Spain

国連 1988 発行
切手で綴る スペインの大航海(Conquist Voyage)インカ帝国征服(V-7
アロンゾ・ド・メンドーザ
1536、アルゼンチンのブエノスアイレス建設
1548、ボリヴィアのラ・パズ建設


大航海物語
 スペイン編

ESPANA
アロンゾ・ド・メンドーザ

新世界の建設者
Builders of the New World

スペイン 1962/10/12 発行

Soomon Islands
スパニッシュ・ガレオン船
16th Spanish Galeon


ソロモン 1971/10/7 発行
REPUBLICA ARGENTINA
南アメリカの地図
アルゼンチン

アルゼンチン 1935 発行

CORREOS de BOLIVIA
ラ・パス市建設、完成 1548/10/20
メンドーザ(Captain Alonso de Mendoza)
BRASIL
南アメリカの地図
(黒:ボリビアの場所)


ブラジル 1943/6/30 発行

メンドーザに街の建設を命じるガスカ副王

1548 ラパズ市建設400年記念 1948
ボリビア 1951/3 発行に
料金改訂 1957/2/14 加刷発行

REPUBLICA ARGENTINA
ホンデュウス・メルカトル世界図、1610年、南アメリカの拡大図

アルぜンチィン 1988 発行
←アマゾン河

←ラプラタ河



メンドーサはラ・プラタ河の領土を征服するため、1534年にラ・プラタ河方面を探検しました。メンドーサはブエノスアイレスの第一の発見者で、1536年にはラ・プラタ河の河口にブエノスアイレスを建設し、植民地化を図りましたが、町は原住民の手によって破壊されてしまいました。1541年ブエノスアイレスは放棄されました。メンドーサはブエノスアイレスの第一の建設者といわれています。1548年にはボリヴィアへ遠征して首都ラ・パズ市を建設しました。

アロンゾ・ド・メンドーザ
  Alonso de Mendoza (生年不詳(1480-90)〜1550/5月頃)
  生地:スペインのエクストラマドーラ州バダホス県ラ・ガロヴィラ生
  没地:ボリビアのラパス県ティプアニ、65才頃没
  肩書: 探検家(エクスプローラー)、征服者(コンキスタドール)、
      居留地建設者(ファウンダー)、辺境未開地調停者(パシフィカドール:総督下賜称号)
      (Explorer, Cconquistador, Colonial settlement founder, Pacificador)
・初めに
1492年のコロンブスの新大陸発見後、16世紀に入るとスペイン、ポルトガルから数多くの探検家がコンキスタドールという征服者(略奪者)として新大陸にやってきました。コロンブスが新大陸の一角に上陸してから、100年もたたない内に南北アメリカの大部分がスペインやポルトガルの植民地となりました。そして、アメリカ大陸の先住民の文化は破壊され、原住民は奴隷のように酷使され、その上に旧大陸からもたらされた天然痘などの伝染病によって、人口は激減しました。カリブ海地域では300万人が10万人に、メキシコ地域では250万人が10万人に、ペルー地域では120万人が20万人に激減したともいわれています。その後、金銀の鉱山開発、砂糖コーヒーの農場開発のための労働力となる人手が必要で、アフリカから多くの黒人が連れてこられて奴隷として働かされました。また、新大陸からは性病の梅毒が旧大陸へもたらされました。

1516年スペイン人のフアン・ド・ソリス が南アメリカのアルゼンチンとウルグアイの間を流れる河(Rio de la Plata, 290km:パラナ川3,998km含4,876km)で河口部が全幅約270kmの三角江(エスチュアリー:Estuary)となっているラ・プラタ河々口に到着しました。ソリスが率いる探検隊が、マール・ドゥルセ(Mar Dulce=真水の海)を発見しましたが、この真水の海は現在のラプラタ河三角江でした。この探検隊が発見した地域は、現在のウルグアイ側の岸だったともいわれています。その後ソリスはラ・プラタ河周辺の原住民に殺害されました

・メンドーサの船出
1534年スペインのエクストラマドーラ州バダホス県ラ・ガロヴィラ(La Garrovilla, province of Badajoz, Extremadura, Spain)出身(1480-90生)のアロンゾ・ド・メンドーザが当時の国王カルロス1世に自費によるアメリカ航海(Jornada a Indias)を申請、許可されました。航海の経験が少なかったメンドーザはポルトガルの冒険野郎達にラプラタ河地域を先取りされるのを恐れていました。彼の目的はこの地域のポ ルトガル進出に歯止めをかけるためだけではなく、彼の持病(性病)の特効薬を見つけるのが目的だったとも言われています。1536年2月ラプラタ河へ到着。ラプラタ河支流リアチュエロ川(Rio Riachuelo=小さな川、現:Rio Matanza, 64km)沖にサンタ・マリア・デル・ブエノスアイレス(Santa Maria del Buen Ayres)砦を建設しました。名前の謂れは船乗りが好きな”順風”(=Buen Ayres)で、それが現在のアルゼンチンの首都ブエノスアイレスの名前の由来となりました。そしてブエノスアイレスの歴史の第一歩がここに築かれました。しかし、メン ドーザの率いる探検隊は植民地化を図りましたが、食料不足と原住民達の攻撃により、5年後に撤退せざるを得なくなりました。1541年ブエノスアイレスは放棄され、町は原住民の手によって破壊されました。

また持病のためメンドーザの健康は著しく衰えていましたが、側近達は他の地方の探検に出発しました。1537年メンドーサの側近フアン・サラサル・ド・エスピノサはラ・プラタ河区域最初 の永住地になったアスンシオン(現在のパラグアイの首都)を建設しました。アスンシオンを拠点としたスペイン人は徐々にパラナ川とパラグアイ川の間にあった地域を征服しました。また、この領土の自然条件が非常によく、スペインから持ってきた少数の家畜が急増しましたので、安定した牧畜経済を可能にしました。

メンドーザは、ガスカ副王によってゴンサロ・ピサロの反乱が鎮圧された後、ボリヴィア高知地方の調停者(ス:El Pacificador、英:Peacemaker)に指名され、1548/10/20に現在のボリヴィアの首都ラ・パス(中心街の標高は3600m強)を建設して、ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・パズ(ス:Nuestra Senora de La Paz、英:Our Lady of Peace、日:我らが平和の母の街)と名付けました。そして其処は銀鉱山ポトシとペルーの首都リマを結ぶ重要な「銀の道」の中継地になって繁栄しました。 ラ・パス市建設

メンドーザの没年はハッキリしません(1550/5説有)が、ボリビアのラパス県ティプアニ(Tipuani, La Paz Department, Bolivia)で亡くなる前に、現地人のポトシ反乱を鎮圧して、1549年にチュキサカ (Chuquisaca、現:スクレ)に戻ったことは確かだといわれています。

・其の後
1553年には現在のアルゼンチンで最初の永住地となるサンティアゴ・デル・エステロ(Santiago del Estero)が、ペルーから南下したスペイン人開拓者達により建設されました。そして1573年にコルドバ(Cordoba, Argentina)とサンタフェ(Santa Fe, Argentina)が建設されました。ブエノスアイレスはフアン・ド・ガライにより1580年に再建されました。

参考HP:〜
アルゼンチンの州別地図(州都有、24州)
ボリヴィアの地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     13/6/22追記
スタンプ・メイツ
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