序 章
第1章
★ステラー物語第2章
第3章
付 録

第2章 サンクト・ピョートル号
1741
ベーリング海・アラスカ湾の探検大航海

大航海物語
   ロシア
CCCP
”Far Eastern Territories”
1741年ステラー博士の航海地図とサンクト・ピョ−トル号
サンクト・ピョ−トル号が遭難、ベーリング島に漂着
ベーリング島→





ョ|トル号
カムチャッカ半島 ー アリューシャン列島 ー アラスカ半島

Grenadines of St.Vioncent
ベーリング船長とステラー博士の航海地図 (1741年の線
北極→


チュクチ半島→

ベーリング海峡→




カムチャッカ半島→


ニジニ・カムチャッカ→

サハリン→

北海道→



六分儀
1788 アメリカ合衆国憲法200年記念 1988
グレナディーン・セント・ヴィンセント 1988/1/11 発行

ステラー博士の大冒険航海:〜(1738-1746)
第2回カムチャツカ探検(Second Kamchatka Expedition)
   ぺテルブルグ〜陸路〜オホーツク〜航海〜アラスカ(北米沿岸)へ探検航海〜
     アラスカ陸影視認(1741/7/16)、サンクト・ピョートル号
遭 難(Shipwreck):〜(1741/11/7) コマンドルスキー諸島の無人島に漂着

サンクト・ピョートル号に船医として乗船したステラー博士はアラスカを視認(セント・エリアス山)後、カヤック島に上陸、調査して植物標本などを採集しました。その後、大嵐に遭って漂流の末、コマンドルスキー諸島の無人島に流れ着き、上陸しました。乗組員達が壊血病などで苦しむなか、船医として治療に専念しました。ベーリング船長が壊血病で亡くなり、その島を船長に因んでベーリング島と名づけました。

ョ|トル号
セント・エリアス山

極東カムチャツカ探検(1738-1746、ベーリング第2回探検隊:1733-1743)
1733年、
03月、ベーリング船長第2回カムチャツカ探検隊がペテルブルグを陸路で出発
08月、別動隊の科学者達がペテルブルグを出発
1734年、
01月、シベリアの中心都市トポリスク(Tobolsk)着、
    ベーリング隊はヤクーツクへ出発
    別動隊の科学者達は清国との国境の街キャフタ(Kyakhta)へ向う
11月、ステラー博士がペテルブルグに到着
1735年、
    ベーリング隊の別動隊がイルクーツク(Irkutsk)着
10月、ベーリング隊がレナ河畔ヤクーツク(Yakutsk)着、
    探検準備でヤクーツクに3年間滞在、
1736年、
09月、別動隊がヤクーツク着
09月、ヨハン・グメリンがエニセイスクからベーリング船長のヤクーツク基地に到着
11/08、グメリンが火事で研究物一切を失い、再度博物学標本採集に出かける
1737年、
    ベーリング船長がヤクーツクをオホーツクへと出発
02月、ステラー博士がアカデミーに奉職
09月、ベーリング隊がオホーツク着
1738年、
01月、ステラー博士がペテルブルグを陸路で出発、ベーリング探検隊の跡を追う
1739
01月、ステラー博士がエニセイスクでグメリンに出会う
1740年、
    ステラー博士がオホーツク着
06月、2隻の同型船が完成、進水
   ・サンクト・ピョートル号
     (Saint Peter:聖使徒ペテロ号)〜ベーリング船長
   ・サンクト・パーヴェル号
     (Saint Paul:聖使徒パウロ号)〜チリコフ船長
09/06、ベーリング船長がサンクト・ピョートル号に乗船
     船医ステラー博士と先任士官スヴェン・ワクセルも乗船
     チリコフ船長がサンクト・パーヴェル号に乗船して、
     それぞれ1隻の補給船を随伴して、オホーツクを出帆、
2隻の船隊

ソ連 1965/10/23 発行
     カムチャツカ半島最南端のロバトカ岬を回航してカムチャツカ半島東岸を北上航海
10/06、嵐をついてアバチャ湾(Avacha Bay)に到着、
     前年夏先発のイワン・ニコラギンが出迎え、
     探検隊はアヴァチャ湾の奥にキャンプを設営
     静かな天然の良港に感動し、乗船に因んで、
     ペトロバブロフスクと命名
     そこが現:ペトロパヴロフスク・カムチャツキーの起源となる
     ペトロパブロフスクで越冬、ポルシェレックから食料など輸送
1741年、
04/18、「ベーリング探検隊の活動報告書」をロシア政府宛に発送、
     ベーリング、チリコフ、チハチョフ、ワクセル、ブラウチン、
     ヒトロヴォの署名を付ける
05/04、士官会議で航海方針を決定、
     北緯46度まで東南東(East by South East)へ航海、
カムチャッカ、1779

クック諸島 1968/9/12 発行
     幻の陸地(ガマの陸地)を目指す、無ければ東北へ航海することを目論む
06/04、サンクト・ピョートル号は、77人と6ヵ月分の食料で、
     サンクト・パーヴェル号は、75人と6ヵ月分の食料で
     ペトロパブロフスク港を出帆
06/12、北緯46度の「幻の陸地」の予想場所に到着するも
     陸影は無く、北へ航海、
     東経178度付近で濃霧が発生して両船は共に船影を
     見失い、別々に東へ航海
07/16、北緯58度17分東経142度10分でアラスカ陸影を視認
アラスカの地図

セイシェル 1976/12/21 発行
     高山(セント・エリアス山 5,489.1m)を望見
07/17、サンクト・ピョートル号はアラスカ南岸に到達
7/17、ペトロパブロフスク出帆後、2950kmの航海で
     北緯58度44分の陸地、アラスカ南部の
     カヤック島(Kayak Island)南西端に
     水汲みと偵察に上陸、同島の南西端の岬を
     セント・エリアス岬(Cape Saint Elias)と命名
     サックリング岬(Cape Suckling)に上陸
アラスカの山を望見する一行
07/20、ステラー博士が調査のため当番兵1人と上陸、植物標本を採取
07/21、カヤック島を出帆、帰途に着く、ベーリング船長が発病し体調が悪くなる
08/30、シュマージン諸島で飲料水補給に上陸、自然と住民の観察調査
08/31、サンクト・ピョートル号乗組員ニキータ・シュマージン(Nikita
     Shumagin)が壊血病で亡くなったので、
     シュマージン諸島のナガイ島(Nagai Island)に埋葬して、
     諸島の名前をシュマージン諸島と命名
     ベーリング船長が病状悪化で船室から出られなくなる
09/04、シュマージン諸島最南端の島でアレウト族が
     バイダルカ(皮船、シーカヤック)で近づいてくる
     6艘のボートで上陸
カヤック

09/06、サンクト・ピョートル号がアリューシャン列島を離れて西に向かう

参考HP:〜
第2回カムチャツカ探検の地図(ヤクーツク〜カムチャッカ〜アリューシャン〜アラスカ)
カムチャッカの場所地図
カムチャッカ半島の詳細地図(アヴァチャ湾(Avacha Bay)内にペトロバブロウスキー有)
ベーリング海とベーリング海峡の場所地図
太平洋の探検航海地図(歴史地図、太平洋の主要な寄港地(港)、フォート・ロス有)
  (ペテルブルグ喜望峰バタヴィアマニラ〜(マカオカントン)〜ペトロパブロフスク〜オフォーツク
  (ペトロパブロフスク〜ウナラスカコディアクシトカヌトカ〜フォート・ヴァンクーバー〜フォートロス
アラスカ湾岸の居住地地図(歴史地図:1790-1884の毛皮取引区域地図、ケナイ半島有)
   (スリーセインツ湾、コディアク、ノヴォ・アルハンゲリスク(シトカ)、フォート・ヴァンクーバー有

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました  08/1/2追加、10/7/7、11/5/11、12/7/12
★ステラー物語 序 章 第1章 第2章 第3章 付 録
ステラーカイギュウ
スタンプ・メイツ
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