序 章 第1章 ★ステラー物語第2章 第3章 付 録 |
第1章 オホーツク 1740 ベーリング探検隊に合流 |
大航海物語 ロシア★ |
サンクト・ペテルスブルグを出発 ペテルスブルグ〜モスクワの地図 ソ連 1966 発行 |
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TURKIYE ユーラシア大陸を横断 サンクトペテルブルグ↓6200km イルクーツク↓4000km↓カムチャッカ |
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ヨーロッパ→ | ←カムチャッカ | |
アジアとヨーロッパを結ぶ”ボスポラス海峡”大橋「渡り初め」記念 トルコ 1970/2/20 発行 |
1738/1月にベーリング探検隊に参加するべくペテルブルグを陸路で出発し、1739/1月クラスノヤルスク地方エニセイスク(Yeniseysk)でドイツ人の博物学者ヨハン・グメリン(Johann Georg Gmelin 1709-1755)に出会いました。 1740年にステラー博士がオホーツク(Okhotsk)に着いて、ベーリング船長の第2回カムチャツカ探検(大北方探検)に合流しました。 1740年、 ステラー博士がオホーツク着
グメリン教授はベーリング船長第2回カムチャッカ探検(The Second Kamchatka Expedition 1733-43)に参加する別動隊の科学者3人の一人に選ばれ、1733/8月にペテルブルグを、若者のステファン・カラシニコフ学生(Stepan Petrovich Krasheninnikov 1711-1755)を随行して出発。ウラル山脈(Urals)を越えて西部シベリア(Siberia)を通過して、クラスノヤルスク地方エニセイ河の河岸にある都市エニセイスク(Yeniseysk)に到達。エニセイ河(Yenisei River 5,539km)がヨーロッパとアジアの境界だと述べ、かつて無い最低気温を計測しました。そしてカスピ海(Caspian Sea)が地中海(Mediterranean Sea)より低い位置にあることを測定した最初の人物になりました。1736/9月にエニセイスクでベーリング探検隊に合流。11/8に不幸にもグメリンの宿舎が火事で炎上して博物学標本の収集品とノート類全てを焼失。翌年の夏に再度、標本収集に出かけ、可能な限り収集して標本1178点と294のスケッチを完成したのが、後に出版した「シベリアの全植物」(Flora Sibirica 1747-1769)のもとになりました。 1747年にペテルブルク大学に戻って医学(Medicine)の教鞭を取りました。その後ドイツに戻って、1749年に王立スウェーデン科学アカデミー(Royal Swedish Academy of Sciences)の外国人会員に選ばれ、1751年にチュービンゲン大学植物園(Botanischer Garten der Universitat Tubingen)の理事に就任。ドイツのチュービンゲンで亡くなりました。 参考HP:〜 ・オフォーツクの場所地図(Okhotsk) ・オフォーツク地域の場所地図 ・エニセイ河とカスピ海の場所地図 ・エニセイ河の場所地図 ・カスピ海の場所地図 ・カスピ海と黒海の場所地図 ・ドン河とヴォルガ河の場所地図 ・ロシアの主要河川と都市の場所地図 (ペテルブルグ、モスコウ、ヴォルガ川、アルハンゲリスク、オビ川、エニセイ川、エニセイエ スク、カスピ海、レナ川、ヤクーツク、オホーツク、コリマ川、アムール川、アルグン川・有) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました 08/1/2追加、10/7/7、11/5/11、12/7/12 |
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