切手で綴る 太平洋戦争 物語 第2部 帝国の侵攻 第9章 敗戦の予兆 最初のターニング・ポイント(ミッドウェイ海戦) 44 <ミッドウェイ海戦 I> 1942/6/5 大日本帝国の攻撃 |
ミッドウェイ海戦の場所地図 |
米飛行艇が帝国艦隊を発見 |
空母 飛龍 |
1942 ミッドウェイ海戦50年記念 1992 ノーフォーク 1992 発行 |
大日本帝国海軍・連合艦隊司令長官 山本五十六大将 戦艦「長門」艦上で指揮 マーシャル諸島 1993 発行 |
アメリカ太平洋艦隊司令長官 チェスター・ニミッツ大将 パール・ハーバーで指揮 USA 1980-85 発行 |
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赤城 炎上 US DIVE BOMBERS DESTROY CARRIER AKAGI パラオ 1991/12 発行 |
ヨークタウン 炎上 Yorktown lost, US wins at Midway,1942 USA 1992 発行 |
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炎上する航空母艦 蒼龍 太平洋戦争50周年記念 ドミニカ 1995 発行 小型シート |
帝国海軍の南雲艦隊は航空母艦4隻、赤城、加賀、蒼龍、飛龍で、6/5未明ミッドウェー島を空襲。第2次攻撃のため艦載機の爆弾登載中の赤城に対して、米国艦載機が来襲・空爆。命中弾多数で炎上後、自沈処分で沈没。加賀、蒼龍も大破・炎上・沈没。残る飛龍の艦載機はヨークタウンを発見空襲、大破・炎上・沈没。その後、飛龍も被弾・沈没。帝国海軍は主力航空母艦4隻を一挙に失いました。 |
ミッドウェイ攻略の理由 (連戦連勝を続けていた帝国が敗戦して、 戦争勝敗の「ターニング・ポイント」となった海戦) 「ドーリットルの東京空襲」という本土初空襲が昭和17年4月18日に勃発。この空襲を受けて山本連合艦隊司令長官は、再度の奇襲を許さないためには、すみやかにミッドウエー作戦を実施すべきであるとして準備を進めさせました。また本土防衛に任ずる陸軍もこれに強く同意しました。当初難色を示していた海軍軍令部も、アリューシャン作戦と合わせて実施することになり、東京空襲を受けたことによって同意した陸軍から攻略部隊として一木支隊(後にガダルカナル島作戦に転用)も参加することとなりました。ミッドウェイ島攻略は、米機動部隊を誘い出し撃滅することとともに、東京空襲を防ぐため同島に哨戒線を前進させることを目的としていました。だが珊瑚海々戦のため大型空母2隻が不参加となり、潜水艦部隊の哨戒線配置が遅れ、インド洋作戦から帰投後の機動部隊などの作戦準備は不十分でした。 1942/5/27に帝国第1機動部隊は柱島泊地を出撃。5/2日、近藤中将指揮の攻略部隊主隊が出撃。その後、山本長官直率の主力部隊と高須中将の指揮する警戒部隊が続けて出撃。またそれより前の5/26、ミッドウエー作戦の北方からの牽制作戦として、アリューシャン作戦部隊、角田覚治中将の第2機動部隊が大湊を出撃。連合艦隊の各部隊は出撃直後、悪天候に悩まされました。また航海中各部隊は、厳重な無線封止を行っていたため、山本長官は各部隊の状況を掴むことはできませんでした。 一方帝国の暗号を解読しミッドウエー攻撃計画を知った米軍は、空母「エンタープライズ」「ホーネット」さらには珊瑚海海戦で大破しながらも、わずか3日間の突貫工事で応急修理を仕上げ、飛行隊の補充を終えた「ヨークタウン」の大型3空母を日本潜水艦が哨戒線につく前に配置につけて、帝国機動部隊を待ち受けました。またミッドウェイ島の防備も強化され同基地の航空部隊は約120機となっていました。 6月5日、南雲機動部隊は、ミッドウェー近海に到着すると、ミッドウェー空襲の為に第一次攻撃隊を発艦。しかし成果は上がらず、攻撃隊からの「第二次攻撃の必要あり」との打電を受け、南雲中将は、対艦攻撃用に魚雷を装備していた第二次攻撃隊に爆装への転換を命じました。その一時間後、偵察機が米艦隊を発見、南雲中将は再度魚雷への換装を命じ、度重なる命令変更に艦隊が騒然としていた時に、米攻撃機が殺到し、赤城、加賀、蒼龍が直撃弾を受けて瞬く間に炎上。残った飛龍が攻撃機を発進させ、ヨークタウンを航行不能に陥らせました。しかし、その飛龍もエンタープライズ航空隊の爆撃にあって、ついに力尽き、炎上・沈没。当時、敵空母2隻を沈没させたものと判断されていましたが、実際は1隻のみでした。空母は攻撃力は大きいが防御力は脆弱で、このため先制攻撃こそが最も効果的な防御手段でした。 ・帝国の艦隊編成:〜 (大日本帝国海軍連合艦隊司令長官 山本五十六大将(1884(明治17)-1943(昭和18)/4/18、ブーゲンビル島上空で戦死(海軍甲事件)、於:戦艦 長門)
・アメリカの艦隊編成:〜 (アメリカ太平洋艦隊司令長官 チェスター・ニミッツ大将(Admiral Chester William Nimitz、1885-1966)、於:パールハーバー)
・両軍の損害:〜
・航空母艦 赤城(あかぎ)の装備:〜竣工:1927/3/25 (大日本帝国海軍主力の正規航空母艦)、 昭和13年(1938)佐世保海軍工廠で近代化改装
なぜ、「ターニング・ポイント」となった海戦といわれるのかについて: この戦いにより帝国が失ったものは主力空母四隻だけではなく、当時世界最強と言われていた機動部隊と、その乗組員でした。これにより帝国軍は、機動部隊の建て直しをしなければならない事になり、これがズルズルと負け始めるきっかけになったと言われていますが、決してそんな事はないのです。それを証拠に太平洋の米空母はホーネットとエンタープライズのたった二隻だけで、まともに動ける戦艦は一隻もなかったのです。それに対して帝国は、まだ主力空母が二隻あるし、他に中型空母二隻、小型空母二隻もあり、しかも戦艦は全く無傷の十一隻もありました。戦力的には決して劣ってはいなかったのです。ではなぜ転機となったでしょうか?それは、太平洋戦争中で帝国軍がはっきりと分かる形で負けたのはこれが始めてでした。そして、これ以後の戦いで帝国軍がはっきりと分かる形で勝った戦いはなかったのです。従って転機と言われるのです。しかしそれだけではありません、それ以上に大きいのは、これにより山本長官の考えていた短期決戦構想から、主流が長期決戦構想に変わった事なのです。山本長官の考えたミッドウェー作戦の失敗によって、大本営内での山本長官の発言力が低下してしまったのが原因です。つまり中部太平洋侵攻によって米機動部隊を壊滅させる作戦よりも、南太平洋に侵攻してオーストラリアを孤立させる作戦が主流となってしまったのです。これが魔のガタルカナルにつながり、そして戦争を長期化させたそもそもの原因でした。そういう意味での転機だったのです。主として海軍の「短期決戦から和平交渉へ」が、主として陸軍の主張する「長期持久へ」と変ってしまいました。その上、「負け戦さ」は隠され、誰も責任を追求されず、一路敗戦へと突き進むことになりました。 こちらで ・米空母ワスプ撃沈 ・ミッドウェイ海戦 II ・アリューシャン空襲 をお楽しみください。 参考HP〜 ・ミッドウェー島の地図(環礁島) ・ミッドウェー島の場所地図 ・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。 2015/9/25、16/3/3 |
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