切手で綴る 太平洋戦争 物語
第3部 <米国(連合軍)の反攻>

第13章 ギルバート

73 <マキン・レンジャー>
マキン島奇襲上陸
1942/8/17

ギルバート諸島ブタリタリ島

キリバス  発行
米:米潜水艦 ノーティラス号

キリバス 1995 発行

潜水艦から暗夜にゴムボートで奇襲上陸・攻撃して撤退

マキン・レンジャー、奇襲上陸、1942/8/17-8/18
  (Makin Ranger Force Attack)、米軍の勝利
  別名(米軍呼称):マキン奇襲(Makin Island raid)
  場所:現キリバス共和国ギルバート諸島マキン環礁プタリタリ島
     (Butaritari Island, Makin Atoll, Gilbert Islands, Republic of Kiribati)
昭和17年8月17日、米潜水艦によるギルバート諸島マキン島奇襲作戦が実施されました。米海兵隊カールソン海兵中佐指揮の226人が潜水艦2隻に分乗、ゴムボート19隻で午前2時に奇襲上陸。第62警備隊マキン派遣隊・金光兵曹長以下73人が反撃し、7時間後にほとんど全滅しました。米軍レンジャーは翌18日に潜水艦で撤退しました。

▽両軍の兵力と損害:〜
○帝国軍の兵力
隊長〜金光兵曹長
・マキン派遣隊〜73人
○米軍の兵力
隊長〜カールソン海兵中佐
・レンジャー隊〜211人
○帝国軍の損害
・戦   死〜43人
・行方不明〜3人
・生   存〜27人
○米軍の損害
・戦   死〜21人
・戦   傷〜14人
・行方不明〜9人
・収容時溺死〜7人
※数字には諸説有
※米軍情報では、帝国軍死体83体。

▽両軍の編成:〜
○帝国軍の編成:〜1942/8月時点の守備隊兵力
ジャルート環礁(ヤルート島)第62警備隊派遣隊
 ・海軍陸戦隊1個小隊〜64人(小隊長:金光久三郎兵曹長)
 ・航空隊の整備員〜3人
 ・気象観測員〜4人
 ・軍属の通訳〜2人、計73人
※なお、島には現地人の集落が有、民間の日本人2人、スイス人1人も居住。

○米軍の編成:〜(Task Group 7.15)
・第2海兵奇襲大隊(2nd Marine Raider Battalion)
 別名〜カールソン奇襲隊(Carlson's Raiders)
 ・大隊長エヴァンズ・カールソン中佐(Lt. Col. Evans Fordyce Carlson 1896-1947)
  (日中戦争での中国共産党軍の軍事顧問でゲリラ戦の専門家)
 ・副隊長ジェームズ・ルーズベルト2世少佐(Major James Roosevelt II, 1907-1991)
  (当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの長男)
・上陸用ゴムボート(LCRL:Landing Craft Rubber Large)〜19隻
・米潜水艦:〜2隻
 ・ノーティラス号
   (USS Nautilus, SS-168, 2,730t, 88人、1945/6/30退役)
 ・アルゴノート号
   (USS Argonaut, SM-1, 2,170t, 88人、
  1943/1/10ラエからラバウルへ帰還船団5隻の護衛駆逐艦3隻(舞風、磯風、浜風)と上空から
  九九式艦爆が爆撃して、ピアース艦長以下105人と共に沈没)。

参考HP〜
マキン環礁島の地図
ギルバート諸島の配置地図
ギルバート諸島の場所地図
キリバス共和国の地図







74 <米軍、タラワ上陸>
1943/11/21


タラワ環礁の太平洋上の場所地図 タラワ環礁島

タラワの戦い25年記念
英領ギルバート・エリス 1968 発行
タラワ環礁島
破壊された帝国の戦車
米の砲爆撃で荒野となった島
平和記念碑
タラワの戦い40年記念
キリバス 1983 発行

タラワ上陸戦
US Forces Invade Tarawa 1943

第2次世界大戦勝利50年記念
マーシャル諸島 1992 発行
タラワ上陸戦支援の
米:航空母艦


タラワの戦い40年記念
キリバス 1983 発行
1943/11米軍がタラワ上陸
上陸後の白兵突撃戦

Marines assaurt Tarawa, November 1943

USA 1993 発行
1943/11米軍がタラワ上陸
掃討戦の火炎放射機攻撃と機関銃掃射


Nov.1943 US flame throwers on Tarawa

パラオ 1993 発行

昭和18年11月21日ギルバート諸島のマキン島・タラワ島に米軍は181隻の上陸支援艦艇をならべ、約200隻の水陸両用戦車と上陸用舟艇で上陸を開始しました。猛烈な艦砲射撃の援護でタラワ島に米軍が上陸を開始し、帝国守備隊は水際作戦で、三分の一を撃破するも、米軍は上陸。76時間にわたる白兵戦を交えた戦いの末にタラワ島守備隊4、800人はほとんど玉砕しました。対する米軍は18、600人で攻撃し、米軍の損害は3、000人以上の死傷者でした。11/24、第2海兵師団長スミス少将がタラワ島の占領を宣言しました。この両島の戦闘はペリリュウ上陸戦とならんで、血なまぐさい空前の激戦だったと記録されています。

タラワの戦い、1943/11/21〜11/23
  (Battle of Tarawa)、米軍の勝利
  場所:現キリバス共和国ギルバート諸島タラワ環礁ベティオ島
  (Betio Island, Tarawa Atoll, Gilbert Islands, Republic of Kiribati)
タラワの戦いは、ギルバート諸島という帝国本土の東南東約5,000km、ハワイ諸島の西南方約4000kmの赤道直下の40数個のサンゴ礁の島々が群がるうち南方にある16個ほどの環礁の中のタラワ環礁ベティオ島にて、米軍と帝国軍守備隊との間で戦われました。なお、その北方にある約30個の環礁がマーシャル諸島で、さらにマーシャル諸島の中の北西端にある40余の小島がブラウン環礁(エニウェトック島有)です。これらの島々はほとんどが珊瑚環礁という、円形または三角形状の一連の珊瑚礁の小島から成っており、標高は10m以下で起伏は少なく、岩盤はなく、そのため飛行場の建設は容易なるも、土中工事が困難で、また島嶼の地積が狭いため防御施設の設置には著しく不利でした。さらに魚類と椰子を除き生鮮食糧の自給は不可能な上に、地下水も塩分が濃く飲料には適さず、定期的に来るスコールが飲料水源でした。

その太平洋の東、中部太平洋上の狭小な島々、ギルバート諸島のマキン島、タラワ島は帝国軍が1941/12/10に無血占領していました。ところが、昭和17年8月17日に米潜水艦によるマキン島奇襲が起こり、それを契機に、急ぎ防備強化に着手し、昭和18年2月15日に第3特別根拠地隊が新編されるに及び、地上防備や航空基地の画期的な増強が行われました。その後7月、柴崎少将が司令官として着任すると軍紀の刷新と訓練の励行を重視し、特に払暁訓練と夜間訓練を連日連夜反復することにより、守備隊は面目を一新して精強の度を加えました。そこへ、アメリカ軍がガルヴァニック作戦(Operation Galvanic)の一環として、1943/11/21に上陸してきました。帝国陸海軍守備隊は、23日まで孤軍奮闘して戦い抜き、米海兵隊に多大な損害を与えました。

米軍の進攻準備と迎撃準備:米軍統合参謀本部は昭和18年9月 ニミッツ大将にギルバート諸島に対する作戦を指示。ターナー少将指揮の第54機動部隊が作戦を担任。攻略作戦は「ガルバニック」作戦と呼称され、主目標はタラワでした。上陸兵団は、タラワ島に約18、600人、その兵力は守備隊戦闘力の4倍に達しました。米機動部隊は9月中旬早くも準備作戦を開始、タラワ、マキン両島を空襲するとともに10月に入ると写真撮影を行いました。 そして11月19日から上陸前の本格的空襲を開始するとともに、連日にわたって艦砲射撃を加えてきました。

この動きから帝国連合艦隊は、陸攻隊約60機をもってタラワ南方海面の米機動部隊に攻撃を加えましたが大きな戦果は得られませんでした。また敵の砲爆撃のため地上施設はほとんど破壊され、部隊全員雨中に露営するという状況でもありました。さらに兵器・弾薬・糧食の損失も大きく、守備隊戦闘力の低下は否めなくなりました。

▽両軍の兵力と損害:〜
○帝国軍
・兵力〜4,500人
○米軍
・兵力〜18,600人
○帝国軍の損害
・戦死〜4,350人
○米軍の損害
・戦死〜1,000人
・戦傷〜2,100人
※数字には諸説有
帝国軍の捕虜は戦闘員17人、非戦闘員(朝鮮人軍属)129人。

▽両軍の編成:〜
○帝国軍の編成:〜
・第3特別根拠地隊本隊(柴崎恵次 少将)〜902人
・佐世保第7特別陸戦隊(菅井武雄 中佐)〜1669人
 ・大隊指揮小隊
  ・小銃中隊 1個中隊:指揮小隊
  ・軽機関銃小隊(軽機関銃、軽擲弾筒)
  ・機関銃小隊(重機関銃、重擲弾筒分隊)
 ・砲隊(山砲、歩兵砲)
 ・高射砲隊(7cm野戦高射砲、13mm高角機銃)
 ・戦車隊(九十五式軽戦車)
 ・輸送隊(トラック、大発、サイドカー)
・第755航空隊基地員〜30人
・第111設営隊 1247人(主に軍属:朝鮮出身の労務者を含)
・第4建築部タラワ派遣設営班〜970人(同上)
  ・計約4800人。

・帝国軍守備隊の兵力表:
帝国守備隊兵力: 約4、650人
第3特別根拠地隊本隊: 902人
佐世保第7特別陸戦隊: 1、669人
第111設営隊: 2、000人
755航空隊: 30人
20センチ砲: 2門
14センチ砲: 4門
8センチ砲: 6門
12.7センチ高射砲: 4門
戦車: 14両
以上の兵力がタラワ本島を中心に点在していました。

○米国軍の編成:〜
ガルヴァニック作戦(Operation Galvanic)
  米軍によるギルバート諸島(タラワ、マキン環礁)の攻略作戦
・中部太平洋部隊:第5艦隊
  司令官:レイモンド・スプルーアンス中将(Vice Admiral Raymond Ames Spruance 1886-1969)
・第54任務部隊(Task Foce 54)、ターナー隊
  進攻軍司令官:リッチモンド・K・ターナー少将(Rear Admiral Richmond Kelly Turner 1885-1961)
・第52任務部隊
 目標:〜マキン攻略ターナー隊
   司令官:リッチモンド・K・ターナー少将直率
  ・陸軍第27歩兵師団
    司令官:ラルフ・スミス少将
・第53任務部隊(Task Foce 53、兵站部隊)南方攻撃軍
 目標:〜タラワ攻略、ハリー・ヒル隊
  司令官:ハリー・ヒル少将(Rear Admiral Harry Wilbur Hill 1890-1971)
 ・第53.1任務群(Task Foce 53.1、掃陸輸送艦、駆逐艦)
  ・第1群(輸送群)
   ・攻撃輸送艦(APA)〜12隻
   ・攻撃貨物輸送艦(AKA)〜3隻
   ・兵員輸送艦(AP)〜1隻
   ・ドック型揚陸艦〜1隻
 ・第53.2任務群(Task Foce 53.2、掃海艇群)
  ・第2群(掃海群)
 ・第53.4任務群(Task Foce 53.4)
  ・第4群(砲火支援群)
   ・戦艦〜3隻
    ・テネシー号 (USS Tennessee, BB-43)
    ・メリーランド号 (USS Maryland, BB-46)
    ・コロラド号 (USS Colorado, BB-45)
   ・重  巡〜2隻
   ・軽  巡〜3隻
   ・駆逐艦〜9隻
 ・第53.5任務群(Task Foce 53.5)
  ・第5群(上陸群)
  ・第2海兵師団(US 5th Marine Division)
    司令官:ジュリアン・スミス少将(Lieutenant General Julian Constable Smith 1885-1975)
   ・第2海兵隊連隊(US 2nd Marine Regiment)
    ・第6海兵隊連隊(第5水陸両用軍団予備)
    ・第10海兵隊連隊(師団砲兵)
    ・第18海兵隊連隊(師団工兵)
    ・第2戦車大隊
    ・第2水陸両用輸送車(LVT)大隊
 ・第53.6任務群(Task Foce 53.6、護衛空母、駆逐艦)
  ・第6群(空母群)
   ・護衛空母〜5隻
   ・駆逐艦
・第5水陸両用軍団(US Marine Corps Amphibious Reconnaissance 5th Division)
  司令官:ホーランド・スミス少将(Major general Holland McTyeire Smith、1882-1967)
   合計:約35,000人(内上陸部隊:約18,600人)

マキン・タラワ攻略部隊の支援部隊:〜
・第51任務部隊第1群(Task Foce 51.1)、水陸両用部隊
  作戦指揮上の最高司令官:レイモンド・スプルーアンス中将
  旗艦:重巡インディアナポリス号(USS Indianapolis, CA-35)
・第50任務部隊第1群(Task Foce 50)
 ・空母機動部隊:司令官パウナル少将(Rear Admiral C. A. Pownall)
  ・第1群(第50.1任務部隊、パウナル隊:Task Force 50.1)
     司令官:パウナル少将直率
   ・空母〜3隻
    ・ヨークタウン号(USS Yorktown, CV-10)
    ・レキシントン号(USS Lexington, CV-16)
    ・カウペンス号(USS Cowpens, CVL-25)
   ・戦  艦〜3隻
   ・駆逐艦〜6隻
  ・第2群(第50.2任務部隊、ラドフォード隊:Task Force 50.2)
    司令官:ラドフォード(A.W.Radford)少将
   ・空母〜3隻
    ・エンタープライズ号(USS Enterprise, CV-6)
    ・ベロー・ウッド号(USS Belleau Wood, CVL-24)
    ・モンテレー号(USS Monterey, CVL-26)
   ・戦  艦〜3隻
   ・駆逐艦〜6隻
  ・第3群(第50.3任務部隊、モンゴメリー隊:Task Force 50.3)
    司令官:モンゴメリー(A.E.Montgomery)少将
   ・空  母〜3隻
    ・エセックス号(USS Essex, CV-9)
    ・バンカー・ヒル号(USS Bunker Hill, CV-17 )
    ・インディペンデンス号(USS Independence, CVL-22)
   ・重  巡〜3隻
   ・駆逐艦〜5隻
  ・第4群(第50.4任務部隊、シャーマン隊:Task Force 50.4)
    司令官:シャーマン(w:Frederick C. Sherman)少将
   ・空母〜2隻
    ・サラトガ号(USS Saratoga, CV-3 )
    ・プリンストン号(USS Princeton, CVL-23)
   ・軽  巡〜2隻
   ・駆逐艦〜4隻
・支援陸軍航空部隊
  司令官:W・エレクソン大佐
・第57任務部隊
 ・基地航空部隊

・別説〜
マキン・タラワ攻略の揚陸作戦総兵力
(マキン攻略部隊を含んだ第54任務部隊全般でポウノール空母機動部隊などを除く)
・戦闘艦艇:〜
 ・旧式戦艦〜7隻
 ・護衛空母〜11隻
 ・巡洋艦〜12隻
 ・駆逐艦〜75隻
・揚陸作戦艦艇:〜
 ・輸送艦等揚陸指揮艦(AGC)〜2隻
 ・ドック型揚陸艦(LSD)〜5隻
 ・戦車揚陸艦〜45隻
 ・揚陸輸送艦〜46隻
   ・貨物輸送艦(AKA)
   ・兵員輸送艦(APA)
 ・貨物船〜27隻
 ・病院船〜2隻
 ・その他〜65隻。

・タラワ島(ベティオ島)の戦闘経過:〜
11/21
02:00 上陸支援の艦砲射撃開始
02:59 第2海兵師団主力が約200隻の水陸両用戦車と上陸用舟艇でタラワ島北岸桟橋に上陸を開始。守備隊は水際戦闘により、敵2/3を撃破したが、遂に米軍の上陸を許す。米軍の損害は多く、攻略戦の死傷者の約半数は水際戦闘で生じました
06:35 「全軍決死敢闘士気旺盛ナリ」との戦況を柴崎司令官は発信
12:00 守備隊司令部地下壕を野戦病院にするため別の壕に移動中、敵の艦砲弾が命中、柴崎司令官以下幕僚全員が戦死。また島内の通信線もズタズタに切断されてしまい、統一された指揮系統は麻痺
13:30 タラワ守備隊の無線連絡は一旦途絶、東隣のバイリキ島も占領されるも、帝国軍の士気は衰えず、予め定められた部署によって各隊は迎撃を続行し終日敵を圧迫
11/22 米軍はさらに予備兵力を上陸させ、タラワ島中央部と西端付近を占領。米軍は飲料水、食糧、弾薬の補給に苦しんだが、輸送船を環礁内に進入させて揚陸を続け、午後からの後続部隊の上陸によって、戦況は上陸戦闘開始後約30時間を境に米軍に有利になりました。タラワの通信連絡は感度零になる
07:50 頃かすかな感度があって通信を再開
13:30 「〜桟橋に通じる南北線付近で彼我対戦中」と最後の報告を発信、その後無線連絡は全く途絶。戦闘は激化の一途を辿ったものと推定されました
11/24 追い詰められた帝国軍に対し、米軍は掃討戦の段階に入り、動ける将兵は総員見事な最後を飾る
13:00 米軍は東端に達し、第2海兵師団長、スミス少将はタラワ島の占領を発表
上陸から76時間余の戦闘が終了

参考HP〜
タラワ島の地図(飛行場と米軍突入海岸区分(RedBeach1,2,3)が有)
タラワ島の場所地図(米軍の担当区分地図が有)








75 <米軍、マキン上陸>
1943/11/21


マキンへ敵前上陸する米海兵隊
Nov.1943 American push on Makin


第2次世界大戦(マキンの戦い)50年記念
パラオ 1993 発行
ギルバート諸島ブタリタリ島

英領ギルバート・エリス 1973 発行

空 襲
艦砲射撃
ビーチへ上陸
掃討戦

マキンもタラワと同時(18/11/21)に攻撃され猛烈な艦砲射撃の援護のもとに8、472人の米軍が上陸。2日目の夕刻には守備隊693人(そのうち戦闘員は僅かに250人)が全滅しました。23日未明には最後まで生き残っていた約30人が総攻撃をして、マキンの戦闘は終了しました。

米軍、マキン上陸、1943/〜1
  (Battle of Makin)、米軍の勝利
  場所:現キリバス共和国ギルバート諸島マキン環礁プタリタリ島
     (Butaritari Island, Makin Atoll, Gilbert Islands, Republic of Kiribati)
マキン島はギルバート諸島の最北端にある環礁で、米軍の上陸したプタリタリ島は環礁群の南部にあって、東西約15km、南北約1,000mの細長い島です。ここには帝国のギルバート北部行政官駐在所、修道院、南洋興発支店などがあり、島の人口は2、400人でした。

帝国はギルバート諸島マキン環礁プタリタリ島を年に無血占領し、環礁内に水上機の基地を建設して以来、70人の守備隊を置いていました。そこへ1942/8/17に潜水艦での米マキン・レンジャーの奇襲上陸で、帝国守備隊は全滅しました。

<帝国軍の防備強化>
そこで、帝国軍は急ぎ防備強化に着手し、マキン島には昭和18年2月以来、海軍第3根拠地隊のマキン派遣隊のほか航空基地隊、海軍設営隊などが進出し、その総人員は約700人でした。そのうち戦闘員は僅かに250人で、火砲は8センチ砲3門・8センチ高射砲3門、13ミリ機銃12門に過ぎず、タラワ島のように要塞化はされていませんでした。
○帝国軍の編成:〜
帝国第3特別根拠地隊分遣隊: 243人
第111設営隊: 340人
第952、802航空隊: 110人 計:693人
8センチ砲: 3門
8センチ高角砲: 3門

1943年11月19日から連日空襲が行われるようになり、21日早朝に米陸軍27師団の1個連隊が上陸。守備隊は奮戦するも、23日早朝に1人を除き全員玉砕。 アメリカ軍の護衛空母「リスカム・ベイ」はこの作戦中、日本の潜水艦「伊175」の魚雷攻撃により失われ、マキン島の陸上戦の死傷者を大きく上回る損害を出した。一方、日本側もギルバート諸島の戦いの間、この方面で多数の潜水艦を失いました。

マキン島(ブタリタリ島)の戦闘経過:〜1943年
11/21
03:00 猛烈なる艦砲射撃のもとに米第27師団の165聯隊主力が島の西岸と一部は北岸付近に上陸開始。すでにこの日まで6波にわたる空襲で100人の死傷者を出していた帝国守備隊でしたが、敵の上陸を迎え撃ち頑強に抵抗。上陸軍は実戦経験がなく、援護砲撃の下でしか行動できませんでした。このため守備隊の反撃にあうと前進を停止するのが常で、この弱腰を利用して米軍をかき回したといわれています
04:30 外部との無線連絡は途絶
11/22 なおも抵抗は続きましたが、戦闘員250人に対し絶対優勢の敵の攻撃には立ち向かうことができず全島が米軍の手に渡りました
11/23 未明、最後まで生き残った約30名の攻撃でマキン島の戦闘は終了

▽両軍の兵力と損害:〜
○帝国軍
・兵力〜693人
○米軍
・兵力〜6,742人
○帝国軍の損害
・戦死〜約500人
○米軍の損害
・戦死〜65人
・戦傷〜152人
※数字には諸説有
※帝国軍の捕虜は戦闘員1人、非戦闘員(朝鮮人軍属)104人。

▽両軍の編成:〜
○帝国軍の編成:〜
・帝国軍海軍部隊〜総兵力693人
 ・第3特別根拠地隊分遣隊 243人
  ・分遣隊長兼分隊長:藤野斉助 特務中尉
   ・付:井崎直 予備少尉
   ・付:平間光 軍医中尉
 ・第952航空隊基地隊員〜60人
  ・飛行隊長:佐々木栄 少佐
   ・軍医:森下幹夫 大尉
 ・第802航空隊基地員〜50人
 ・第111設営隊〜340人(主に軍属、うち朝鮮出身者200人)。

○米国軍の編成:〜
  マキン攻略部隊:〜地上兵力〜6,400人
中部太平洋部隊:第5艦隊(レイモンド・スプルーアンス中将)
・第5水陸両用軍団
  司令官:ホーランド・スミス少将
 ・第52任務部隊
  目標:マキン攻略 司令官:リッチモンド・K・ターナー少将直率
  ・陸軍第27歩兵師団〜1個連隊
    司令官:ラルフ・スミス少将
※米上陸軍の支援艦隊はガルヴァニック作戦支援部隊を参照。

参考:〜
九五式軽戦車ハ号の装備:〜採用1930年代中期
  (大日本帝国陸軍の軽戦車)
米軍の上陸用舟 敢闘虚しく撃破された帝国の戦車

キリバス戦終結50周年記念
キリバス 1993 発行 シート地
帝国の戦車
略 称 ハ号
全 長 4.30m
全 幅 2.07m
全 高 2.28m
装 甲 6-12mm
重 量 自重6.7t、全備重量7.4t
速 度 40km/h (最大) 31.7km/h (定格)
行動距離 240km
乗員数 3人(車長、操縦手、機関銃手)
生産数 2,378輛
エンジン 三菱空冷直列6気筒ディーゼル、排気量14,300cc
武 装 主砲:九四式三十七粍戦車砲、
又は九八式三十七粍戦車砲 (120発)
副武装:九七式車載重機関銃×2(車体前部・砲塔後部3,000発)
※帝国戦車としては最多が生産され、九七式中戦車チハと共に第二次世界大戦中の帝国軍の
主力戦車として運用。初めてこの軽戦車が本格的に投入されたのはノモンハン事件(1939/5/11-1939/9/16)。

参考HP〜
マキン環礁島の地図
マキン環礁島の地図(攻撃地点の表示有)
マキン島の場所地図(米軍の担当区分地図が有)







76 <米軍、アパママ島見張所上陸>
1943/11/21


潜水艦から暗夜にゴムボートで奇襲上陸
ギルバート諸島アバママ環礁島

英領ギルバート・エリス 1973 発行
米:米潜水艦 ノーティラス号

キリバス 1995 発行

アパママ島見張所上陸、1943/11/21〜11/26
  (Battle of Apamama)、米軍の勝利
  別名(米軍呼称):ボックスクロス作戦(Operation Boxcloth)、
  場所:現キリバス共和国ギルバート諸島アバママ環礁アパママ島
     (Apamama Island, Abemama Atoll, Gilbert Islands, Republic of Kiribati)
アパママ島は帝国水陸航空基地の好適地でしたが、配備する兵力不足のため基地建設は行われず、海軍見張所の24人が駐屯していました。そこへ米軍が潜水艦で上陸、攻撃してきました。

1943年 戦闘経過
11/20 午後 遅く、米潜水艦ノーティラス号がアパママ島海岸沖に到着
11/21 深夜 ノーチラス号から米偵察中隊78人がゴムボートで無血上陸
11/22 午後 海軍見張所員の抵抗を受け、対峙戦が2日間続く
11/23 ノーチラス号の援護射撃は功を奏さず
11/24 午後、駆逐艦ガンズヴォート号が到着
シルヴァーソーン大尉が乗艦して援護射撃を依頼
18:00〜19:00、駆逐艦が艦砲射撃で島に大砲を打ち込む
砲撃で帝国見張所員14人が死傷
11/26 早朝 残る見張所員10人が全員、切腹で自殺
07:00 戦艦に護衛された攻撃輸送艦などで、支援部隊が到着
1030 米偵察中隊は撤退
第2海兵師団第6連隊第3大隊が上陸

▽両軍の兵力と損害:〜
○帝国軍
・兵力〜24人
○米軍
・兵力〜78人
・潜水艦の砲撃
・駆逐艦の砲撃
○帝国軍の損害
・戦死〜14人
・自決〜10人
○米軍の損害
・戦死〜2人
・重傷〜2人
・軽傷〜1人
※数字には諸説有

※米上陸部隊の装備品:〜
・米海兵隊水陸両用偵察大隊(US Marine Corps Amphibious Reconnaissance Battalion)
 中隊78人が10人乗ゴムボート(LCRL)8隻に分乗・上陸
各自が
・チューインガム・タバコ入り携行食(K-ration)3日分
・チョコレート甘味料(D-ration)1包
・手榴弾(fragmentation grenade)2個
・M1ライフル銃(M1 Garand rifle,48)、又は
  U.S.M1カービン銃(M1 carbine,45)を1丁所持
その他に
・ブローニングM1918自動小銃(M1918 Browning Automatic Rifle,260)
・ブローニングM1919重機関銃(M1919 Browning machine gun,2000)
・背負型無線機(511 SCR(Signal Corps Radio) radio sets)8台
・ナバホ・,コードトーカー無線機(Navajo Code Talkers:TBX-8 radio sets)2台
・ブラインダー銃(blinder gun)2丁
・手旗信号(semaphore flags 14" x 26" panels)6セット、を装備していました。

※主な米海兵隊攻撃隊員:〜
・総指揮官ノーチラス号アーウィン艦長
 (Commander William D. Irwin, the Nautilus's captain)
・ジョーンズ大佐(Captain Jones)
・ハント少佐(Major Hunt)
・シルヴァーソーン大尉(1st Lieutenant Merwyn H. Silverthorn, Executive Officer)
・クロスビー中尉(Lt. Crosby、the Navy CEC Engineers)
・パトリック砲術軍曹(Gunnery Sergeant Charles Patrick)
・ランドフォード軍曹(Sgt Samuel F. Lanford)
・ベントン軍曹(Sgt Daniel J. Benton)
・キング伍長(Cpl John F. King)
・マーレク上等兵(PFC(PrivateFirstClass) Marek)、戦死
・ミラー上等兵(PFC William D. Miller, BAR Marines)ブローニング自動小銃手、戦死
・ザンバージ2等兵(Private Bert B. Zumberge)
・ベリー2等兵(Pvt Carroll E. Berry)
・ハンスレー2等兵(Pvt James E. Hensley)
・メッセンジャー2等兵(Pvt Dannie O. Messenger)
・フィールズ衛生兵(company's Corpsmen James E. Fields)
・フェル衛生兵(company's Corpsmen Morris C. Fel)
・シン隊ハンド中尉(Lt. Hand)、偵察将校
・コーレイ隊ポワ−ズ2等兵(Pvt Homer J. Powers)ブローニング自動小銃手
・第1小隊長シン大尉(lst Lieutenant Leo B. Shinn, 1st Platoon)
・第2小隊長ミネアー中尉(Lieutenant Harry C. Minnear, 2nd Platoon)
・第3小隊長ラッセル大尉(1st Lt. Russell, 3rd Platoon)
・第4小隊長コーレイ中尉(Lieutenant Corey, 4th Platoon)

※支援艦隊:〜
・駆逐艦ガンズヴォート号(USS Gansevoort DD-608, 1942就役, 1,620t, 276人, 1946退役)
・戦艦メリーランド号(USS Maryland BB-46, 1921就役, 32,500t, 1080人, 1947退役)
・攻撃輸送艦ハリス号(USS Harris APA-2, 1921就工, 13,529 , 13,529t, 622人, 1947退役)

※支援隊:〜
・第2海兵師団第6連隊第3大隊(3rd Battalion, 6th Marines Regiment, 2nd Marine Division)
 ・指揮官:副官ハームル准将
  (Brigadier General Leo D. Hermle, Assistant Division Commander)

なお、アバママ環礁には
・スティーヴ島(Steve)、最北端の主島で右回りに
・オスカー島(Oscar)
・オットー島(Otto)
・オルソン島(Orson)
・ジョン島(John)
・ジョー島(Joe)の6つの島礁(Islet)が有。

帝国では逆上陸作戦が企図されました。米軍のギルバート諸島来襲を知った帝国連合艦隊はギルバート諸島方面の敵上陸地点に逆上陸を決行して敵上陸部隊を撃滅しようと企図。ポナペ島(現ポンペイ島)の甲支隊・第52師団の約2、000人に対し、11/22に命令を下達。また第2艦隊主力(巡洋艦6 駆逐艦8)と陸攻24機、戦闘機32機にマーシャル方面進出を下令。甲支隊と海空部隊は11月下旬クエゼリン、ルオット島などに到着。しかし時すでに遅く、ギルバート諸島は敵の領有する所となっていました。このため同方面奪回の好機は去り、陸軍部隊の増援、逆上陸も中止しなければならない状況となり、結局、諸部隊はマーシャル諸島に留まることになりました。

ギルバート作戦は米国政府が11/26朝、タラワマキンを占領したことをラジオ放送を通じて発表したことで終了しました。帝国大本営は1ヵ月後の昭和18年12月20日に両島の玉砕を発表。米軍のギルバート諸島獲得は、マーシャル諸島への足掛かりを得ることとなり、帝国海軍の航空・潜水艦戦力の低下と米海軍の戦力充実化によって一気にマリアナをも席巻しました。この作戦は米軍、特に海兵隊における士気に及ぼす影響は甚大でした。過去の激戦は、アッツ島は酷寒、ガダルカナル島はマラリアやデング熱という複合条件があったのに対し、初めて帝国軍守備隊と純粋な戦闘に勝ち抜いた自信は、個々の戦闘員を通じて米国民全体に自然に浸透しました。一方、この米軍のギルバートへの進攻は帝国海軍にも重大な影響を与え、ブーゲンビル島・ニューギニア島の南東方面は苦しい防戦を続け、南西方面は援蒋ルートの奪還の兆しが見え、東西寸時も油断のできない情勢下にあって少ない兵力で対抗しなければならなくなりました。

参考HP〜
アバママ環礁島の地図
ギルバート諸島の配置地図(Abemama)


マーシャル諸島沖航空戦、1943/12/5
 (Battle of Off Marschall Islands)
マーシャル諸島沖航空戦は米空母機動部隊第50任務部隊を帝国の基地航空隊が攻撃した戦いで、帝国軍航空機・艦船が大損害を受け、米軍は空母1隻などが損傷しました。

ガルヴァニック作戦タラワマキン)の援護任務を終えた米第50任務部隊(チャールズ・A・パウナル少将)は、帝国海軍基地航空部隊による反撃(ギルバート諸島沖航空戦:1943/11/21-11/29)をも軽微な損害でしのぎ切り、引き続きギルバート諸島西方を遊弋していました。
帝国基地航空隊の攻撃
一式陸攻(G4M1)

グレナダグレナディーン 1995 発行

一方、帝国側は、ブーゲンビル島沖航空戦とギルバート諸島沖航空戦で米機動部隊を壊滅させたと信じており、米軍の反攻作戦は相当に遅れると楽観視していました。マーシャル諸島方面の警戒態勢も解かれ、各地から集まっていた基地航空部隊には元の場所への復帰が命じられました。航空隊の総指揮を執る内南洋方面航空部隊指揮官は第二十二航空戦隊が再建のためテニアン島へと転進するのにともない、第二十二航空戦隊司令官 吉良俊一少将から、第二十四航空戦隊司令官 山田道行少将に交代。12月に入ってからのマーシャル方面への空襲ば、12/1にマロエラップ環礁に米大型機10機、12/2にミリ環礁に米大型機9機が来襲して投弾したのが最大でした。
1943年
12/1 米機動部隊はマーシャル諸島の攻略作戦の事前攻撃として、マーシャル諸島の帝国軍基地にさらなる打撃を与えるため、第50.1任務群)と第50.3任務群で、クェゼリン環礁とウォッジェ環礁へ向う
・エセックス・レキシントン攻撃隊がルオットを攻撃、
・エンタープライズ・ヨークタウン攻撃隊がクェゼリンを攻撃、
・その他はエビジェを攻撃
12/5 未明、米機動部隊はロンゲラップ環礁の東南東洋上、ルオットの北北東116海里に到達、計386機の攻撃隊を発進、東方に針路を変えて帰還を待つ
クェゼリン環礁外で脱出艦船攻撃のため米潜シール号(USS Seal, SS-183) が待機
4:55 ルオットの警戒レーダーが攻撃隊の接近を探知、帝国軍ルオット基地の第281航空隊戦闘機27機と、第三艦隊地上派遣戦闘機26機が迎撃
空中戦で帝国16機喪失、3機大破、戦闘機10機が地上炎上、陸攻機10機被弾、エビジェ水偵17機破壊、米攻撃隊の損害は5機
ルオットで五十鈴が爆撃3度の直撃弾で中破、特設運送船 建武丸(拿捕船、6,816t)沈没
クェゼリンから輸送でルオットに向かう長良は至近弾で魚雷誘爆にて戦死48、重軽傷者112人、特設駆潜艇 第七拓南丸(日本海洋漁業統制、342t)、特設給炭油船 朝風丸(山下汽船、6,517t)など5隻の特設艦船が沈没、杵埼や特設工作艦 山霜丸(山下汽船、6,776t)などが損傷、長良と五十鈴は山霜丸が応急修理後、トラック島へ向う
6:30 第531航空隊 天山6機(松崎三男大尉)がウォッジェを発進、マロエラップで魚雷を装備
7:40 松崎隊がマロエラップを発進、米機動部隊攻撃へと向かう
9:40 以降、松崎隊が消息途絶
17:10 第752航空隊索敵機がビカール環礁近海で米機動部隊を発見
16:20 一式陸攻9機(野中五郎少佐指揮)がマロエラップを発進し、敵影捜索
18:00 野中隊が米機動部隊発見・攻撃、空母と巡洋艦各1隻撃沈、空母1隻撃破の戦果報告、2機損傷するも全機帰還
20:30 エニウェトク環礁の第753航空隊一式陸攻8機がルオットから攻撃に向かい、米機動部隊を発見・攻撃、空母1隻と巡洋艦2隻の撃沈報告するも2機が未帰還
・大本営発表
帝国軍は中型空母1隻撃沈、大型空母1隻撃破の戦果をあげたと判断し、マーシャル沖航空戦として発表しましたが、帝国軍のマーシャル方面の航空部隊は、ギルバート諸島沖航空戦の損害に加えて、さらなる消耗を強いられ、船舶の損失も大きなものになりました
米記録では空母レキシントンが雷撃で中破、軽巡モービルは自艦高角砲で機銃座を誤射、駆逐艦テイラーは軽巡オークランドの誤射で損傷
12/9 米機動部の第50任務部隊が真珠湾に帰投。

▼両軍の兵力と損害:〜
○帝国軍
・航空機〜150機
○米軍
・空  母〜6隻
・重  巡〜6隻
・軽  巡〜5隻
・駆逐艦〜11隻
・航空機〜386機
○帝国軍の損害
・沈没
 ・特設艦〜1隻
 ・輸送船〜5隻
・損傷
 ・軽巡〜2隻など多数
・航空機〜57機、含地上喪失
○米軍の損害
・中破〜空母1隻
・小破〜6隻
 ・軽巡〜1隻
 ・駆逐艦〜1隻
・航空機〜5機喪失
※数字には諸説有

▽両軍の編成:〜
○帝国軍の編成:〜
ルオット基地の第三艦隊地上派遣 戦闘機隊
・ルオット基地の第531航空隊 天山隊
・第281航空隊 戦闘機隊
・第752航空隊
・第753航空隊。

○米軍の編成:〜
第50任務部隊(Task Foce 50)、略称:TF50
・第50任務部隊第1群(Task Foce 50 Group 1)、略称:TF50.1
  パウナル空母機動部隊:〜パウナル少将直率
 ・航空母艦(Aircraft carrier)〜3隻
   ・空  母ヨークタウンII号、レキシントンII号
   ・軽空母カウペンス号
 ・重巡洋艦(Heavy cruisers)〜4隻
   ・ボルチモア号、サンフランシスコ号、ニューオーリンズ号、ミネアポリス号
 ・軽巡洋艦(Light cruisers)〜1隻、オークランド号
 ・駆逐艦(Destroyer)〜5隻
   ・ニコラス号、テイラー号、ラ・ヴァレット号、バラード号、キッド号、チョウンシー号
・第50任務部隊第3群(Task Foce 50 Group 3)、略称:TF50.3
  モンゴメリー空母機動部隊:〜モンゴメリー隊
 ・空  母エセックス号、エンタープライズ号
 ・軽空母ベロー・ウッド号
 ・重巡洋艦ポートランド号
 ・軽巡洋艦モービル号、サンタフェ号、サンフアン号、サンディエゴ号
 ・駆逐艦フレッチャー号、ラドフォード号、ジェンキンス号、エルベン号、ヘイル号。

参考:〜
パウナル少将の更迭
  チャールズ・アラン・パウナル
   (Rear Admiral Charles Alan Pownall, 1887-1975)
   高速空母任務部隊司令官
   (Commander Task Force 50:在任1943/8/6-1944/2/23)
パウナル少将は、第2代米太平洋艦隊司令長官(Commander in Chief, US Pacific Fleet)チェスター・ニミッツ大将(在任1941/12/31-1945/11/24)が、パイロット出身の提督に関する知識をあまり持っていなかった第5艦隊(US 5th Fleet)司令官(中部太平洋艦隊司令官)レイ
米:空母ヨークタウン号

セントヴィンセントグレナディン 1994 発行
モンド・スプルーアンス中将(在任1943/5/30-1945/11)のために、「経験の深い海軍航空部隊出身」の人物として選定されて、1943/8/6に高速空母任務部隊司令官に任命され、南鳥島(1943/8/31-9/1)、ウェーク島(1943/10/6-10/7)、ガルヴァニック作戦:ギルバート諸島(9/18-9/19)、マーシャル諸島(1943/12/5)の帝国軍に対する攻撃を、軽微な損害こそあったものの成功させました。ところが、指揮下の艦艇の艦長クラスからパウナル少将の指揮ぶりに対する批判や不満が続出。特にヨークタウン号艦長ジョゼフ・J・クラーク大佐の不満は、パウナル提督自身やスプルーアンス提督以外の、タワーズ提督、ニミッツ提督、キング提督、ルーズベルト大統領へ届けられました。ところが、パウナル提督の直接上官スプルーアンス提督やリー提督は全く逆で、パウナル提督の指揮ぶりに一定の評価を与えましたが、パウナル提督本人やスプルーアンス提督抜きで進み、12月末にニミッツ提督・タワーズ提督・太平洋艦隊参謀長チャールズ・マクモリス少将・シャーマン提督による四者会談がもたれて、パウナル提督の更迭が決まり、その後任には西海岸艦隊航空団指揮官を務めていたミッチャー提督に決まりました。相談なく一方的に人事を決められたスプルーアンス提督は怒りを見せたといわれています。

ミッチャー提督就任後に第58任務部隊と呼称された高速空母任務部隊は2/20にクェゼリンに帰投し、パウナル提督の役割が終了。パウナル提督は太平洋航空部隊司令官の職をしばらく務めた後、太平洋を離れてフロリダ州ペンサコーラにある海軍飛行学校(Naval Air Station Pensacola)に教官として赴任。その後、グアム島の行政官(軍政知事:Governor of Guam, 1946/5/30-19499/27)を務めました。

こちらで
米軍、クェゼリン上陸
ラバウル空襲
をお楽しみください。

参考HP〜
アバママ環礁島の地図
ギルバート諸島の配置地図(Abemama)

・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。    2016/1/25、16/3/16
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