序 章
第1章
★ステラー物語第2章
第3章
付 録

第1章 オホーツク
1740
ベーリング探検隊に合流

大航海物語
   ロシア
CCCP
サンクト・ペテルスブルグを出発
ペテルスブルグ
〜モスクワの地図

ソ連 1966 発行
オフォーツクでベーリング探検隊に合流
オビ川、エニセイ川、レナ河の地図
サケ ←カムチャッカ半島
ソ連 1959/7/16 発行

TURKIYE
ユーラシア大陸を横断
サンクトペテルブルグ6200km イルクーツク4000kmカムチャッカ
ヨーロッパ カムチャッカ
アジアとヨーロッパを結ぶ”ボスポラス海峡”大橋「渡り初め」記念
トルコ 1970/2/20 発行

1738/1月にベーリング探検隊に参加するべくペテルブルグを陸路で出発し、1739/1月クラスノヤルスク地方エニセイスク(Yeniseysk)でドイツ人の博物学者ヨハン・グメリン(Johann Georg Gmelin 1709-1755)に出会いました。

1740年にステラー博士がオホーツク(Okhotsk)に着いて、ベーリング船長の第2回カムチャツカ探検(大北方探検)に合流しました。
1740年、
    ステラー博士がオホーツク着
06月、同型船の2隻が完成、進水
   ・サンクト・ピョートル号
     (Saint Peter:聖使徒ペテロ号)〜ベーリング船長
   ・サンクト・パーヴェル号
     (Saint Paul:聖使徒パウロ号)〜チリコフ船長
09/06、ベーリング船長がサンクト・ピョートル号に乗船
     船医ステラー博士と先任士官スヴェン・ワクセルも乗船
     チリコフ船長がサンクト・パーヴェル号に乗船して、
サンクト・ピョートル号
     それぞれ1隻の補給船を随伴して、オホーツクを出帆しました。
参考:〜
ヨハン・グメリン (1709/8/8-1755/5/20)45才没
  Johann Georg Gmelin

グメリン教授はドイツ人医師、博物学者、地理学者、植物学者(botanist)で、ドイツ南部バーデン・ヴュルテンベルク州の都市チュービンゲン(Tubingen)にて、チュービンゲン大学教授の子供として生まれた秀才な子供で、14才で大学の講義受講を許されました。1727年18才で医学の学位を得て卒業後、サンクトペテルブルグへ行き、1728年ロシア科学アカデミーの会員(fellowship)になりました。1730年からペテルブルク大学(Saint Petersburg State University)で教鞭をとり、翌年に化学(chemistry)と植物学(natural history)の教授に就任しました。
黒海、ドン川、ボルガ川
チョウザメ カスピ海
ソ連 1959/7/16 発行
スイス生まれで植物学者のヨハン・アンマン(Johann Amman、Johannes Amman、1707-1741)が、イギリスの博物学者・植物収集家で寄付した収集品がもとで大英博物館ができたハンス・スローン準男爵(Sir Hans Sloane, Bt、1660-1753)の収集品の研究・整理のために働いていたのを、グメリン教授が勧めてロシアのペテルブルグに呼び寄せました。アンマンはロシア科学アカデミーの会員になってロシア帝国で働き、ペテルブルクに植物園を造り、同地で没しました。

グメリン教授はベーリング船長第2回カムチャッカ探検(The Second Kamchatka Expedition 1733-43)に参加する別動隊の科学者3人の一人に選ばれ、1733/8月にペテルブルグを、若者のステファン・カラシニコフ学生(Stepan Petrovich Krasheninnikov 1711-1755)を随行して出発。ウラル山脈(Urals)を越えて西部シベリア(Siberia)を通過して、クラスノヤルスク地方エニセイ河の河岸にある都市エニセイスク(Yeniseysk)に到達。エニセイ河(Yenisei River 5,539km)がヨーロッパとアジアの境界だと述べ、かつて無い最低気温を計測しました。そしてカスピ海(Caspian Sea)が地中海(Mediterranean Sea)より低い位置にあることを測定した最初の人物になりました。1736/9月にエニセイスクでベーリング探検隊に合流。11/8に不幸にもグメリンの宿舎が火事で炎上して博物学標本の収集品とノート類全てを焼失。翌年の夏に再度、標本収集に出かけ、可能な限り収集して標本1178点と294のスケッチを完成したのが、後に出版した「シベリアの全植物」(Flora Sibirica 1747-1769)のもとになりました。

1747年にペテルブルク大学に戻って医学(Medicine)の教鞭を取りました。その後ドイツに戻って、1749年に王立スウェーデン科学アカデミー(Royal Swedish Academy of Sciences)の外国人会員に選ばれ、1751年にチュービンゲン大学植物園(Botanischer Garten der Universitat Tubingen)の理事に就任。ドイツのチュービンゲンで亡くなりました。

参考HP:〜
オフォーツクの場所地図(Okhotsk)
オフォーツク地域の場所地図
エニセイ河とカスピ海の場所地図
エニセイ河の場所地図
カスピ海の場所地図
カスピ海と黒海の場所地図
ドン河とヴォルガ河の場所地図
ロシアの主要河川と都市の場所地図
 (ペテルブルグ、モスコウ、ヴォルガ川、アルハンゲリスク、オビ川、エニセイ川、エニセイエ
  スク、カスピ海、レナ川、ヤクーツク、オホーツク、コリマ川、アムール川、アルグン川・有)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました  08/1/2追加、10/7/7、11/5/11、12/7/12
★ステラー物語 序 章 第1章 第2章 第3章 付 録
ステラーカイギュウ
スタンプ・メイツ
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