United Kingdom

国連 1983 発行
切手で綴る イギリスの大航海(Great Exploration Voyage)バウンティ号航海(V3-14
トーマス・バーキット水兵
1789
”パンドラの箱”で地獄を見る、絞首刑となる
大航海物語
バウンティ号編

PITCAIRN ISLANDS
タヒチ島で暮らしていたバーキットたち

1789 バウンティ号の反乱200年記念 1989
ピトケーン 1989/4/28 発行

バウンティ号

英領ピトケーン 1988/5/9 発行

Ras Al Khaimah
黄色いキリスト、"Yellow Chris"
ゴーギャン、1889年作


ラス・アル・カイマ 1970 発行


TOKELAU
パンドラ号

トケラウ諸島(現NZ領) 1999 発行
Norfolk Island
クイーンズランド海岸の地図と
座礁したパンドラ号

ノーフォーク島 1991/8/28 発行

バーキット水兵は刺青をした六尺豊かの大男で、顔には天然痘で二目と見られないような傷跡がありました。1787年にバウンティ号に乗り組み、その後、反乱に加わわり、タヒチ島に戻ることを主張し、島でタヒチ女性と結婚して2人の仲間と共に島の西海岸で暮らしていました。1791年に反乱者の捜索に来たイギリス軍艦パンドラ号に捕らえられ、「パンドラの箱」と呼ばれた牢獄に押し込められ地獄をみました。またパンドラ号が遭難したときも生き延び、イギリスに送還された後に、軍法会議で死刑の判決を受け、絞首刑となりました。
トーマス・バーキット上等水兵 (1762〜1792)
 Able Seaman Thomas Burkitt、25才乗組み30才没。
バーキット水兵は色白、茶髪、天然痘(疱瘡:smallpox)でのあばたヅラの恐ろしい顔をした六尺豊かの頑丈な体格をした入れ墨の大男でした。バーキットは上官の「ハキハキしていて読み書きが出来る働き者だ」との推薦で戦艦ヘクター号(HMS Hector, 74gn)に乗組んでいました。

1787年にブライ艦長西インド諸島のプランテーション(Plantation:大農園)で働く奴隷の安い食料を確保するため、太平洋のタヒチ島から「人手無用で育つ食料の木」と思われていた”パンの木”の苗木を、西インド諸島に運び植林する作戦を命じられ、「パンの木の苗木の輸送作戦」を実施するため南太平洋への航海へ出帆する艦長に”バウンティ号”(HMAV Bounty)が与えられ、ブライ艦長は乗組員を募り、バーキットは25才でバウンティ号に乗組みました。

1787/12/23にバウンティ号はイギリス・スピツヘッド海峡近くのポーツマス港(#1B21)を出帆しました。航海中はブライ艦長が乗組員全員に対して、幾つもの欠点をあげつらっては猛烈に叱責しました。1ヵ月後にブライ艦長の命令でマゼラン海峡ではなく、南アメリカ最南端で「吠える60度」という南極からの強風で年中荒れ狂っていて、船乗りに恐れられていた難所中の難所のホーン岬(Cape Horn)を回航してドレーク海峡を抜けて、太平洋へ出てることになりました。フライヤー航海長の冷静な指導のもとで嵐の中にホーン岬を望見できましたが、折りしもさらなる大嵐が襲いかかりました。ブライ艦長は「進路を見失った」としてドレーク海峡の突破を断念して、喜望峰への転舵を命令しました。喜望峰周りで無事にインド洋へ出ましたが、そのために2ヵ月もの遅れを出したとして、艦長は航海長のフライヤーを降格し、上級士官の1人クリスチャン一等航海士を副艦長に抜擢しました。1788/3/10にはクィンタル水兵がその横柄で反抗的な態度に、艦長から24回の鞭打ち刑を受けました。その後の航海中もブライ艦長の厳しい態度に、乗組員の多くが不満を抱いていきました。バウンティ号はさらに西へ帆走して、出港から10ヵ月以上の航海の後、1788/10/26にタヒチ島に到着しました。

バウンティ号はさらに西へ帆走して、10ヵ月以上の航海の後、1788/10/26にタヒチ島に到着しました。1789/4月までの約半年間を”パンの木”の苗木やその他の植物を搭載するためにタヒチ島に滞在しました。その期間中、クリスチャン副長はタヒチの女性と結婚し、その他の多くの乗組員も現地生活を楽しみました。島での約6ヵ月間の生活は水兵たちにしてみれば楽園だったのでした。水兵の多くは短気なブライ艦長と再び航海に出るのをますます嫌うようになりました。バーキットと水兵2人が仕事を放棄して逃げようとしたため、ブライ艦長は鞭打ちの刑を科しました。そして タヒチ島











仏領ポリネシア 1986 発行
”パンの木”の苗木を積み込んだバウンティ号は、1789/4/4にタヒチ島を出帆しました。1789/4/28にフレンドリー諸島(トンガ)近海に差しかかった時に反乱が起きました。イギリス出帆時から艦長の厳しさに不満を抱いていた乗組員達は、”パンの木”の苗木を積み込んでからの、水の制限により、不満が一気につのりました。クリスチャン副長をそそのかして味方につけ、1789/4/28早朝に副長と反乱者達が船を乗っ取り、ブライ艦長達を1隻のボート(Longboat、ランチ・救命艇)に押し込めて船から追放しました。当時乗組んでいた46人の内、途中で死亡していた2人を除き、反乱者はクリスチャン副長以下12人でした。ブライ艦長以下19人はボートに乗せられて追放され、反乱に加わらなかった者のうち艦長と行を共にしなかった(ボートに乗れなかった、また、直接手は下さなかったが反乱に同調した、という説も有)13人は船に残されました。その時、バーキットは前方見張り役で艦長室になだれ込んだ一団の先頭にいました。そして、タヒチに戻ることを主張しました。

その後、バウンティ号はポリネシアのツバイ島(Tubuai 、Austral Islands)に寄航し、定住地建設を試みましたが、原住民の攻撃にあって失敗しましたので、ソシエテ諸島東部にあるタヒチ島(現在のフランス領ポリネシア)に戻りました。クリスチャン副長はイギリスの手の及ばない南海の未知の島に移住しようと覚悟を決め、1789/9月に23人の反乱者のうち、14人をタヒチに残し、8人の反乱者と原住民を連れて島を後に出帆してしまいました。

残された元乗組員はバーキットとサムナー(Sumner)とマスプラット(Muspratt)との3人と、ヘイウッド候補生の指揮の一団とに分かれて、別行動を取りました。バーキットたちはタヒチ島の西海岸でマタヴァイ湾(Matavai Bay)の南で、パパラ(Papara)と呼ばれていた所に移住して暮らし、バーキットは一人の息子をもうけました。

そうこうしているうちに・・・・・
タヒチの女(浜辺にて)
ゴーギャン1891作オルセー美術館蔵


イェーメン 1968 発行

1789/6/12にブライ艦長が指揮するボートは、海図無しで艦長が持っていた六分儀と時計のみで航行し、トンガのトフア島を経由して45日かけて、ニューギニアとオーストラリアの間の早い潮流の難所トレス海峡を通り、オランダ領チモール島に着きました。約1年後の1790/3/4ブライ艦長以下15人がイギリスに生還できました。同年3/15にブライ艦長たちはイギリスで反乱を報告しました。ブライ艦長たちの報告を聞いたイギリス海軍は反乱者達を探すためフリゲート艦パンドラ号を派遣することを決定しました。1790/11月に軍艦パンドラ号はバウンティ号の捜索のためにイギリスを出帆し、 タヒチ島に到着したパンドラ号

ノーフォーク島 1991/8/28 発行
1791/3月にタヒチ島に到着し、タヒチ島にいたバーキット他の叛徒を「海賊の極悪人」として3/29に逮捕しました。パンドラ号には牢がなかったので、クォーターデッキ(後甲板)に「パンドラの箱」
とあだ名される木造の箱で臨時の牢獄を造り,手かせと足に鉄の鎖をして反乱者たちを収監しました。その箱は換気が悪い上に直射日光が当たり、それはもうサウナに閉じ込められているのと同じで、赤道直下での窓のない「箱の中」は強烈な熱さと異臭に満ちて、地獄の状態だったと伝えられています。モリソンたちはその中に4ヵ月間も閉じ込められました。パンドラ号はその後も3ヵ月ものあいだ副長たちを探しましたが、ようとして行方が解らず、1791/8/30にオーストラリア近海のトレス海峡近くクイーンズランド海岸で座礁沈没してしまいました。この時に叛徒3人が水死しました。遭難後に4隻のボートにモリソン他98人が分譲し、15日間の漂流後にチモール島に到着。 クグレートバリアリーフの地図と
座礁したパンドラ号


ノーフォーク島 1991/8/28 発行
叛徒はオランダ東インド会社の帆船でバタビアに連行されました。そこからイギリス軍艦ゴーゴン号
(HMS Gorgon)に収監されてケープタウン経由で、バーキット他の叛徒は本国送還となり、1792/6月にイングランドに到着。同年の軍法会議で、バーキットは1792/9/18に軍法会議で死刑の判決が言い渡されました。その後、大英帝国戦艦ブランズウィック号(HMS Brunswick, 74gn third rate ship)で、哀れ30才で「縛り首」となってその生涯を閉じました。

参考HP:〜
タヒチ観光局公式サイト
黄色いキリスト

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   08/2/15、令和7年 2025/11/30

スタンプ・メイツ
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