★オーストリア 極地探検(Arctic Expedition)
カール・ワイプレヒト船長
1873、フランツァ・ヨシファ・ランド発見
1879、国際極地年を提唱

大航海物語★
MOZAMBIQUE
国際極地年の功労者
南極協力の創始者   南極の地図


ノ|メイヤ
耐寒装備のワイプレヒト船長
モザンビーグ 2009 発行
REPUBLIK OSTERRICH
テゲトホッフ号北極探検隊の絵画
”氷に閉じ込められたテゲトホッフ号”

"Tegetthoff off Franz Josef Land"
by Julius Ritter von Payer


ユリウス・リッター・フォン・パイアー作
フランツァ・ヨシファ・ランド発見100年記念

オーストリア 1973/8/30 発行
北極の地図

スウェーデン 1989/8/22 発行小型シートより

MAGYARORSZAG
テゲトホッフ号北極探検隊の航海地図
スカンジナビア       フランツァ・ヨシファ・ランド

テゲトホッフ号北極探検隊の航海地図
ハンガリー1994/4/1発行(拡大)
ゼーヴァルナヤ・ゼムリャー
ノーヴァヤ・ゼムリャー ロシア

MONACO
モナコ公国アルバート王子の北極探検

モナコ 2006 発行

ドイツの生まれのワイプレヒト船長はオーストリア・ハンガリー帝国海軍士官となり、リッサの海戦などに従軍しました。パイヤー隊長と出会い、オーストリア・ハンガリー帝国の北極探検隊をテゲトホッフ号の船長として率いて、北極海で乗船が氷で閉じ込められるという不運に遭遇するも、フランツァ・ヨシファ・ランドを発見して母国に凱旋帰国しました。そして極地探検の国際協調の擁護者となり、最初の国際極地年を提唱しました。
カール・ワイプレヒト船長
  Captain Karl Weyprecht
 (1838/9/8〜1881/9/8)
   オーストリア・ハンガリー帝国海軍士官
   北極探検家
   生地:ドイツ連邦共和国ヘッセン州オーデンヴァルト郡バート・ケーニヒ市生
   没地:ドイツ連邦ヘッセン州オーデンヴァルト郡ミヒェルシュタット市、43才没
ワイプレヒト船長はドイツのバート・ケーニヒ(Bad Konig、現:ダルムシュタット:Darmstadt)に生まれ、オーストリア・ハンガリー帝国海軍士官(Captain Lieutenant)となり、北極探検家になりました。極地探検の国際協調の擁護者で、1879年にジョージ・フォン・ノーメイヤー博士と共に最初の国際極地年(organisation of the first International Polar Year 1882-1883)を提唱、没後の1882年に創始されました。

ワイプレヒト船長は1856年に18才でオーストリア・ハンガリー帝国海軍(Kriegsmarine)士官学校に入隊。オーストリア・サルディニア戦争(Austro-Sardinian War 1860-1862)に従軍して、テゲトホッフ提督(Admiral Tegetthoff)の指揮下のフリゲート艦ラデッキー号(frigate Radetzky)に乗り組み、1863〜1865年の間は教育士官として練習艦ハッサー号(Hussar)に乗り組みました。

1865/7/23にドイツの地理学者オーガスト・ペテルマンの推薦で、フランクフルト(Frankfurt)の地理学協会(Geographic Society)会員になり、1866/7/26にリッサの海戦に従軍し、コルベット艦ドラッチェ号(battleship Drache)に乗り組。1870年にユリウス・フォン・パイヤー隊長と出会いました。

1871年にオーストリア・ハンガリー北極探検隊(Austro-Hungarian expedition)を率いて、パイヤーと北極探検の予備調査として、ノーヴァヤ・ゼムリャー諸島へ探検航海。そして、1872/2/18にワイプレヒト船長はオーストリア・ハンガリー帝国の市民権を取得しました。

1872〜1874年の間はパイアー隊長とオーストリア・ハンガリー帝国北極探検隊テゲトホッフ号(220屯)に船長として参加して、1873/8/30に北極海にてフランツァ・ヨシファ・ランドを発見しました。テゲトホッフ号が流氷(pack ice)に閉じ込められて崩壊した時には、船を放棄してソリ(sledges)で北へと移動し、開けた海に出るとボートでノーヴァヤ・ゼムリャー島のブラック・ケープ(Black Cape of Novaya Zemlya)に到着。そこで一行はフェドール・ヴェローニン船長(Captain Feodor Veronin)のロシア船ニコライ号(Russian schooner, "Nikolaj")に出会って、ノルウェーのヴァードー(Vardo, Norway)に入港。その港で南へ行く郵便船に便乗して、ドイツのブレーメン港に到着。ブレーメンから列車でオーストリアのウィーン(Vienna)に帰国しました。

1875/9/18にオーストリアの人口第2の都市グラーツ(Graz)からドイツの第48回医学科学者総会(Scientists & Physicians)へ論文「北極の基礎調査」(basic principles of Arctic research)を送りました。1879年に気象学(Meteorology)のゲオルグ・フォン・ノーマイアー(Georg Balthazar von Neumayer 1826-1909)とローマで開催の第2回国際気象学総会(International Congress of Meteorologists)に、北極に「継続的な天候と氷状の観測基地」の創設を提案しました。

ワイプレヒト船長はドイツのミヒェルシュタット (Michelstadt)にて43才で結核の病状が悪化して亡くなりました。

参考HP:〜
ホーヤの場所地図(北海に注ぐヴェーザー川有)
ヴェーザー川の場所地図(ホーヤは”Bremen”と”Minden”の中間付近)

上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       13/5/12、2017/2/25

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