カンボジア Kingdom of Cambodia |
カンボジアの地図 カンボジア 1969/11/27 発行 |
UNITED NATIOS アンコールの寺院を描く国旗 民主カンプチア (連合政府:CGDK) 国際連合(NY) 1989/9/22 発行 |
ROYAUME du CAMBODGE 現在の国旗 Kingdom of Cambodia カンボジア王国 1960/12/24 発行 |
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アンコール・ワット寺院 |
アンコール・トム寺院 |
カンボジア 1966/2/1 発行 (バイヨン) |
カンボジア王国 Kingdom of Cambodia 面積:18.1万ku(日本の約2分の1弱)、人口:1340万人(2008)、首都:プノンペン、民族:カンボジア(クメール)人90%、ベトナム人5%、華人1%、その他4%など36の少数民族、言語:カンボジア語、宗教:仏教9割以上(上座部仏教)、4%イスラム教徒(主にチャム族)など、通貨:リエル(KHR)、1番切手:1951年発行。2009年GDP:約108億ドル(約0.9兆円)で、鳥取県(日本県最小人口59万1150人(2009):GDP(2007)1兆 9992億円)の半分程の経済規模。 カンボジアの国家の推移:〜 ・扶南国(Funan、フナン:68-550) ・真 臘(しんろう、Chan Lap(チャンラ):550-802) ・クメール(アンコール)王朝 (Khmer Empire:802-1431) ・アンコール王朝 (Emperor of Angkor:889-910) ・ハシャールヴァルマン王の国 (Harshavarman I:Angkorian king:910-923) ・カンボジア王国 (1431-1863) ・チャークトモク王国 (Kingdom of Charktomok:1431-1525) ・ロヴェク王国 (Kingdom of Lovek:1525-1593) ・スレイソンソール王国(Kingdom of Srei Sonthor:1594-1620) ・オウドン王国(Kingdom of Oudong:1620-1863) ・フランス領インドシナ (French Colonial:1863-1953) ・大日本帝国占領 (Imperial Japan Occupaid:1941-1945) ・1953/11/9、カンボジア王国としてフランスから独立 ・カンボジア王国 (Kingdom of Cambodia:1953-1970) ・クーデター (1970、国王は亡命) ・クメール共和国 (Khmer Republic:1970-1975) ・民主カンプチア (Khmer Rouge:1975-1979) ポル・ポト時代(1975-1979)4年間は中国の毛沢東主義を奉じた極端な農本主義政策の 非効率的なやり方で大旱魃が起き、出生率が異常に低下、飢餓と虐殺、マラリアの蔓延などで 100万人を超えるといわれる大量の死者発生、1962年当時570万人が400万人(?)に激減 ・ベトナム軍の勝利(1979、ベトナム軍のカンボジア侵攻:1975-1989) ・カンプチア人民共和国 (People's Republic of Kampuchea:1979-1993) ・サムリン政権 (Heng Samrin(1934-2006):1979-1991) ・カンボジア国 (State of Cambodia:1989-1993) ・パリ和平協定 (1991/10)、カンボジア内戦終結:国連監視団(UNTAC(PKO):1992-93) ・国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC:1991-1993) カンボジア内戦の終結、停戦の監視と民政移行の実施のため、国連が設置 ・カンボジア王国 (1993-現在) カンボジアは3世紀までは未開の地でしたが、インドと中国の中間地点にある水路の要衝にあったため外国文化が流入し、商業国家として繁栄して稲作が発達したという説と、紀元前1世紀頃ほぼ現在のカンボジア南部からベトナム南部のメコン・デルタ地帯にまたがる地域に扶南(フナン)という王国があッタという説があります。ベトナム南部アンザン省バテ山とその付近の港市跡オケオ(当時の港町)で、1942年にフランス人考古学者ルイ・マルレが装身具や交易品多数を発掘しました。当地の後背地では後期新石器時代から人々が居住していて、プレ・オケオ文化の土器や遺跡がアンザン省ゴーカイトゥン遺跡やロンアン省付近の遺跡から発見されて、そこから西方に拓かれていたカンボジア平原まで人々が居住し、往来があったといわれています。 068-550、扶南国 6世紀、真臘(しんろう、チェンラ)が勃興 カンボジア国家の起源とみなされている国 (中国史料の北方クメール人)による扶南の属国の真臘が勃興 7世紀、真臘が扶南を滅ぼし、ジャヤーヴァルマン1世(657年 - 681年)の治世の頃に最大となる インド文化の影響を受けサンスクリット文字を使用したが、クメール文字も使われ始める 550-802、真臘は現在のカンボジアとラオス南部、つまりメコン川流域を領土としていたと推測 ジャヤーヴァルマン1世の没後に古代カンボジアは、 中国の記録にある北の陸真臘と南の水真臘に分裂し弱体化 8世紀、ジャワ王国のシャイレンドラ朝の支配下に入る 9〜13世紀、クメール王朝、 現在のアンコール遺跡地方を拠点にインドシナ半島の大部分を支配 802年、ジャヤーヴァルマン2世(Jayavarman II 770-在位802-854)がジャワ王国から独立、 ジャヤーヴァルマン2世はプノン・クレン丘陵の頂上で即位を行い、 ジャワからの解放を宣言してアンコール(クメール)王朝を創始 889年、ヤショーヴァルマン1世(Yasovarman I 889-910頃)がアンコールに都を築く、 その勢力範囲は現在の東北タイ地域まで広がっていて、その後何代かの王が続くが、 勢力争いや逝去で、どの王朝も長続きせず 1113年、スールヤヴァルマン2世王(Suryavarman II 在位1113-1150頃)が即位、国内各地の 敵対勢力と戦い国内を統一、国外においても西方のチャオプラヤー川デルタの シャム人やモン人と戦い、南隣のチャンパ王国や東隣の李朝へ攻め込み、王国の勢力は タイ中部、マレー半島、ベトナム南部に及び、王は寺院建築にも熱心で、クメール美術の 最高傑作であり、自身の墓でもあるアンコール・ワットを始め、トマノン、バンテアイ・サムレ などのヒンドゥー教寺院を建築 1150年頃、スールヤヴァルマン2世没、その後は王位を巡り争いが続く 1177年、チャンパ王国の大軍が都のヤショーダラプラを破壊 1181年、チャンパに遠征したジャヤーヴァルマン7世(1130-在位1181-1218)が帰国、 即位して王となり、粘り強く国造りを進める 1190年、ジャヤーヴァルマン7世(アンコール朝の第20代国王)が宿敵チャンパを降伏させる 8メートルの高さの堅固な城壁の「輝ける新都城」アンコール・トムを都として造成、 アンコール王朝の最盛期、熱心な大乗仏教の信者であった王は、 都の中心にバイヨンを建設し、バンテアイ・クデイの仏教寺院を建設、 1186年、タ・プローム(僧院)の仏教寺院を建設、 1190年、ジャヤーヴァルマン率いるアンコール軍がチャンパに侵攻して、その領土を奪う 1191年、プリヤ・カーンなどの仏教寺院を建設、 ジャヤーヴァルマン7世は国内に102ヵ所の病院と主要街道に宿場を建設 1218年、ジャヤーヴァルマン7世が亡くなる 1220年、ジャヤーヴァルマン7世は庶民の生活も重視するも、その没後は大規模な寺院建設と 領土獲得の遠征で国力が衰退していったと考えられている 1243年、ジャヤヴァルマン8世(1243-1295)が即位 1285年、ジャヤヴァルマン8世が元朝に朝貢 1292年、ジャヤヴァルマン8世が元朝に朝貢、 この時期に廃物事件が起こり、ヒンドゥー教に由来する題材に彫り直される 13世紀、元の侵攻が始まる 13世紀後半、タイのアユタヤ王朝((1351-1767)の侵攻が始まる 14世紀以降、タイとベトナムの攻撃により衰微 1431年、アンコール王朝ポニャーヤット王(1432-1462)がタイに近いアンコールを放棄 1432年、シャム族が首都アンコールを占領、アンコールの栄光の時代は終わりを告げ、 首都は転々とし、チャドモック(現在のプノンペン)に遷都 1471年、タイのアユタヤ王国の介入でトゥモー王が勝利し3国に分裂 ・スレイ王(1467-1474)の国 ・スレイ・ソリヨテイ王(1468-1474)の国 ・トゥモー王(1471-1498)の国 17世紀〜18世紀、隣国のタイやベトナムの侵略や干渉がつづき、国内は混乱 1845/12月年、清の承認でアン・ドゥオン王((1845-1859)が即位、 ひそかにシンガポールのフランス領事を通じて ナポレオン3世に援助を要請するも、事前にタイに情報が漏れ失敗 19世紀中頃、近代に入るとフランスのインドシナ半島(インドシナ)植民地化が始まり、 アン・ドゥオン王の子のアンヴァデイ・チュラロウン・ノロドム王(1860-1904/4/24)が フランスと交渉してフランスの保護国となる 1863年、フランスの影響が強まり、フランスが植民を開始(1863-1953) 1884年、フランス保護領カンボジア王国 1866年、ウドンからプノンペンに首都が移転 1887年、カンボジアが仏領インドシナに編入される 1907年、シャムからアンコール付近の領土を奪回 1940年、大日本帝国軍がインドシナに侵攻 1941/4/25、ノロドム・シアヌーク(Norodom Sihanouk、1922〜在位:1941-1955:1993-2004〜)が 国王に即位(-1955/3/2) 1941/12/8、大日本帝国がフランス・イギリス・アメリカ・オランダに宣戦布告(太平洋戦争勃発) 1945/03/11、ベトナムの保大(バオ・ダイ)帝が日本の援助下でベトナム帝国(越南)独立を宣言、 ベトナム民主共和国(後の北ヴィエトナム)成立〜南北分断時代(-1973) 1945/03/13、カンボジアのノロドム・シアヌーク国王が日本の援助下でカンボジアの独立を宣言 1945/04/08、ラオスのルアンパバーン朝のシーサワーンウォン国王がラオスの独立を宣言 1945年、大日本帝国無条件降伏 1946年、大日本帝国が連合国に降伏すると、再びフランスの保護下に戻り カンボジアの独立は消滅してシアヌークは粘り強く独立運動を続ける 1947年、ノロドム・シアヌーク国王(1922-在位1941-1955、1993-2004)の下で憲法を公布 1949年、フランス連合内での独立を獲得後、ベトナム戦争が始まり国内は不安定化し、 アメリカと南北ベトナムが介入して内戦状態となる 1951年、カンボジアが1番切手を発行 1953/11/9、カンボジア王国としてフランスから独立 1953年、警察権・軍事権を回復し完全独立、現代のカンボジア王国(1953〜1970)となる 1955年、アジア・アフリカ会議(バンドン会議:インドネシア)で シアヌークは非同盟・中立外交政策を表明、王位を父ノロドム・スラマリットに王位を譲り、 サンクム・リアハ・ニヨム(人民社会主義共同体、サンクム)を組織 カンボジアが国連に加盟 1955/3/2、「独立の父」として国民の人気を集めたシアヌークが選挙で首相兼外務大臣に就任 1956年、東南アジア条約機構への加盟を拒否される 1960/4/3、ノロドム・スラマリット王(Norodom Suramarit、1896-在位:1955/3/3-1960/4/3)亡くなる ノロドム・シアヌークは王位を空けたまま国家元首という新しい位を作って就任 1962年、人口調査(センサス)実施、人口:570万人といわれる 1962/2月、アメリカが軍事介入、ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)が勃発 1965年頃から、カンボジアの余剰米の少なくとも4分の1余りが北ベトナムとベトコンに買い上げられ 政府の買い付け値はこれより安く、地元共産主義勢力は反米反政府のビラを撒き暴動を 煽動してサムロート周辺の鎮圧作戦は数ヵ月間続き、右派と左派の衝突は強まる 1965/5月、シアヌークは北ベトナムへの爆撃を行なうアメリカ合衆国と断交を宣言、ベトナム戦争で カンボジア国内は不安定となるも、シハヌーク政権時代はまだ爆撃・内戦は激化せず、 食糧は豊富で輸入に頼らず大量の国内避難民も発生せず 1967/4月、バタンバン州サムロートで政府の余剰米強制買い付けに反対する 農民と地元政府との間で衝突が起こる 1968年、米軍の空爆が始まる 局地的に行われてきたアメリカ軍によるカンボジア空爆が、人口高密度地域を含む カンボジア全域に拡大、数十万人もの農民が犠牲となり、爆撃から1年半の間に 200万人もの国内難民が発生、ロン・ノル政権は国民の不人気となる 1968/10月、ポル・ポトがシハヌークを擁立してロン・ノル政権と内戦となる(カンボジア内戦) 1969年、カンボジアは耕作面積249万ヘクタールを有し米23万トンを輸出していた 1970/3/17、親米派ロン・ノル将軍がシアヌーク国王の外遊中にクーデターを決行、 シハヌーク政権打倒、シアヌーク王一派を追放して、親中共産勢力クメール・ ルージュ(KR)との間の内戦は一層激化、空爆がカンボジア全域に拡大され 数十万人が犠牲となりKRが勢力を伸ばす 1970/4月、ロン・ノルがホーチミン・ルート粉砕で、アメリカ軍と南ベトナム軍に自国を侵攻させる、 1970/10/9、ロン・ノル政権がクメール共和国の樹立宣言、激しい反ベトナムキャンペーンを行い、 南ベトナム解放民族戦線への支援が疑われるカンボジア在住のベトナム系住民を迫害、 虐殺してシアヌーク時代50万人のベトナム系住民のうち20万人がベトナムに大量帰還 1971年、アメリカ会計監査院の視察団はカンボジアの深刻な食糧不足を報告、 こうした状況のなか、都市部は米国からの食糧援助で食いつなぐが、 援助のいきわたらない農村部では大規模な飢餓の危機が進行 1971/1月、アメリカがロン・ノル政権支援で南ベトナム派遣軍の一部をカンボジアへ侵攻 1971/10月、ロン・ノルは軍事独裁体制を宣言 1972年3月、ロン・ノル軍事独裁政権が新憲法を公布 反政府活動は激化、クーデター後外遊中のシアヌーク国王は中国(北京)へ脱出、 国王を助け共にカンボジア帰国を果たしたのは、毛沢東主義に心酔したポル・ポト、 キュー・サムファン、イエン・サリらの指揮する共産主義勢力クメール・ルージュで、 彼らはカンプチア民族統一戦線を結成し、反ロン・ノル諸派の共闘を呼びかる 1973/3/29、アメリカがベトナムから完全撤退したため、ロン・ノルは強力な後ろ盾を失う、 爆撃で農村インフラは破壊され、カンボジアの農業生産は大打撃を受ける 1974年、耕作面積5万ヘクタールに激減し28万2000トンの米を輸入し、米の値段は 1975年に340リアルにまで急騰(1971年は10リアル) 1975年当時、カンボジアの食糧事情は危機的状況になる 1975/4/01、クメール共和国側が守る最後のメコン川の町ニークレウン(Neak Leung)が陥落、 ロン・ノルが国外に脱出、最終的にハワイへ亡命 1975/4/12、在カンボジアアメリカ大使ディーン(J.Gunther Dean)がアメリカ大使館を閉鎖し、 ヘリコプターでタイへ脱出 USAIDが「カンボジアの食糧危機回避には17.5万〜25万トンの米が必要である」と報告、 アメリカ国務省は「共産カンボジアは今後外国からの食糧援助が得られなくなるため100万 人が飢餓にさらされることになるだろう」と予測 クメール・ルージュの強制移住・重農政策はこうした状況で食糧増産を図るも、 非科学的・非現実的な諸政策により結果的には食糧危機を一層増大・深刻化させる 1975/4/17、午前9時30分にクメール共和国は降伏、クメール・ルージュが首都プノンペンに入城 極端な共産主義を掲げるKRが内戦勝利、KR独裁者ポル・ポト政権が成立 民主カンボジア(ポル・ポト)政権を樹立、同政権下で大量の自国民虐殺 プノンペン入城後クメール・ルージュは、都市部の住民を強制的に農村移住の意図で 「B-52による爆撃を避けるため」というデマの理由でプノンペンから離れるよう強制、 プノンペンからの立ち退きに例外はなく重病人や妊婦も強制的に立ち退かされ、住民は 行き先も教えられないまま炎天下を何日も徒歩で移動させられたため行き倒れになる者が 続出して大量の死者が発生 1976/01月、カンボジア民主国憲法を公布、民主カンプチア(Democratic Kampuchea)に改称、 クメール・ルージュは貨幣制度廃止、都市住民の農村入植と強制労働という極端な原始共 産制社会への回帰政策を実行。旧政権関係者、都市の富裕層や知識層、留学生、 クメール・ルージュ内の親ベトナム派などを虐殺。反乱の疑いのあるものは政治犯収容所 S21(現トゥールスレン虐殺博物館)などに収容して虐殺 1978/1月、ベトナム領内を攻撃し、ポル・ポトはベトナムと断交 ベトナムはソビエト連邦との関係を強化しており、中ソ対立の構図から、 中華人民共和国と関係の深いポル・ポト政権と対立することとなる 1978/5月、中央のポル・ポトへの反乱の疑いを持たれた東部軍管区を攻撃、 KR将兵が大量の軍民を処刑、東部地区の10数万人の避難民がベトナムに流入 1978/12/25、ベトナム軍が亡命カンボジア難民からカンプチア民族救国統一戦線(KNUFNS)を 組織し、元クメール・ルージュ将校でベトナムに亡命したヘン・サムリンを擁立、 ポル・ポト打倒を掲げカンボジアに侵攻 1979年までに、旱魃、飢餓、虐殺などで100万人以上とも言われる死者が出た (虐殺の数については5万〜330万と諸説あり)。 1979/01/06、ベトナム軍がプノンペンを攻略しKR(ポル・ポト)政権を打倒、KRは敗走して タイ国境近くまで駆逐されるも、ポル・ポト派を含む三派と ベトナム(ヘン・サムリン)派との間で内戦が激化、 幽閉に近い状態のシアヌークは再び北京へ逃亡、人口が400万人(?)に激減と推定される 1979/01/10、親ベトナムがカンプチア人民共和国(People's Republic of Kampuchea)を樹立 ヘン・サムリンのカンボジア人民党による政権(カンプチア救国民族統一戦線)は、 ベトナムの傀儡政権であるとして世界各国の承認を得られず、その後 プノンペン政権と民主カンボジア三派連合(KRに王党(シアヌーク)派・共和(ソン・サン) 派が加勢)の内戦 1979/02月、中国軍がカンボジア侵攻の報復としてベトナムを攻撃した(中越戦争) 中国は実戦経験豊富なベトナム軍に惨敗 1979/03月、中国軍がベトナムから撤収 1981/06月、サムリンは新憲法を採択し、フン・センが閣僚評議会副議長(副首相)に就任 1982/02月、反ベトナム3派(ポル・ポト、シハヌーク、ソン・サン)は北京で会談を開く 1982/07月、3派による「民主カンプチア連合政府」 (The Coalition Government of Democratic Kampuchea:CGDK)が成立し、 サムリン政権との内戦状態に入る 1983/02月、インドシナ3国首脳会談が開催しでベトナム軍の部分的撤退が決議される 1983/03月、ベトナム軍がポル・ポト派の拠点を攻撃 1984/07月、東南アジア諸国連合外相会談で駐留を続けるベトナムを非難する共同宣言を採択 ベトナム軍は内戦介入を続行 1985/01月、ベトナム軍が民主カンプチア連合政府の拠点を攻略 1985/03月、ベトナム軍がシハヌーク派の拠点を制圧 1988/03月、ベトナム首相ファム・フンが急死し、政変が起こる 1988/06月、ベトナム軍が撤退を始める 1989/09月、ベトナム軍の撤退が終り、フン・セン首相がベトナム軍の支えを失って弱体化、 内戦はさらに泥沼化となる 1991/10月、パリ和平協定が結ばれ、 フン・セン政権と民主カンプチア連合政府を合わせた 四派によるカンボジア最高国民評議会(SNC)が結成される 1990/6/4〜5、東京でカンボジア各派が参加する和平に向けた直接対話の場として 「カンボジアに関する東京会議」が開催される 1991/10/23、カンボジア和平パリ協定が開催され、最終合意文章で 「国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)」の設置、 武装解除と内戦の終結、難民の帰還、制憲議会選挙の実施などによる 19ヵ国調印に締結、20年に及ぶカンボジア内戦が終結 1992年、内戦が収まりつつある中でアンコールが遺跡として世界遺産に登録 1992/3月、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)活動開始(1992〜93) 事務総長は明石康さんが平和を維持する活動を開始、日本初の国連PKO参加 1993/5月、 UNTAC監視下で制憲議会選挙、国民議会総選挙(民主選挙)が実施される、 選挙結果は全120議席の内、 フンシンペック党 58議席(王党派フンシンペック党勝利) カンボジア人民党 51議席、 ソン・サンの仏教自由民主党 10議席、 その他1議席で、連立政権の「2人首相制」となり、 第1首相〜フンシンペック党党首でシハヌークの二男ラナリット 第2首相〜カンボジア人民党(人民党:旧プノンペン政権)のフン・センが選出される 1993/9/23、制憲議会が新憲法を発布し立憲君主制を採択(新憲法で王政復古) 1993/9/24、ノロドム・シアヌーク国王が再即位(-2004/10/29)して 23年ぶりの統一政権のカンボジア王国が誕生、 現在のカンボジア王国が成立 なお、UNTACは、自由で公正な選挙で選ばれた議会の 憲法発布・政府設立を見届けて暫定統治を終了 1994年、クーデター未遂事件が発生するもこれを最後に国内はおおむね平定される 1997/7月、首都プノンペンでフンシンペック党とカンボジア人民党の両首相陣営の軍隊が武力衝突 フンシンペック党のラナリット第一首相が失脚、ラナリットはパリに逃亡 1998年、36年ぶり(1962以来)国連人口基金(UNFPA)支援の下で人口センサス実施 1998/03月、ラナリット首相がシハヌーク王の恩赦で帰国 1998/04月、辺境のポル・ポト派支配地域でポル・ポトが山中で死んだことが明らかとなり同地平定 1998/7/26、第二回国民議会選挙(総選挙)、選挙がらみの暴力行為や殺人が横行したとされる 今度はカンボジア人民党が第一党となり、フン・センが第一首相に就任 第一次フン・セン首班連立政権 1998/09月、ラナリット首相が国民議会の議長に就任 1999/03月、上院(元老院 Senate)新設(二院制へ移行) 1999/4/30、カンボジアは東南アジア諸国連合(ASEAN)への加盟が延期されていたが、加盟 1999/12月、ポル・ポト派幹部が国民へ謝罪 2001/01月、ポル・ポト派幹部を裁く特別法廷が設置される 2003/7/27、 第三回国民議会選挙、選挙がらみの暴力行為や殺人は減少、おおむね順調な選挙 カンボジア人民党 73議席(ヘン・サムリン党首、副議長フン・セン) フンシンペック 26議席 サム・ランシー党 24議席、合計123議席 2004年、 第二次フン・セン首班連立政権発足 2004/10/29、シアヌーク国王が引退・退位、息子のノロドム・シハモニが新国王に即位 2004/10/07、アジア欧州会議(ASEM)加盟 2004/10/13、世界貿易機関(WTO)加盟 2006/01/12、 上院議員の第1回選挙 2006/10/18、フンシンペック党がラナリット党首を解任、 駐ドイツ大使のケオ・プット・ラスメイを選出、第1副党首にはルー・ライスレン、 第2副党首にはシソワット・スリウッド(シソワット王家の出身)を選出 2006/11/16、ラナリットは、ノロドム・ラナリット党(The Norodom Ranariddh Party)を設立 2007/03/13、フィリピン・マニラに滞在中のラナリットに背任罪の実刑判決(禁固1年6カ月)決定 2007/04月、地方統一選挙を前にして、ラナリットが妻の告発で1月に姦通罪で訴追されたと発表 カンボジアの法律により、禁固刑の判決を受けた者は刑期の3分の2を終えないと 2008年度の総選挙に立候補できない、ラナリットは海外に滞在 2008年、 第4回国民議会選挙、第三次フン・セン首班連立政権発足 日本ほかの協力で人口センサス実施、人口:13,400,000人となる 2009/12/18、カンボジア特別法廷が キュー・サムファン元国家幹部会議長を大虐殺(ジェノサイド)罪でも訴追することを通知 2009/12/16、カンボジア特別法廷が ヌオン・チア元人民代表議会議長、イエン・サリ元副首相の二人に大虐殺罪適用を決定 カンボジアは、20の州(khett)と4つの特別市(krong)に分かれる。州都(District) 01.バンテイメンチェイ州(Banteay Meanchey)、シソポン(Sisophon) 02.バタンバン州(BattamBang)、バタンバン 03.コンポンチャム州((Kampong Cham)、コンポンチャム 04.コンポンチュナン州(Kampong Chhnang)、コンポンチュナン 05.コンポンスプー州(Kampong Speu)、コンポンスプー 06.コンポントム州(Kampong Thom)、コンポントム 07.カンポット州(Kampot)、カンポット 08.カンダル州(Kandal)、タクマウ(Ta Khmau) 09.ココン州(Koh Kong)、ココン 10.ケップ特別市(Kep) 11.クラチエ州(Kratie) 12.モンドルキリ州(Mondol Kiri)、センモノロム(Senmonorom)、 80%が少数民族のプノン族(Pnong)、 残り20%:クメール人(Khmer)、華人及びイスラム教徒のチャム人(Cham) 13.ウドンメンチェイ州(Otdar Meanchey)、サムロン(Samraong) 14.パイリン特別市(Pailin) 15.プノンペン特別市(Phnom Penh) 16.シアヌークビル特別市(Preah Sihanouk) 17.プレアビフア州(Preah Vihear)、プレアビフア(名前はプレアビフア寺院に因む) 18.ポーサット州(Pursat)、ポーサット 19.プレイベン州(Prey Veng)、プレイベン 20.ラタナキリ州(Ratana Kiri)、バンルン(Banlung) 先住民集団と野生生物の宝庫で観光地、ヤクロウム湖(直径0.75kmの真円形) 21.シェムリアップ州(Siem Reap)、シェムリアップ トンレサップ湖やアンコール遺跡が有 22.ストゥントレン州(Stung Treng)、ストゥントレン 23.スヴァイリエン州(Svay Rieng)、スヴァイリエン 24.タケオ州(Takeo)、タケオ カンボジア人口(推定)の推移:〜
カンボジアの国土の大部分は海抜100m以下で、プノンペン西方にカーダマム山脈が連なり、最高峰プノン・アオラル山(1813m)があります。モンスーン気候帯に属し、5〜10月が雨季、11〜4月が乾季。雨季にはタイ湾からの風で気温は22度まで下がり、乾季には北東風で40度になります。雨季のメコン川の増水でトンレサップ湖に逆流し、湖面積がほぼ10倍に拡大。 カンボジア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件あります。 ・アンコール遺跡〜 内戦が収まりつつある1992年にアンコール遺跡として世界遺産に登録され、 1993年にはこの寺院の祠堂を描いたカンボジア国旗が制定されました。 ・アンコール・ワット寺院 Angkor Wat こちらのアンコール・ワットでお楽しみください。 ・アンコール・トム寺院 Angkor Tom こちらのアンコール・トムでお楽しみください。 ・プレアヴィヒア寺院(Preah Vihear Temple)〜 タイとの国境紛争地域に、2008年7月に世界遺産として登録。 参考HP:〜 ・カンボジアの区分地図 ・カンボジアの地図(日本語) ・クメール王朝の場所地図 ・扶南国とチャンパ国の場所地図 ・アンコールトム付近の地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 11/1/23 |