第1回 ★ベーリング物語第2回 遭 難 |
遭 難 1741 ベーリング島に漂着 |
大航海物語 ロシア★ |
ベ|リング島の場所地図 | ベ|リング船長 |
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1741年ベーリングの航海地図とサンクト・ピョ−トル号
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第2回カムチャツカ探検(大北方探検)でサンクト・ピョートル号はアラスカを視認(セント・エリアス山)後、カヤック島に上陸。1741/9/6にアリューシャン列島を離れて西に航海するも、大嵐に遭い漂流の末、11月にコマンドルスキー諸島の無人島に流れ着きました。船は帆が痛み、乗組員達は壊血病に苦しむなかで、一行は船を放棄してそこで越冬しました。その間に多くの乗組員が壊血病で次々と亡くなり、またベーリング船長自身も壊血病で亡くなり、帰らぬ人となって島に葬られました。後に、この島は船長に因んでベーリング島と名づけられました。 ベーリング船長達がベーリング島に上陸した時には、あまり木や潅木の類は見られなかったと伝えられています。キツネやライチョウの他に大型哺乳類の海牛(ジュゴン)、後にステラー博士の研究報告でステラーカイギュウ(Steller's Sea Cow)と命名された巨大海獣が生息していて、天敵のいない海牛の繁殖地の動物天国でした。乗組員達は、この怪獣を食料として越冬しました。生き残った乗組員達は座礁、大破したサンクト・ピョートル号の残骸の廃材で小型の船を造って聖ピョートル号と名付けました。1742/8/13に生存者が島を脱出のために出帆。14日後にペトロパブロフスクに到着・帰港しました。なお、同年サンクト・ピョートル号乗組みの探検隊員77人の内、45人がペテルブルグへの帰還を果たしました。
01/08、31人が亡くなり、生存者が46人となる 08/10、サンクト・ピョートル号の廃材で新造の聖ピョートル号(boat St. Peter、12m)が進水 08/13、無人島をベーリング島(Bering Island)と命名後、 生存者が聖ピョートル号で出帆 08/27、聖ピョートル号がペトロパブロフスク港に帰港 1743年、 09/26、ロシア元老院の命令でベーリングの第2回カムチャツカ探検が終結。 ・第2回探検その後の行程:〜 航海:アリューシャン列島を西へ航海〜漂流〜キスカ島〜漂流〜コマンドルスキー諸島の無人島 ベーリング島に漂着、上陸〜ベーリング船長没〜越冬〜 生存者がベーリング島を出帆〜ペトロパブロフスク港に到着 ・僚船サンクト・パーヴェル号の動静:〜 1741年、チリコフ船長のサンクト・パーヴェル号がアラスカに到達後、 ペトロパブロフスク港に帰港 10/12、ベーリング隊の捜索に再出帆、 アッツ島を望見後、嵐に遭遇 1742年、 07/01、サンクト・パーヴェル号が空しくペトロパブロフスク港に帰港 参考HP:〜 ・ベーリング海とベーリング海峡の場所地図 ・太平洋の探検航海地図(歴史地図、太平洋の主要な寄港地(港)、フォート・ロス有) (ペテルブルグ〜喜望峰〜バタヴィア〜マニラ〜(マカオ・カントン)〜ペトロパブロフスク〜オフォーツク) (ペトロパブロフスク〜ウナラスカ〜コディアク〜シトカ〜ヌトカ〜フォート・ヴァンクーバー〜フォートロス) ・アラスカ湾岸の居住地地図(歴史地図:1790-1884の毛皮取引区域地図、ケナイ半島有) (スリーセインツ湾、コディアク、ノヴォ・アルハンゲリスク(シトカ)、フォート・ヴァンクーバー有)
ワルトン中尉の聖ガヴリール号は千島列島を南下して26島を望見後、食糧不足で 43度20分(根室近海)で戻って、 08/17、ボルシェレックに帰港、越冬 1739年、 越冬中にポリシャ川河口でボルシェレック号を建造して、 05/21、シュパンベルグ船隊4隻、 ・ボルシェレック号 ・アルハンゲル・ミハイル号 ・ナジェジダ号 ・聖ガヴリール号 がボルシェレックを出帆 05/25、千島列島(クリル諸島)を通過
・ワルトン中尉の聖ガヴリール号の航海:〜 1739年、 06/14、北緯39度29分でワルトン中尉の聖ガヴリール号は船隊から離れ単独で南下 06/16、聖ガヴリール号が北緯38度29分で日本を望見、南下 06/19、18人乗り小舟が接近、カジミロフ航海士とチェルカシェニン給食員と兵6人で上陸 飲料水1樽半分を持ち帰り、酒食で歓待されたと報告、 150艘以上もの小舟が取巻いたので、出帆して帰路に着く 06/22、北緯37度30分で海岸の沖合に投錨、 岸から日本人が小船で来船、物々交換で交流 10-12人乗りの小船79艘が船を取巻いたので、上陸は中止して帰路に着く 06/23、北緯33度28分付近で小島に上陸、薬学生が薬草を採取 07/23、ワルトン中尉の聖ガヴリール号がボルシェレックに帰港 08/22、聖ガヴリール号がオホーツクに帰港 1739年、 11/19、シュパンベルグ船隊の「日本航海の報告書」をロシア政府へ発送 日本側の目撃情報が1739(元文4)年の「元文の黒船」として有
参考HP:〜 ・クリル諸島の地図(クリル諸島=千島列島) ・クリル諸島の地図(千島列島、日本語) ・アムール川付近の地図 ▼北極(シベリア最北端)への探検:〜
ベーリング隊長とチリコフ副隊長とは別に、第2回カムチャツカ探検には他のロシア帝国海軍軍人も参加していました。セミョン・チェリュスキン(Semyon Ivanovich Chelyuskin 1700-1764)達が陸路でタイミル半島(Taymyr Peninsula)の海岸を調査し、1742/5月にタイミル半島の最北端の岬に到達しました。この岬がユーラシア大陸の最北端で、北極点から約1,230kmに有って、北東航路の最北端でもありました。彼はそこを北東岬(Cape East-Northern)と名付けました。 チェリュスキンは1701年にピョートル大帝が設立したモスクワ航海技術学校(Moscow School of Mathematics and Navigation)を卒業して、1726年にバルチック艦隊で副航海士(deputy navigator)として働きました。1733年に航海長(navigator)に昇進しました。1739年ベーリングの第2回カムチャツカ探検隊(1739-1742)に参加し、北極探検分遣隊のワシリー・プロンチスチェフ(Vasili Vasilyevich Pronchishchev 1702-1736)、ハリトン・ラプテフ(Khariton Prokofievich Laptev 1700-1763)の探検に、チェレキン(N. Chekin)、メドヴェデフ(G. Medvedev)と行を共にしました。1741年春にハタンガ川(Khatanga River 227km)を航海して、ピャシナ川(Pyasina River 818km)を陸路で探検。タイミル半島のミデンソフ湾(Middendorff Bay)の西岸を探検。ピャシナ川(Pyasina)の河口からエニセイ川(Yenisei 5,539 km)の河口へと探検。1741年から1742年の冬にかけて、ツルカンスク(Turukhansk)からハタンガ川の河口へと探検。ファディ岬(Cape Faddey)からタイミル半島北の海岸線を東から西へとタイミル川(Taimyra River)河口を探検し、アジアの最北端を発見して北東岬と命名しました。そして、1760年にバルチック艦隊で艦長になり、64才で亡くなりました。 ・チェリュスキン岬 Chelyuskin Peninsula チェリュスキン岬はタイミル半島の最北端(北緯77度43分)にある。タイミル半島(Taymyr Peninsula)はシベリア北部にある北極海に突き出た半島。西はカラ海(Kara Sea)に注ぐエニセイ川(Yenisei 5,539 km)が河口で形成するエニセイ湾、東はラプテフ海(Laptev Sea)に注ぐハタンガ川(Khatanga 227km)とハタンガ湾、半島の中央部を高さ1,000mほどのビルランガ山脈(Byrranga Mts)が走り、山脈の南麓にタイミル湖がある。1878/8/18にスウェーデンのアドルフ・エリク・ノルデンショルド船長(Baron Adolf Erik Nordenskiold 1832-1901)が北東航路探検で航海した時に、チェリュスキン岬(Cape Chelyuskin)と命名しました。
1794年、ヴァンクーバー船長がセント・エリアス岬をハモンド・ポイント(Hamond Point)と命名 1826年、ロシアのセリチェフ船長(Lt. Sarichef)が島の形がカヤックに似ていることから カヤック島(Kayak Island)と命名 ・ベーリング海峡 こちらでベーリング海峡をお楽しみください。 参考HP:〜 ・アラスカ・エリアス山国立公園の場所地図 ・アラスカの場所地図(日本語) ・アラスカの場所地図(1895年の古地図”Kayak”有) ・カヤク島の場所地図(コルドヴァ(Cordova)の南東100kmにカヤック島”Kayak”有) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 08/1/2画像追加、10/7/7追記、11/4/5 |
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