Portugal

国連 1989 発行
切手で綴る 冒険大航海(Adventure Voyages)ポルトガル発見者の群像(3-6
ペドロ・デ・アタイデ船長
1500
モッセルベイ上陸・手紙を残す
第2次インド遠征艦隊モッセルベイシスカイ郵便局の木日本の木

大航海物語
ポルトガル編

CISKEI
嵐の岬(喜望峰)を回航
Cabo Tormentoso,1500
ブーツに手紙を残す
Pedro d'Ataide,1500

モッセルベイにボートで上陸
Sao Brass,1501
ノーヴァ船長が手紙を発見
Jao da Nova,1501
シスカイ 1991/5/11 発行

テーブル湾
海岸に上陸

テーブル湾の郵便局(世界最初の国際郵便局?)
ブーツ(手紙)を見つける
返信を書く
ブーツ(返書)を木につるす
シスカイ 1991 発行

LIBELIA
ポルトガルからアフリカの地図

アフリカ南端が喜望峰
リベリア 1928 発行
CISKEI
アフリカ最南端の古地図
アフリカ南端
←モッセルベイ
モッセルベイ、Mossel Bay 1500
  シスカイ 1991/5/11 発行

勇敢な船乗りで地獄野郎と呼ばれていたアタイデ船長はカブラル船長の第2次インド遠征艦隊にサン・ペドロ号で参加して、嵐で荒れ狂う地獄の喜望峰を回航後、モッセルベイに寄港、手紙をミルクウッドの木にブーツ片方の中に入れて吊り下げて残しました。翌年、其処に着いた第3次インド遠征艦隊ノーヴァ船長が手紙を見つけましたので、モッセルベイはポルトガル船隊のインド航路の手紙の中継基地となり、モッセルベイはアフリカ史上で最初の郵便局となりました。
ペドロ・デ・アタイデ船長
 Pedro de Ataide (生年没年不詳)
アタイデ船長は勇敢な船乗りで、嵐で荒れ狂う地獄の海もものともせずに乗り越えていたので、インフェルノ(Inferno=Hell:地獄野郎)と呼ばれていました。1500年に総司令官ペドロ・カブラル船長の第2回インド遠征船隊(13隻)に70トンの横帆式カラヴェル帆船サン・ペドロ号(Sao Pedro、square-rigged caravel)に乗船して参加、ポルトガルテージョ河々口のリスボン港を出帆しました。






第2次インド遠征艦隊
1500〜1501
ペドロ・デ・アタイデ船長

CISKEI
アタイデ船長
サンペドロ号
シスカイ 1991/5/11 発行
PORTUGAL
ポルトガルからインドへの航海地図

1469 ヴァスコ・ダ・ガマ生誕500年記念 1469
ポルトガル 1969/12/30 発行

アタイデ船長の大航海:〜
  第2次インド遠征艦隊13隻:総司令官ペドロ・カブラル船長
  2th Portuguese India Armada (Cabral, 1500/3/08-1501/6/23(6隻が帰港)
  横帆式カラヴェル帆船サン・ペドロ号(Sao Pedro、70t square-rigged caravel)に乗船
1500年
03/08、マヌエル1世の命で、リスボン港ベレン周辺に
     第2次インド遠征艦隊の13隻が集結
03/08〜09、13隻がリスボンを順次、出帆
03/23、ヴェルデ岬諸島
     ルイス・ピレス船長(自称:伯爵、Luis Pires:Count Portalegre)の船が
     ヴェルデ岬で破損して船隊を外れる
04/09、赤道を通過
04/21、嵐で航路を西に流され、ブラジルを望見
04/22、ブラジル(嵐で漂着?)に、
     12隻が到達・上陸
05/01、総司令官カブラル船長が天文方に場所の特定を観測させ、
     トルデシリャス条約線の東と確認、ポルトガル領を宣言
南米の東端
ブラジル
ブラジル 1972 発行
05/02、急遽、カブラル船長が補給船を発見報告で帰国させる説有
05/03、現:バイーア州ポルト・セグロ(Porto Seguro、Bahia)出帆
     (パイナップル、グアバ、マンゴウをインドへ持ち込む)
     ガスパル・デ・レモス船長の補給船が火災で船隊を外れ
     リスボンへ帰国してブラジル発見を報告
05/24、喜望峰を望見するも、大嵐に遭遇、
     ディアス船長他3隻の計4隻を失い、艦隊は7隻となる
嵐の岬(喜望峰)を回航
     ディアス船長は、1500/5/29に遭難したものとみなされました
船隊は嵐で荒れ狂う喜望峰を回航し、アタイデ船長はモッセルベイに到達・上陸して、ここまでの航海で、「嵐に遭遇してブラジルに漂着したことや、リスボンを出帆した13隻が喜望峰近くで嵐にあって4隻を失い、2隻とははぐれてしまって、残りの船隊が7隻となった」、ことなどを書いた手紙を、水汲み場(Gama’s spring)近くのミルクウッドの木(Milkwood tree)に、古い船乗りのブーツ片方(an old seaman’s boot)の中に入れて吊り下げて残しておきしました。なお、木の下に埋めて目印の石を置いたという説もあります。 ブーツに手紙を残す

07/16、ソファラ(Sofala、現:モザンビークソファラ州)着
07/20、モザンビーク島(Mozambique)着
07/26、キルワ(Kilwa、現:タンザニア
08/02、マリンディ(Melinde、現:ケニア)着、
     アラブの水先案内人(pilot)を雇う
08/10、嵐でディオゴ・ディアス船長(Diogo Dias)が船隊を離れる
09/13、インドのカリカット(Calicut)到着
1501年
01/16、アタイデ船長と船隊は、東洋産の香料を満載してカリカットを出帆
06/23、アタイデ船長は僚船3隻(計4隻)と共にリスボンに帰港

1501年にジョアン・ダ・ノーヴァ船長が第3回インド遠征船隊の司令官に指名され、大西洋を航海中にアセンション島を発見して、喜望峰を回航後、モッセルベイに到着・上陸してブーツを見つけ、その中からアタイデ船長の手紙を発見しました。滞在中に小さな教会を建設し、そこをヴァケイロス湾(Golfo dos Vaqueiros)と名付けました。ノーヴァ船長が出帆すると、現地人の手によって教会は火を付けられ灰燼に帰して跡かたもなくなりました。ノーヴァ船長はインドに到達後、帰路の大西洋でセントヘレナ島を発見し、無事に帰国して手紙のことをアタイデ船長に話しました。

その後、モッセルベイはポルトガル船隊のインド航路の良質な飲料水の補給基地となると共に、
手紙の中継基地になりました。

参考:〜
モッセルベイ
  Mossel Bay

モッセルベイはバーソロミュー・ディアズが嵐で流されて喜望峰を通り過ぎて、1488/2/3に発見・上陸した所で、サン・ブラス水汲み場(Aguada de Sao Bras、現St Blaize)と名付けて飲料水を補給しました。ディアスはグレート・フィッシュ川(Great Fish River)まで東へと航海しましたが、乗組員の反乱で引き返し、エスペランス岬(Cabo de Boa Esperanza)と「嵐の岬」(カーボ・トルメントソ Cabo Tormentoso、後に喜望峰と改名)を発見しました。
アフリカ南端の古地図
9年後の1497/11/25にヴァスコ・ダ・ガマがインド遠征の途中で、寄航し飲料水を補給しました。その時にコイサンマン(Khoi & San)と出会い赤帽子と輪飾り(a red cap & some bangles)との取引(トレード trade、物々交換)で牛(an ox)を手に入れしました。この取引が歴史上、初の商取引と言われています。

・郵便局発祥の地
郵便局の木:ミルクウッドの木)
モッセルベイは南アフリカ共和国西ケープ州(Western Cape province of South Africa)の港町で、人口約15万人。500年前の「目印の石」はモッセルベイ・ストーン(Mossel Bay Stone)として有名になって、歴史文化博物館(Cultural History Museum in Mossel Bay)に保存されており、「ミルクウッドの木」は郵便局の木(Post Office Tree)として、その場所に「郵便局発祥の地」(アフリカ最初の郵便局)の記念碑が建設されています。
ミルクウッドの木

シスカイ
  Republic of Ciskei

シスカイは現在の南アフリカ共和国東ケープ州東部にあって、「シスカイ」は「カイ川のこちら側」の意で、トランスカイは反対の「カイ川の向う側」の意。
下記の間に存在した南アフリカ内の国。
1972年、自治領
1981年、独立
1993年、南アフリカ政府がホームランドの廃止と南ア国籍の回復、
     全人種参加の総選挙実施を表明
1994年、独裁者グクォゾ(Oupa Gqozo 1952-)が行政権の返還を表明。

参考HP:〜
 ・モッセルベイの場所地図(詳細)
 ・モッセルベイの場所地図
 ・モッセルベイの地図
 ・モッセルベイの場所地図(日本語、モッセルベイはケ−プタウンとポートエリザベスの中間)
 ・シスカイの場所地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       2010/7/17

スタンプ・メイツ
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