序 章
第1章
★ステラー物語第2章
第3章
付 録

ゲオルグ・ステラー博士の大航海
1741
ベーリング第2回カムチャツカ探検

大航海物語
   ロシア
CCCP
サンクト・ピョ−トル号からアラスカの山を望見する
ステラー博士とベーリング船長の一行
サンクト
・ピ
ョ|トル号
アラスカの山
1741 ベーリングの航海250年記念 1991
ロシア 1991 発行

アリューシャン列島アラスカの探検航海地図

ョ|トル号
アラスカ湾航海地図
1741 ベーリングの航海250年記念 1991
ソ連 1991/7/27 発行
DANMARK
サンクト・ピョートル号

デンマーク 1941/11/27 発行

ドイツ生れのステラー博士は25才でロシアの帝都ペテルブルグに行って、ベーリング探検隊の話を聞き、探検に参加しょうとその後を追いました。オフォーツクでベーリング隊に合流して、サンクト・ピョートル号でカムチャッカ半島東岸のペトロパブロフスクと名付けた所で越冬。1741/6月そこを出帆、アラスカの高山セントエリアス山を視認後、カヤック島に上陸しました。その後、アリューシャン列島のキスカ島から、さらに西方に航海。大嵐で漂流してベーリング島と名付けた無人島に漂着。船医ステラー博士の手厚い介抱も空しく、ベーリング船長他約半数の乗組員が亡くなりましたが、島にいた怪獣を捕食して越冬のため1年以上もそこで生き延び、新造の小船でペトロパブロフスクに生還しました。ペテルブルグへ帰る途中、37才の若さで亡くなりました。没後にステラー博士の研究報告が出版され、アラスカが毛皮獣の宝庫であることが知れ渡り、狩猟が行われてステラーカイギュウなどが絶滅しました。
ゲオルグ・ヴィルヘルム・ステラー博士 (1709/3/10〜1746/11/14)
  Dr. Georg Wilhelm Steller

   ドイツ人博物学者、医師、探検家
   ドイツ・バイエルン州生、
   ロシア・チュメニ 37才没。
ステラー博士はドイツのバイエルン州ニュールンベルグ(Nuremberg)近くのウィンデェシェイム(Windsheim, Bayern, Germany)で音楽教師の息子として生れました。ババリアのフランコニアで製靴組合(ギルド)の親方の家庭に生まれたという説もありますが、学業優秀な12才の少年が作った蝶の図鑑が大学で出版されたとも伝えられています。そしてザクセン・アンハルト州(Land Sachsen-Anhalt)エルベ川近くの ヴィッテンベルク(Wittenberg)で説教師を勤めながら、ハレ大学(1694年創立の現:マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク Martin Luther University of Halle-Wittenberg)で神学、哲学、医学、自然科学の学業を修めました。秀才でも怒りっぽい性格が災いして何をやっても長続きせず新天地を求めて、アムステルダムへ行きロシア行きの貨物船に頼み込んで、船で働きながら海路ペテルブルグ(サンクトペテルブルグ:Saint Petersburg)へ渡りました。1734/11月ペテルブルグに着くとほとんどドイツ人会員ばかりのロシア科学アカデミー(Russia Academy of Sciences 1724-)会員プロシャ古典学者(Prussian classical scholar)ジークフリード・バイエル(Siegfried Vayer 1694-1738)の紹介でロシア正教会大主教(Bishop Russian Orthodox Church)フェオファン・プロコボヴィッチ(Feofan/Theophan Prokopovich 1681-1736)の主治医になりました。
アカデミーで、アルグン川(Argun)からバイカル湖(Lake Baikal)東地方の探検(1728/2月)から戻ってきていたドイツ人の博物学者(naturalist)で医師(Physician)のダニエル・メッサーシュミット(Daniel Gottlieb Messerschmidt 1685-1735)に出会い、ベーリング探検隊が第2回カムチャツカ探検(大北方探検)にペテルスブルグを出発したことを聞きました。
ベ|リング船長
翌1735年メッサーシュミットが亡くなると未亡人のビルギッタ・ヘレネと結婚しましたが、1736年プロコボヴィッチ大主教の病が重くなるとベーリング探検隊に参加の推薦状を書いてもらって、1737/2月アカデミーに年俸660ルーブルの博物学助手で奉職しました。

参考:〜
ダニエル・メッサーシュミット (1685/9/16〜1735/3/25) 49才没
  Daniel Gottlieb Messerschmidt

ダニエルはドイツ人医師(physician)、博物学者(naturalist)、地理学者(geographer)で、ポーランドのバルチック海南部の港湾都市ダンチッヒ(Danzig、現:グダニスク:Gdansk)で生まれました。ドイツのチューリンゲン州イェーナ(Jena)とザクセン・アンハルト州ハレ(Halle an der Saale)で医学(medicine)を学び、1713年医学博士号を取得して、ダンチッヒで医者になりました。1716年ピョートル大帝から招きを受け、1718/11/5に薬用植物(medicinal plants)収集でシベリア行きをピョートル大帝に命じられました。1720年探査に出発。博物学の未開拓地(Terra incognita)で、民族学(Ethnology)、動物学(zoology)、植物学(botany)の多くさんの観察を記録し、マンモス(Mammoth)の化石を発掘した最初の人物となりました。
マンモス

アイルランド 1966 発行
コーカサス地方のアルグン川(Argun River, Caucasus 148km)からバイカル湖(Lake Baikal)
東部を探検調査して疲労困憊で疲れ果てて、1728/2月にペテルブルグに戻りましたが、二度と科学アカデミーの会員には戻れず、1735年に貧困のどん底で亡くなりました。
メッサーシュミットはチュメニ州(Tyumen Oblast)のトボリスク(Tobolsk)で、スウェーデン人中佐のドイツ人地理学者(geographer of German)フィリップ・ヨハン・フォン・ストラレンベルグ(Philip Johan von Strahlenberg 1676-1747)と出会いました。 ストラレンベルグはロシアの大勝利に終わった大北方戦争ポルタヴァの会戦(Battle of Poltava, 1709/6/27)で捕虜になり、1711〜1721年の間はトボリスクへ送られ、シベリアの地理を研究しながら、現地の言葉を習得し、現地人(タタール族(Tartars)、ヤクート(Yakuts)、クリミヤ・タタール(Crimean Tartars)、トルクメン・タタール(Turkmen Tartars)、ウズベキ(Uzbeks)、モンゴル(Mongols)など)の風俗
バイカル湖

ソ連 1966/9/25 発行
・習慣・言語などの研究をなして人類学(Anthropology)の成果も上げ、1730年にストックホルム(Stockholm)へ帰還を果たし、「北部と東部のヨーロッパとアジア」(North and Eastern Parts of Europe and Asia)という書籍を出版ました。その彼はメッサーシュミットの幾つもの探検に同行し、その成果を出版した書籍にメッサーシュミットの業績についても書き残しました。また、ロシアの地図を作成、ヨーロッパとアジアがウラル山脈(Ural Mountains)で分けられることを提案しました。

参考HP:〜
サンクトペテルブルク市の場所地図
ロシアの地図(日本語)
トボリスクの場所地図
チュメニ州の場所地図
アルグン川の場所地図
バイカル湖の場所地図
バイカル湖の地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました  08/1/2追加、10/7/7、11/5/11、12/7/12
★ステラー物語 序 章 第1章 第2章 第3章 付 録
ステラーカイギュウ
スタンプ・メイツ
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