★イギリス |
ウィリアム・パターソン大佐
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大航海物語★ |
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GRENADA 18〜19世紀の英国帆船 グレナダ 1998/4/26 発行 |
オーストラリアの地図 アイルランド 1988/3/1 発行 |
オーストラリアの地図 | |
ノーザンテリトリー(北部準州) | |||
←クィーンズランド ←ニューサウスウェールス ←タスマニア |
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サウスオーストラリア州、 ヴィクトリア州 オランダ 1988/8/30 発行 |
スコットランド生まれのパターソン大佐は21才で南アフリカの奥地の探検をなし、バンクス卿の知己を得て「ホッテントット探検記」を発刊。25才で歩兵連隊に入隊してインドに渡り、そこの植物などの標本を収拾し、バンクス卿のもとへ送りました。35才でオーストラリのNSW軍団に入隊、ノーフォーク島の植民地建設に従事し、そこの標本を集めてバンクス卿のもとへ送りました。1794年にシドニーでNSW副総督に就任して軍政を取り仕切りましたが、病気で帰国しバンクス卿のもとでNSW植民地植物の研究をしました。1799年に再びオーストラリアへ大航海して行き、シドニーでハンター・ヴァレーを探検。また副総督に就任しましたが、間もなくタスマニアの殖民開拓を命ぜられ、北部の現:ジョージタウン付近で居住地を建設するからわら、タマー川方面の探検をなし、標本をバンクス卿のもとへ送りました。シドニーでの「ラム酒の反乱」の報に接し、急遽シドニーへ出帆しブライ総督を軟禁となし、直ぐに病気を理由にタスマニアへ戻りました。マックワイアー新総督が着任すると病気療養でシドニーを出帆、帰国の途上にケープタウン近海の船上で亡くなりました。 |
ウィリアム・パターソン大佐 (1755/8/17〜1810/6/21) Conal William Paterson ニュー・サウス・ウェールズ副総督(Lieutenant-Governor) 前期在任:1794/12/18〜1795/9/19、後期在任:1800/9〜1808/1/26 ヴァン・ディーメンズ・ランド(タスマニア)北部副総督:在任:1804〜1808 パターソン大佐はスコットランドのモントローズ(Montrose, Scotland)で生まれました。少年時代は植物学(Botany)に興味を持っていました。ストラスモア夫人(Lady Strathmore)の援助を得て、南アフリカに行くことが出来ました。1777/5月にホートン号(Houghton)でケープタウンのテーブル湾に上陸して、1780/3月まで、内陸部探検を4回おこないました。1789年に帰国してジョセフ・バンクス卿の知己を得て、「ホッテントット探検記」(Narrative of Four Journeys into the Country of the Hottentots and Caffraria)を発刊しました。 1781年に第98歩兵連隊(98th Regiment of Foot)に入隊し、インドで服務しました。1782年にはジョハナ島(island of Johanna)とマラバル海岸(Malabar)で植物などの標本を集めて、バンクス卿に送りました。1783年にカルールの包囲攻撃戦(siege of Karur)に従軍し、中尉(lieutenant)に昇進しました。1785年に連隊が解散するとイギリスへ帰国し、1787年に第73歩兵連隊(73rd Regiment of Foot)に転属となりました。
ノーフォーク島からシドニーに戻ると、1793/9月にブルー・マウンテン山脈(Blue Mountains)横断ルートの探検に出かけ、ルートは見つかりませんでしたが、グロス川(Grose River)を発見、グロス少佐に因んで命名しました。その後にNSW軍団の副司令官(second-in-command)に就任しました。1794/12月に総督の代理を務めていたグロス少佐(Major Francis Grose, 1758-1814)が帰国すると、1794/12/18にパターソン大尉は副総督(Lieutenant-Colonel)に就任(在任:〜1795/9/19)してNSW軍団の軍政をつかさどり、4965エーカー(2009ha)の土地を手に入れました。1795/9/7にハンター総督(在任:〜1800/9/27)がリライアンス号(HMS Reliance 400t)でシドニーに着任しましたが、パターソン大尉率いるNSW軍団の軍政が続き、商業や農場経営を支配しました。1795年に少佐(major)に昇進。1796年に病気でイギリスへ帰国。バンクス卿のもとでNSW植民地の植物の研究をしました。1798年に中佐(lieutenant-colonel)に昇進し、王立協会のフェロー(fellow of the Royal Society)に選出されました。 1799年にNSW植民地へ赴任しNSW軍団士官達の規律の回復を命じられイギリスを出帆し、1799/11月にシドニ−に着任。パターソン少佐はハンター総督の行政下では物資が異常な高騰を見せ、アイルランド系囚人達が武装暴動を起こしかねない状態になっていると、バンクス卿に訴えました。ハンター総督が帰国すると、後任のキング総督が1800/9月にパターソン中佐を、再びNSW副総督に指名しました。軍務に服しながら、1799年にホークスベリー(Hawkesbury)で植物標本を採集、1800年にはそこで石炭を調査、1801年にグラント(Lt James Grant)とハンター川(Hunter River)とハンター・バレー(Hunter Valley)を探検、そしてパターソン川(Paterson River、後にキング総督が命名)の探検を実施して、健康が次第に蝕まれてきました。
1804年にタスマニアのポート・ダルリンプル(Port Dalrymple)、タマー川(Tamar River)、さらに北部のエスク川(Esk River)までを探検。1806年にNSW軍団が任務を解きましたが、1807年に探検から戻り、1808/12月までタスマニアに留まりました。その間もバンクス卿と連絡を取り、数多くの植物などの標本を送り届けました。 1808/2月にジョンストン少佐がブライ総督を投獄、幽閉したとの知らせがくると、パーパス号(H.M.S. Porpoise)でポート・ダーリンプルからシドニーへ出帆し、ブライ総督の総督職への復帰は拒否してシドニーで軟禁し、ジョンストンは帰国させることにました。健康が良くないことを理由に臨時政府には加わらず、緊急措置で後任のNSW副総督にジョゼフ・フォヴォウ中佐に(在任:1808/4/25〜1809/1/8)を指名して指揮を執らせ、パターソン大佐は僅か9日間でタスマニアへ戻りました。 最終的に1809/1/1にタスマニアのポート・ダルリンプルを離れて、シドニー郊外のパラマタ(Parramatta)に居を構え、健康悪化で酒におぼれるようになりました。1809/2月にブライ総督はロンドンに直接向かうという条件で解放されました。新総督のマックワイアー将軍(1810/1/1〜1821/12/1)が着任すると、健康状態が悪くなっていたので、パターソン大佐は1810/5/12にシドニーをドロメダリー号(HMS Dromedary)で、イギリスへ向けて出帆しました。そして数週間後(6/21)に喜望峰を前に、船上で亡くなりました。亨年54才でした。 参考:〜 ヴァン・ディーメンズ・ランド(タスマニア)北部副総督:〜 (Lieutenant-Governors in the north of Van Diemen's Land) ・初 代:ウィリアム・パターソン大佐(Colonel William Paterson 在任:1804〜1808) ・第2代:ジョン・ブラビン(John Brabyn 在任:1808〜1810) ・第3代:ゴードン少佐(Major G.A. Gordon 在任:1810〜1812) ・第4代:リッチス大尉(Captain J. Ritchie 在任:1812〜1812) 参考HP:〜 ・モントローズの場所地図 ・スコットランドの地図(エジンバラ有) ・イギリスの州別詳細地図 ・ノーフォーク島の地図 ・ノーフォーク島の場所地図 ・シドニーの地図(日本語) ・シドニー付近の地図 ・グロス川の地図 ・タスマニア島の地図 ・タスマニア島の地図(詳細) ・タスマニア島の古地図(George Town北にP Dalrymple有) ・タスマニア島の地図(タマー川(Tamar River)有) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2010/4/15 |