闘が始まった直後に砲弾の破片で左足を失いました。その戦闘で示した勇気で、1704年にルイ14世によって海軍少尉(英Sub-Lieutenant 米Ensign)に昇進しました。 1707年にサンタ・キャサリン城の防御戦(仏トゥーロン港の包囲戦)で、サンタ・カタリナ・デ・トゥーロンの要塞(Fort Santa Catalina de Tolon)に駐留し、オーストリアのサヴォイア公ユージン王子(Prince Eugene of Savoy, 1663-1736)艦隊の攻撃からフランス海軍基地防衛に従軍しました。レゾ少尉は要塞に砲弾が命中した後に榴散弾の破片に見舞われて左目を破裂させました。短期間の療養後、フランス北西部の大西洋岸ヌーヴェルアキテーヌのシャラントマリティーム県(#21)ロシュフォール港(Port Rochefort)に配属された任務中に21船を拿捕してイギリスの船舶交通を妨害し、1707年に中尉(Ship Lieutenant)に昇進。3年後には再びフリゲート艦長に昇進。1712年にフランス海軍とスペイン海軍が分離した後には、スペイン提督アンドレ・ペズ(Admiral Andres Matias de Pes Marzaraga, 1653-1723)の命で海軍勤務をこなし、1713年に25才で大尉(Captain)に昇進しました。 1714年、カタルーニャ州(#10)バルセロナ県での第二回バルセロナ包囲攻撃戦(2nd Siege of Barcelona, 1713-1714, 仏ス勝利)にフリゲート艦カンパネラ号(Campanella, 70gn)艦長として従軍。この時、レゾ艦長は1隻のフリゲート艦で11隻のイギリスの私掠船を拿捕しました。拿捕したイギリスの東インド貿易の私掠船”スタンホープ号(Stanhope)”が重武装私掠船の象徴となりました。その最中に右腕を負傷しました。戦後に負傷した右腕をバルセロナでの外科手術で切断し、右腕を失いました。こうして、わずか26才で、若きブラス・ド・レソ艦長は片目、片手、片足が不自由になりました。そしてその年に戦争が終るまでに、レゾ艦長は少しの栄光(若い士官の中で最も勇敢だったこと)と引き換えに、身体をズタズタに引き裂かれたのでした。1715/6/15にレゾ艦長のカンパネラ号は、オーストリア王のマジョルカ島(現バレアレス諸島州#4)を征服するために派遣されたスペイン艦隊と共に兵士25,000人でアルクディア(Alcudia)に到着すると、マヨルカ島守備隊は抵抗なしに降伏しました。 スペイン継承戦争が終った後の1716年には29才で戦艦ランフランコ号(Lanfranco,16gn)の上級艦長(Senior Rank Captain)になり、1723/1/16に南海艦隊の指揮を任されました。それからの14年間は南米西海岸沿いの海賊船退治の任務に就き、海賊船11隻を捉え、太平洋岸のイギリス・オランダ海賊を一掃しました。1725/5/5にレゾ艦長はペルーのリマで、ロクンバ(現タクナ)出身クレオール人女性で20才年下のリマの上流社会の女性ホセファ・パチェコ・デ・ブストス(Josefa Pacheco de Bustos y Solis)と結婚し、7人の子供に恵まれました。 1727年40才でイギリスとの戦争が勃発すると、数百万の価値有る積荷を積載していた重装備のイギリス・ガレオン船6隻とオランダ・ガレオン船6隻を拿捕しました。 南米任務の後、地中海艦隊の司令官の命を受け、1730年スペイン・カディス港に投錨、スペインに帰国しました。1731/11/3に地中海艦隊の司令官(Commander of the Mediterranean Fleet)に任命されました。1731年には戦艦6隻でイタリイ・ジェノバ共和国へ、200万ペソの支払いを要求しに行きました。しかし、彼らは支払いませんでしたので、街を戦艦で砲撃して一瞬の内に灰にしてしまうと脅かして、金貨で全額を支払わせて、ジェノバを出帆してスペインに帰りました。1732年にはアルジェリアのハッサン湾”オラン”へ54隻で30,000人を上陸させて占領し、アルジェリア海賊を一掃し、カディスからトルコのイスタンブール(#34)迄パトロール任務に就き、海賊の跋扈を阻止しました。その後は北アフリカのアルジェリア人イスラム教徒を降伏させて、スペインとの戦いは高くつくことを思い知らせました。1734/6/6に海軍中将(Vice Admiral)に昇進し、カディス方面軍の司令官(Commander of the Cadiz Army)に任命されました。 1737年コロンビア北部ボリーバル県(#5)のカルタヘナ港(Cartagena)防御のために西インド(カリブ海)へ戻りました。今度は再度のイギリスとの戦いで、ヴァーノン提督(Edward Vernon)との戦いとなりました。イギリスはカリブ海方面に120隻の艦船と3万人の軍隊を送りました。1740年にブラス・ド・レゾ提督がそれを阻止するべくカルタヘナ防衛戦で向かい打ちました。18世紀最大の敗戦を英軍は喫しました。イギリスはジョージ・ワシントンの兄弟のローレンス・ワシントン(Lawrence Washington, 1718-1752)率いるアメリカ植民地軍2763人とジャマイカ人2,000人を使用して、カルタヘナのスペイン軍を攻撃しました。レゾ提督は6,000人の軍勢とたった6隻の艦隊、旗艦ガルシア号、サンフェリペ号、サンカルロス号、アフリカ・ドラゴン号、コンキスタドール号で港を守り、非常な劣勢にもかかわらす22戦を戦い抜き、イギリスに勝利しました。カルタヘナ包囲攻撃の丁度その時、マラリアと伝染病が両陣営に蔓延して、かってないほどの猛威を振るいました。勝ち誇っていたイギリスのヴァーノン提督がスペインのレゾ提督の軍門に下り、レゾ提督は「私は2本の足に勲章を貰ったようだ」とうそぶいたと伝えられています。1739年ヴァーノン提督はパナマのコロン県(#4)のポルトベロ港(Portobelo, Panama)を攻略しましたが、カルタヘナと同様にレゾ提督の軍門に下り、1741年イギリスへと空しく帰りました。 スペインの頑強なバスク(Basque)人(#5)の彼も、39年にも及ぶ海軍勤務と熱帯勤務での熱病ともあいまって、1741/9/7に54才で亡くなり、何処に葬られたか不明ですが、カルタヘナ(#5)のだとされています。 ・仏トゥーロン港の城 サンタ・キャサリン城(Santa Catalina Castle , Toulon)ではなく、ツアー・ロワイヤル城(Tour Royal Castle, Toulon)の説有。ツアー・ロワイヤル城はトゥーロン軍港(#93)の入り口を保護するために16世紀に建てられた要塞で、40門の大砲が装備されていました。スペイン継承戦争中の1707年にトゥーロンがイギリス・オランダ連合艦隊の攻撃にさらされて、その包囲攻撃に抵抗する戦いに役立ちました。 ・トゥーロン港の包囲戦 (Siege of Toulon, 1707/7/29-1707/8/21、仏ス勝利) トゥーロン包囲戦はスペイン継承戦争中の1707/7/29から8/21にかけて戦われ、イギリス海軍の支援を受けたイタリアのサヴォイア帝国(サルデーニャ王陛下の国:Savoyard Empire of Italy, 1003-1861)連合軍がトゥーロンのフランス基地を攻撃。サヴォイア公アマデウス2世(Victor Amadeus II, Vittorio Amedeo Francesco,1666-1732)の妨害にもかかわらず、サヴォイア公オイゲン(Prince Eugene Francis of Savoy-Carignano, 1663-1736)は7/11にフランスのヴァール県(#93)でヴァール川(river Var, 114km)を渡ることを決定し、1707/7/16にヴァール県のフレジュス(Frejus)に到着して英ショヴェル提督(Admiral Sir Cloudesley Shovell , 1650-1707)が指揮するイギリス艦隊に加わりました。しかしアマデウス2世の虚偽の言動で、スペインのベリック公爵(Duke of Berwic)率いる増援部隊は英サ連合軍に先んじて、7/26にトゥーロン港の救援に到着することができて、仏トゥーロン基地の防衛に成功しました。 参考HP:〜 ![]() ・中央アメリカの地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2007/4/30、令和7年 2025/2/18 |