Austria 国連 1982 発行 |
海戦大航海 (See Battle Voyage)
ヴィルヘルム・フォン・テゲトホッフ提督 1864、ヘルゴラントの海戦 1866、リッサの海戦、勝利 |
大航海物語 ★オーストリア編 |
HRVATSKA テゲトホッフ提督 クロアチア 20 16 発行 |
ORDINE DI MALTA | ||||
REPUBLIK OSTERRICH アドミラル・テゲトホッフ号 オーストリア 1973 発行 |
十字軍の軍船 | イタリアの地図 アドリア海 |
←アドリア海 ←シシリー島 |
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地中海 | ||||
マルタ騎士団 1968 発行 |
リッサ島沖の海戦 | ||
テゲトホ ッフ提督 |
1866 リッサの海戦150周年記念 2016 クロアチア 2016 発行 |
リ ッサ島沖の海戦 |
REPUBLIQUE DE GUINEE 19世紀の装甲艦 Old warship "Capitaine" (HMS Captain 7,070t, 1870) ギニア 1997 発行 |
ROYAUME du CAMBODGE 19世紀の木造帆船外輪艦 British wood-hulled paddle steamer "Britanni 73t, 1815" カンボジア 1998 発行 |
オーストリア帝国マールブルク・アン・デア・ドラウ生まれのテゲトホッフ提督は普墺戦争中(1866)に起こったプロイセン王国とオーストリア帝国との戦争で、1866/7/20にアドリア海リッサ島(現クロアチア領)沖で装甲艦12隻他のイタリア艦隊と、装甲艦(鉄張艦)7隻他のオーストリア艦隊との間で戦われた リッサ島沖の海戦 に勝利して、海の英雄になりました。 |
ヴィルヘルム・フライヘル・フォン・テゲトホッフ提督 (海軍中将) Vice Admiral Wilhelm Freiherr von Tegetthoff (1827/12/23‐1871/4/7) オーストリア帝国の海軍提督 (Austrian Empire(1804-1867) Navy Admiral) オーストリア帝国のマールブルク・アン・デア・ドラウ(現スロベニア共和国マリボル市)生 (Marburg, Styria, Austrian Empire、現スロベニア共和国マリボル市:Maribor, Slovenia) オーストリア帝国のトリエステ(現イタリアのフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州トリエステ)、44才没 (Trieste, Friuli-Venezia Region, Giulia Province, Italy)、オーストリアのウィーン没説も有。 ▼生い立ちの記 テゲトホッフ提督はオーストリア帝国の海軍々人で、オーストリア帝国シュタイアーマルク公国(Duchy of Styria, 1180-1918)マールブルク生まれでした。父カール・フォン・テゲトホッフ(Karl von Tegetthoff)は陸軍中佐(独:Oberstleutnant、英:Lieutenant colonel)で、母はウィーン市長だったザイラー男爵(Baron Johann Kaspar von Seiller, 1802-1888、Mayor of Vienna, 1851-1861)の親戚という名門でした。両親は民間への道を希望するも、テゲトホッフ提督は海軍を目指し、父もそれを許しました。 ▼海軍兵学校へ入校 1840年にヴェネツィア(Venice, Italy)の海軍兵学校マリンコレギウム(Marinecollegium)に入隊して、1845/7/23には海軍士官候補生(Seekadett)に任官。折しも「1848年の革命」(Revolutions of 1848, オーストリア支配に対する反乱が1848〜1849年にヨーロッパ各地で発生してウィーン体制の崩壊を招いた革命の総称)の時代で、1848年と1849年にはベネチアの反乱(蜂起)を目撃することになりました。1849/4/16に卒業、少尉(Commissioned Officer)任官。初めての海上任務は卒業後「ヴェネツィアの海上封鎖作戦」従軍(1849/5-8月)。1851/6/16中尉(フレガッテンロイトナント:Fregattenleutnant)に、1852/11/16には大尉(リニエンシフスロイトナント:Linienschiffsleutnant)に任官しました。 1854年にスクーナー艦エリザベート号(schooner Elisabeth)艦長を拝命。この時代はオーストリア帝国でも帆船から蒸気船への過渡期で、翌1855年には外輪蒸気船タウルス号(paddle steamer Taurus)艦長を拝命し、クリミア戦争(Crimean War, 1853/10-1856/2)中は、ドナウ河(River Danube, 2,860km)のドナウ・デルタ(Danube Delta)の分流スリナ川(Sulina branch)の河口(Sulina, Danube、現ルーマニア最東端のトゥルチャ県にあるスリナ港)の哨戒任務に従軍しました。その間にテゲトホッフ大尉は、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I of Austria, 1830-1916)の弟で海軍最高司令官(High Commander of the Navy)で後にメキシコ皇帝になったフェルディナンド・マクシミリアン(Maximilian I of Mexico, 1832-在位1864/4/10-1867/5/15-1867/6/17)の知遇を得ました。1857年に少佐(コルヴェッテンカピテン:Korvettenkapitan)に昇進。その後、科学調査のため紅海(Red Sea)とソコトラ島へ探検航海をなし、並外れた外交力と組織力を示し、1857/12月に参謀(staff officer)に任官。ついで地中海の北アフリカ沿岸やレバントへの遠征に従軍して、1858年に新造スクリュー・コルヴット艦エルツォルツォーグ・フリードリッヒ号(screw corvette Erzherzog Friedrich)の艦長を拝命、モロッコ哨戒任務作戦にも従軍。 「1859年のイタリア革命作戦」(Italian campaign of 1859)では、フランス艦隊の跳梁でオーストリア帝国はアドリア海の制覇はならず混乱した状態になりました。平和の復活とともにテゲトホッフ少佐は、1859年の冬にペドロ2世ブラジル皇帝(Pedro II of Brazil, 1825-在位:1831-1889-1891/12/5)を訪問しにブラジルへ行く、メキシコ皇帝フェルディナンド・マクシミリアン(Maximilian I of Mexico)をブラジルに連れて行く任務の航海で、中南米への遠洋航海を経験しました。1860/4/27に中佐(フレガッテンカピタン:Fregattenkapitan)に昇進。1861/11/23に大佐(リニエンシフスカピタン:Linienschiffskapitan)に昇進。1862年にオーストリア海軍のレバント艦隊(Levant Squadron)司令官に任命されました。1862年8月にギリシャでクーデターが起こり、ドイツ人ギリシャ王オットー1世(Otto of Greece, 1815-在位 1833-1862/10/23-1867)が退けられ、国王夫妻はイギリス艦でギリシャを出国してドイツ南部のバイエルンへと向かうというギリシャ革命の混乱を監視する任務に従事し、また東部地中海沿岸レバント地方(Levant)のシリア反西側勢力監視にも従事しました。 ▼デンマーク戦争 (Denmark War, 1864/2/1-10/30) (別名:第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争、プロイセン連合勝利) (Second Schleswig-Holstein War, 1864/2/1-10/30) テゲトホッフ大佐は、1864年のデンマーク王国(Kingdom of Denmark)とプロイセン王国(Kingdom of Prussia, 1701-1918)連合(プロイセン・オーストリア連合軍)とのデンマーク戦争(1864/2/1-10/30)の時は、1864/5/9にドイツ領の北海の小さな島ヘルゴラント島南方沖でヘルゴラント島沖の海戦をデンマーク海軍相手に戦いました。この戦功でマリア・テレジア勲章(Order of the Iron Crown, Austria)を受章。1864/5/12(37才)に海軍少将(コントレアドミラル:Kontreadmiral、英:Rear Admiral)に昇進し、イタリアに対する7週間戦争(Seven Weeks' War, (普墺戦争:Austro-Prussian War)1866/6/14-8/23)の直前、1866/5/9にオーストリア艦隊の指揮官(Commander)に任命されて時代に合わせた艦隊の根本的改革を任されることになりました。 ▼普墺戦争 (ふおうせんそう、Austro-Prussian War (別名:7週間戦争), 1866/6/14-8/23) (プロイセン(普魯西)王国 vs オーストリア(墺太利)帝国との戦争、プロイセン主導連合軍の勝利) テゲトホッフ提督は、1866年の普墺戦争に伴う第三次イタリア独立戦争(オーストリア対イタリア:Third Italian War of Independence, 1866/6/20-1866/8/12)では、海軍の新時代を身をもって示すことになりました。クストーザの戦い(Battle of Custoza, 1866/6/24)でオーストリア軍に敗北したイタリア軍は、イタリア対岸のダルマチア地方(Dalmatia, Croatia)沖のリッサ島にあるオーストリア海軍基地に艦隊を派遣することで、オーストリア海軍に対する勝利を求めました。1866/6/27、テゲトホッフ提督はイタリア中部のアドリア海沿岸にある港湾都市でマルケ州の州都アンコーナ(Ancona, Ancona province, Marche region, Italy)基地の強力なイタリア艦隊偵察に成功しました。1866年のリッサ島沖の海戦(1866/7/20)で、数的に勝るイタリア艦隊を相手に衝角戦法を使用して大勝利を収め、装甲艦の優越性を示すことになりました。オーストリアは戦争に敗れ、彼の勝利は戦争の結果には実質的に影響しませんでしたが、テゲトホッフ提督は電報で直ぐに中将(ヴィゼアドミラル:Vizeadmiral、英:Vice Admiral)に昇進しました。彼は、当時のメキシコ帝国皇帝フェルディナンド・マクシミリアンと、元海兵隊上級司令官のハンス・バーチ・ダーレルップ大将(Hans Birch Dahlerup)からお祝いの電報を受け取りました。テゲトホッフ提督はマリア・テレジア女帝(Maria Theresa, 1717-在位:1740-1741、1743-1780)が創設したオーストリア帝国(ハプスブルク帝国)における最高の軍事勲章のマリア・テレジア軍事勲章(Military Order of Maria Theresa)を授与され、ウィーンの名誉市民になりました。 ▼その後 リッサ海戦勝利の後、テゲトホッフ提督は海軍基地建設で地域を守備するために、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I、1830-在位1848-1916)にダルマチア沿岸の内陸部を併合するよう提案しました。これは実際、ボスニアとヘルツェゴビナの占領(1878)と併合(1908)で達成されるも、テゲトホッフ提督の没後しばらく経ってから実現しました。 テゲトホッフ提督は新しい海軍研究のため、1866〜67年の間にフランス、英国、米国へ赴きました。アメリカ滞在中の1867年にかつての上司のメキシコ皇帝マクシミリアンが共和国軍と新メキシコ大統領ベニート・フアレス(Benito Juarez, 1806-1872)によって処刑されると、スクリュー帆船フリゲート艦ノヴァラ号(Screw frigate SMS Novara, 2,574Lt, 1850)で遺体を引き取ってオーストリアに戻す任務に就き、1868/1/16にトリエステ港に到着しました。 1868年に海軍最高責任者(Marinekommandant:chief administrative officer)に就任。続いて1868/3月には、帝国政府の軍事省海軍部長(Chef der Marinesektion:Chief of the Naval Section)に就任。参謀本部の抵抗もものともせず、短期間のうちに海軍の組織改革を成し遂げました。それは1918年のオーストリア帝国消滅まで維持されました。 1871年にトリエステで肺炎のため43才で急逝し、オーストリアのシュタイアーマルク州々都グラーツ(Graz, Styria State, Austria)の墓地に埋葬されました。テゲトホッフ提督の没後、リッサ海戦の戦勝を顕彰して、首都ウィーン新市街レオポルトシュタット(Leopoldstadt, Vienna, Austria)にあるプラーター公園(Prater park)に高さ8mの銅像が建設されました。1877年にポーラ軍港(Pola, 現クロアチのプーラ:Pula)に建設された顕彰碑には「ヘルゴランドで勇戦し、リッサで輝ける勝利を収めし者、己とオーストリア海軍に不滅の栄誉をもたらす」と記されました。この顕彰碑は同軍港が第一次世界大戦後にイタリア領になったため、1935年に墓所のあるグラーツに移されました。北極海でフランツ・ヨーゼフ島(Franz Josef Land)を発見のオーストリア海軍唯一の極地探検船が、テゲトホッフ提督号(アドミラル・テゲトホッフ号)と名付けられました。同島で最初に発見された岬もテゲトホッフ岬と命名されました。
・スクリュー・フリゲート艦シュヴァルツェンベルク号、連合艦隊旗艦 (Steam screw Frigate SMS Schwarzenberg, 2573Lt, 498) ・スクリュー・フリゲート艦ラデツキー号 (Steam screw Frigate SMS Radetzky, 2297Lt, 372人) ・プロイセン艦隊〜3隻 ・小型外輪通報艦プロイシッシャー・アドラー号 (Sidewheel Avios, SMS Preussischer Adler, 1153Lt, 110人, 1846) ・スクリュー砲艦バジリスク号 (Steam screw Gun boat SMS Basilisk, 415Lt, 66人, 1862) ・スクリュー砲艦ブリッツ号 (Steam screw Gun boat SMS Blitz, 415Lt, 66人, 1862)〜離れていて戦闘には不参加 ・デンマーク:エドゥアルド・スエンソン北海艦隊〜3隻 ・スクリュー・フリゲート艦ニルス・ユール号(Steam Frigate Niels Juel. 1,903Lt, 422人) ・スクリュー・フリゲート艦ユラン号 (steam frigates Jylland, 1957Lt, 437人) ・スクリュー・コルベット艦ヘイムダル号 (Ssteam Corvettes Hejmdal, 878Lt, 164人)
・ヘルゴラント島沖の海戦〜経過:〜 第二次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争(1864/2/1)の勃発に続き、2/26にはデンマークはシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国の全ての港の封鎖を宣言。そして、3/8にはプロイセンの全ての港も対象としました。最初、封鎖はスクリュー・フリゲート艦ニルス・ユール号で行われているも、直ぐにスクリュー・コルベット艦ダグマル号 (Ssteam Corvettes Dagmar, 878Lt, 164人)も参加。これに対して、プロイセン海軍は非常に小規模だったので、プロイセンはオーストリアに支援を求めて、3月初めに2隻のスクリュー・フリゲート艦シュヴァルツェンベルク号、ラデツキー号とスクリュー砲艦ゼーフント (Steam screw Gun boat Seehund、ボイラー故障でイギリスへ)がテゲトホッフ司令官指揮の下で地中海から北海へと出帆しました。この脅威に対し、デンマークはエドゥアルド・スエンソン司令官 (Commander:Captain Edouard Suenson) 指揮下に北海戦隊を編成。これは ・スクリュー・フリゲート艦ニルス・ユール号 ・スクリュー・コルヴェット艦ダグマル号 ・スクリュー・コルヴェット艦ヘイムダル号 から成っていました。北海戦隊に対する命令は、北海での商船の保護とドイツ船の捕獲、そして敵艦との交戦でした。ダグマル号はすぐにスクリュー・フリゲート艦ユラン号と交代しました。オーストリア艦隊は、ゼーフント号が損傷してイギリスの港へ修理に向かい、5月初めにオランダのテセル島沖に到着。そこで、プロイセンの小型の外輪船プロイシッシャー・アドラー号と砲艦バジリスク号、砲艦ブリッツ号が加わりました。 海戦は、南に向かっていたデンマーク艦隊が10時ごろ、イギリスのフリゲート艦オーロラ号(Aurora)を発見し、続いて南西に5隻以上の船を発見して開始されました。両軍の艦隊は接近し、13時15分にシュヴァルツェンベルク号が砲撃を開始。デンマーク艦隊は接近して反撃、両艦隊の距離は非常に接近。テゲトホッフ司令官は西に針路を変えT字を描こうとし、デンマーク艦隊は左に転舵。プロイセンの砲艦は落伍し、両艦隊は約1海里(1.852km)の距離ですれ違って激しい砲火を交戦。テゲトホッフ司令官は砲艦が引き離されるのを防ぐため向きを変え、両艦隊は並行になって交戦しつつ南西に向かいました。ニルス・ユール号はシュヴァルツェンベルク号と交戦、ユラン号とヘイムダル号は攻撃をラデツキー号に集中。プロイセンの砲艦は離れすぎて戦闘には参加できませんでした。15時30分頃、シュヴァルツェンベルク号で火災が発生、戦闘継続が不可能になりました。テゲトホッフ司令官は戦闘をやめてヘルゴラント島周辺の中立海域に入りました。英艦オーロラ号はこの戦闘を監視していて、ヘリゴランド島海域のイギリスの中立を守るための行動をとりました。そのため、スエンソン司令官は16時30分頃に追跡を断念しました。その後、スエンソン司令官はイギリスの領海の外で監視しているも、オーストリア・プロイセン連合艦隊は夜のうちにエルベ川河口のクックスハーフェンへ脱出。5/12の休戦発効でスエンソン司令官はコペンハーゲンへの帰還を命じられ、封鎖は終了しました。デンマークもオーストリアもこの海戦は勝利したとみなしました。デンマーク艦隊は熱狂的にコペンハーゲンへ迎え入れられました。一方、オーストリアのテゲトホッフ司令官はこの海戦の功績で少将へ昇進。デンマーク艦隊のフリゲート艦ユラン号は今日もデンマークのユトランド半島中央東部のエベルトフト港(Ebeltoft, Denmark)にミュージアム(博物館)船として保存されています。 ・参考HP:〜 ・北海の場所地図 (1) ・北海油田の場所地図 (2)、”German secter”(ドイツ部分) の中にヘルゴラント島が有 ・北海の場所地図 (3) ・ヘルゴラント島の場所地図 (中央の海”German Bight”(ドイツ湾曲海)の ”Helgoland” 拡大有)
・イタリア艦隊の編成:〜32隻 司令官ペルサーノ大将〜リ・ディタリア号(沈没)最初の旗艦、アフォンダトーレ号・後の艦隊旗艦 ・第1戦隊〜装甲艦〜12隻〜アフォンダトーレ号、戦隊旗艦 ・第2戦隊〜非装甲艦戦隊〜10隻〜マリア・アデレード号、戦隊旗艦 ・第3戦隊〜木造戦列艦(蒸気推進)〜10隻〜ジグリオ号、戦隊旗艦 ・リッサ島沖の海戦〜経過〜 オーストリア帝国(Austrian Empire, 1804-1867)とプロイセン王国(Kingdom of Prussia, 1701-1918)の対立から始まった普墺戦争(1866/6/14-8/23)は、同じくオーストリアと対立していたイタリア王国(Kingdom of Italy, 1861-1946)の参戦で南欧にまで拡散。イタリア王国軍は国家統合から僅かに5年後の戦いということもあり、統一前に存在した旧各国軍の統合と元将兵らへの処遇などの諸問題が解決しておらず、混乱した状況下でした。特に陸軍内での旧両シチリア王国(Kingdom of Two Sicilies, 1816-1861、ナポリ王国:Kingdom of Naples, 1282-1816)軍兵士たちの反抗は深刻なものがありました。彼らは、中世において南イタリア最大の権勢を誇っていた自分達が、当時は辺境の小国に過ぎなかったサルデーニャ王国(Kingdom of Sardinia, 1324-1861)の将軍らに率いられることを屈辱と感じていました。足並みの揃わない中、二手に分かれて進軍したイタリア王国軍は老大国オーストリアとの戦いに苦戦を強いられ、アルフォンソ・フェレロ・ラ・マルモラ(Alfonso Ferrero La Ma, 1804-1878)元帥による指揮の稚拙さも手伝って主力軍がクストーザの戦い(Battle of Custoza, 1866/6/24)で敗北。イタリアはこの後、英雄ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi, 1807-1882)率いるアルプス軍団がベッツェッカの戦い(Battle of Bezzecca, 1866/7/21)でオーストリア軍に勝利したものの、大勢としては劣勢でした。そして、1866/7月にプロイセン軍がケーニヒグレーツの戦い(Battle of Koniggratz、1866/7/3)でオーストリア軍に大勝したとの報が伝わってきました。戦局の打開を望んでいたイタリア王国政府は、これに後押しされる格好で海軍に積極的な攻勢を指示し、1866/7/15に海軍がマルケ州アンコーナ(Ancona, Region Marche, Italy)から出撃。しかし海軍もまた、陸軍同様に主導権争いによる不和や、指揮系統の不備を抱えていました。 1866/7/20早朝にイタリア艦隊に遭遇したテゲトホッフ艦隊はイタリア艦隊の中心に向かって直航し、艦隊に突進して自分の艦隊の火力不足を補うことを望んでいました。 しかし、イタリア艦隊からの煙で視界が非常に悪くなり、オーストリア艦隊はイタリア艦隊を完全に見逃しました。旋回してテゲトホッフ艦隊は再び突撃し、今度はイタリアの2隻の装甲艦を炎上させて、さらに数隻の艦艇に損害を与えました。テゲトホッフ提督の旗艦エルツォルツォーク・フェルディナンド・マックス号は、イタリアのフリゲート艦リ・ディタリア号を突撃して撃沈。翌日イタリア艦隊は撤退しました。テゲトホッフ提督は勝利して、ポーラ(Pola、現:クロアチアのプーラ:Pula, Croatia)の基地に戻りました。 <海戦>〜戦闘詳報〜 イタリア海軍は18日からリッサ島に対する艦砲射撃を行い、これを受けて20日にオーストリア海軍が到着。オーストリア海軍はイタリア海軍が揚陸の準備を行っている最中を突いて海戦を挑むも、対するペルサーノ提督は「不審船」の目撃報告を受けていながらこれを無視し、イタリア海軍は隊形を整える時間を失いました。 海戦は20日10時30分頃に開始されました。装甲艦12隻を主力とするイタリア艦隊は、装甲艦のうち3隻を陸上砲台砲撃などのために分派しており、残る9隻が戦闘に参加。一歩、オーストリア艦隊は装甲艦7隻と非装甲艦14隻から成っていました。 海戦の直前にイタリアの司令官ペルサーノ大将は旗艦を装甲艦レ・ディタリア号から装甲艦アフォンダトーレ号に変更したのは明らかな作戦上のミスで、大急ぎで陣形を組んでいたイタリア海軍の各艦艇に更なる混乱を招きました。結果、イタリア海軍は混乱した状況下のまま海戦に突入し、戦いはオーストリア海軍に有利に推移。また、テゲトホッフ提督がオーストリア艦隊の全艦を投入したのと比べて、ペルサーノ提督はイタリアの非装甲艦を戦闘に参加させませんでした。 イタリア装甲艦隊は、旗艦変更時の混乱で前衛3隻と旗艦以下6隻の間が大きく開き、分離。オーストリア艦隊は、イタリア艦隊の前衛3隻をやりすごし、後続6隻をさらに前後に分断して旗艦以下の3隻を装甲艦戦隊7隻で、後衛艦を非装甲艦戦隊14隻で各個に集中攻撃する作戦に出ました。 戦闘開始後、イタリア艦隊の旗艦と思われたレ・ディタリア号が集中砲火を受けて舵機を損傷し、操舵不能となった後、11時20分にオーストリア艦隊旗艦の装甲艦フェルディナント・マックス号による衝角攻撃を受けました。衝角により喫水線下に大きな破孔を生じたレ・ディタリア号は数分で横転して沈没。オーストリア装甲艦に取り囲まれた2隻のイタリア装甲艦パレストロ号、サン・マルティーノ号も激しい攻撃を受けました。特にパレストロ号は致命的な損傷を受けており、沈没を避けられないことを理解したカッペリーニ艦長は自責の念から艦艇と命運を共にすることを決め、これを知った乗組員らも退艦命令を固辞して艦長と艦に残留。14時30分、パレストロ号は火薬庫の誘爆で沈没してカッペリーニ艦長は戦死(乗組員230人中、19人生存)。 イタリア艦隊の後衛と交戦中のオーストリア非装甲艦戦隊は、フェルディナント・マックス号と同様に衝角攻撃を試み、非装甲艦戦隊の旗艦カイザー号がイタリア装甲艦レ・ディ・ポルトガロ号への衝撃に成功。しかし、装甲艦に対する木造艦の衝突は効果が少なく、レ・ディ・ポルトガロ号の装甲の一部が脱落大破しただけで逆にカイザー号は艦首を大破し、至近距離からレ・ディ・ポルトガロ号の砲撃を受けて多くの死傷者を生じました。戦闘は12時30頃に中断し、日没と共に両軍艦隊は引き上げました。 戦訓としては「非装甲艦は装甲艦に対抗できない」ことを示した戦いであったと言えるも、一方で「装甲艦に対するには衝角戦術が有効である」という認識が広まるきっかけにもなりました。大砲や砲術の進歩で衝角攻撃は成り立たなくなっていくも、それが常識的になるのは日清戦争(1894/7/25-1895/4/17)や日露戦争(1904/2/8-1905/9/5)の頃になってからでした。 指揮官の面ではオーストリア海軍のテゲトホッフ提督がその名声を確たるものにしました。テゲトホッフ提督のかつての上司でメキシコ皇帝マクシミリアンはこの戦勝を高く称賛しました。これに対し、イタリア海軍のペルサーノ提督はその無能さを示すことになりました。さらにペルサーノ提督は自身の死によって責任を取った部下のカッペリーニ艦長とは対照的に、帰国後の報告で勝利を捏造して賞賛を得ようとする愚挙に出るも、虚偽は程なく白日の下に晒され、ペルサーノ提督は敗北のみならず捏造の責任まで問われて退役に追い込まれました。
・ドン・ファン・ディオーストリア号 (SMS Don Juan d'Austria. 1862、同上同型艦)
・カイザー号、(SMS Kaiser, 1858, 5811t, 471人)、戦隊旗艦(squadron flag ship)艦首を大破 ・フリゲート艦(screw frigate)〜5隻 ・ノヴァラ号 (SMS Novara, 1850, 2615t, 550人) ・シュヴァルツェンベルク号 (Schwarzenberg, 1853, 2614t, 人) ・ラデッキー号 (Radetzky, 1854, 2234t, 372人) ・ドナウ号 (Donau,1856, 2165t、同上同型艦) ・アドリア号 (Adria, 1856, 2165t、同上同型艦) ・コルベット艦 ・エルツェルツォーク・フリードリヒ号 (Erzherzog Friedrich, 1857, 1697t) 墺:第3戦隊(3rd Division)、非装甲木造艦(Minor craft ships)〜12隻 ・砲艦 (gunboat)〜9隻 ・ナレンタ号 (Narenta, screw gunboat) ・ケルカ号 (Kerka、同上同型艦) ・ハム号 (Hum, 2nd class gunboat) ・ヴェレビッチ号 (Vellebich、同上同型艦) ・ダルマット号 (Dalmat、同上同型艦) ・シーハンド号 (Seehund, 2nd class gunboat) ・ウォル号 (Wal、同上同型艦) ・ストライター号 (Streiter、同上同型艦) ・レカ号 (Reka、同上同型艦) ・連絡艦アンドレアス・ホーファー号 (Andreas Hofer, screw tender) ・外輪艦カイセリン・エリザベス号 (Kaiserin Elizabeth, sidewheeler steamer (radaviso), 1854) ・非武装商船スタディオン号 (Stadion, merchant steamer. 偵察傭船)。
(Italian ironclad Re di Portogallo, 1863、同上同型艦)横転沈没 ・レジーナ・マリア・ピア号 (Italian ironclad Regina Maria Pia, 1863, 4201t, 485人)、舷側鉄板張艦 ・サン・マルティーノ号 (Italian ironclad San Martino, 1863、同上同型艦) ・カステルフィダルド号 (Italian ironclad Castelfidardo, 1863、同上同型艦) ・アンコーナ号 (Italian ironclad Ancona, 1864、同上同型艦) ・プリンシペ・ディ・カリニャーノ号、舷側鉄板張艦 (Italian ironclad Principe di Carignano, 3rd class armoured frigate, 1865, 3446t, 572人) ・フォルミダビレ号 (Italian ironclad Formidabile, 1861, 2682t, 371人)、舷側鉄板張艦 ・テリビレ号 (Italian ironclad Terribile, 1861、同上同型艦) ・コルベット艦〜2隻 ・パレストロ号、艦長カッペリーニ(Captain, Cappellini) (Palestro, 1865, 2165t, 230人, 沿岸防衛艦(coast defence)、舷側鉄板張艦:ironclad) ・ヴァレーゼ号 (Varese, 1865、同上同型艦) 伊:第2戦隊(2nd Division)〜10隻 非装甲蒸気式木造艦(Wooden steam warships) ・フリゲート艦〜7隻 ・マリア・アデレード号、戦隊旗艦 (Squadron Flag) (Maria Adelaide、サルジニア型スクリュー・フリゲート艦、Sardinian screw frigate, 1859, 3429t) ・ガエータ号 (Gaeta、ナポリ海軍型スクリュー・フリゲート艦 (Neapolitan screw frigate, 1861, 3917t) ・ドゥカ・ディ・ジェノバ号 (Duca di Genova、サルジニア型スクリュー・フリゲート艦、Sardinian screw frigate, 1860, 3459t) ・ガリバルディ号(Garibaldi) (ナポリタン型スクリュー・フリゲート艦、Neapolitan screw frigate Borbone, 1860, 3390t) ・プリンシペ・ウンベルト号(Principe Umberto、舷側鉄板張) (サルジニア型スクリュー・フリゲート艦、Sardinian screw frigate, 1861, 3446t, 572人) ・カルロ・アルベルト号(Carlo Alberto) (サルジニア型スクリュー・フリゲート艦、Sardinian screw frigate, 1853, 3231t) ・ヴィットリオ・エマヌエーレ号(Vittorio Emanuele) (サルジニア型スクリュー・フリゲート艦、Sardinian screw frigate, 1856, 3201t) ・コルベット艦〜3隻 ・サン・ジョバンニ号 (San Giovanni、サルジニア型スクリュー・コルベット艦 (Sardinian screw corvette, 1861, 1752t)
・砲艦ゴッテモロ号 (Gottemolo、同上同型艦) ・砲艦?号 (Unknown、同上同型艦) ・外輪艦エスプロレーター号 (Esploratore、sidewheel dispatch vessel, 1863, 981t) ・外輪艦メッサッジェロ号 (Messaggere, 1863、同上同型艦) ・非武装商船インディペンデンツァ号 (Indipendenza、merchantman) ・非武装商船ピエモンテ号 (Piemonte、merchantman) ・非武装商船フラビオ・ジオイア号 (Flavio Gioia、merchantman) ・非武装商船ステラ・ディタリア号 (Stella d'Italia、merchantman)。 ・参考HP:〜 ・アドリア海の場所地図 ・リッサ島の場所地図(イタリア統一運動の地図:Map of The Unification Italy 1815-1870) ・アドリア海の地図 (拡大有 ”Vis=Lissa”)
ウィーン会議でフランス首相シャルル=モーリス・ド・タレーラン(Charles Maurice de Talleyrand-Perigord, 1754-1838)の主張した正統主義を基に、フランス革命とナポレオン戦争で荒廃・混乱したヨーロッパを、それ以前の状態に復活させることで大国の勢力均衡を図りました。キリスト教の理念に基づく神聖同盟(Holy Alliance, 1815/9/26結成:ロシア・オーストリア・プロイセン)やフランスを牽制する四国同盟など、従来の君主制に立脚する列強を中心に自由主義・国民主義運動を抑圧しました。一方で、その基本理念はヨーロッパの協調で、国家間の諸問題の解決に外交努力を惜しまず、歴史的にみても比較的長期(見方によっては第一次世界大戦(1914-1918)まで)の安定をヨーロッパにもたらしました。 しかし、産業革命による市民生活の発展や大国間の利害関係の複雑化、あるいは1830年前後のギリシア独立戦争(1821-1829)やフランス7月革命などの動揺などから次第に枠組みが揺らぎ始め、1848年革命の波及で大国の被支配地域を中心にナショナリズムが先鋭化すると自由主義・国民主義を抑圧する機能が維持できなくなりました。そして体制を支えていた同盟国同士が自国の利益のみを追求するようになると列強間の平和維持の役割も果たせなくなったため、英露対立やフランス第二帝政の成立などを背景とするクリミア戦争を回避することができず、最終的に体制は崩壊しました。 ・四国同盟 (Quadruple Alliance, 1815) 四国同盟は1815/11/20にパリで列強の王国の ・大英帝国(United Kingdom) ・オーストリア帝国(Austrian Empire、1804-1867) ・プロイセン王国(Kingdom of Prussia、1701-1918) ・ロシア帝国(Russian Empire、1721-1917) 間で締結された条約。1818年の秋(9/30-11/30)にドイツで開催された第3次アーヘン会議で、王政復古を果たしたフランス(Bourbon Restoration France、1815-1830、代表リシュリュー公)が加入を認められて五国同盟(Quintuple Alliance)となるも、、1822年のスペイン革命で崩壊。 ・参考HP:〜 ・五国同盟の地図
・スパイス (香辛料) ・ヌビア遺跡 (エジプト)世界遺産 ・パルテノン神殿 (ギリシャ)世界遺産 ・法隆寺 (日本)世界遺産 をお楽しみください。 上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和2年 R.2/1/20 (2020) |