切手で綴る 太平洋戦争 物語
第4部 <帝国の敗戦>
第23章 ソヴィエト軍の侵入
110 <日ソ不可侵条約の締結>
1941/4/13

ソ連赤軍兵士と「カマとツチ」のソ連国旗

マーシャル諸島 1994 発行

日ソ不可侵条約の締結
  別名:日ソ中立条約〜1941/4/13〜モスクワで調印
      (Soviet-Japanese Neutrality Pact)
     ・条約破棄の通告〜1945/4/5
       ソ連が翌年期限切れとなる同条約を破棄すると帝国に通達
昭和7年の満州国建国後、満ソ国境紛争が次第に頻発するようになり日ソ関係は険悪化した。しかし昭和14年(1939年)9月 第二次欧州大戦(第二次世界大戦)が勃発したあとは、新たな世界情勢に対応する日ソの思惑が一致した結果、昭和16年4月13日「日ソ中立条約」が成立、日ソ関係は平穏に推移。昭和16年6月22日、独ソ戦勃発に伴い、日本は対ソ戦に備えて関東軍増強のための動員「関特演」を行ったが、独ソ戦進展の判断と南部仏印進駐に伴うアメリカの対日全面禁輸によって、8月9日 年内武力行使企図を中止、「北進」を断念。この「南進」か「北進」か、あるいは「南北両準備案」を巡って海軍は対ソ戦に絶対反対、陸軍省側は独ソ戦を楽観しておらず、熟柿の落ちるのを拾うような対ソ慎重姿勢、いわゆる熟柿主義を主張。渋柿でも叩き落そうという参謀本部側の強硬な主張とは隔たりがありました。世界の主要国が枢軸、連合の両陣営に分かれて戦う世界大戦の中で、ソ連は独ソ戦に全力を傾注する一方、日本とソ連の間だけが中立関係を維持するという奇妙な状態が続いていました。

その後昭和20年に入り、関東軍の対ソ作戦任務は、「満州の広域を利用して侵攻する敵野戦軍を撃破するとともに南満及び朝鮮の要域を確保して持久を策し、帝国全般の作戦を有利ならしむ」という思想に大きく後退しました。

昭和20年8月8日、ソ連はヤルタ協定の秘密協定でモスクワでモロトフ外相が佐藤駐ソ大使に宣戦布告文書を渡し、同時に満州国々境各方面からソ連軍が侵入、越境攻撃してきました。

参考HP〜
日ソ北東部国境の地図(1905年、帝国北部とソ連の国境地図)    16/5/30








111 <ヤルタ会談>
1945/2/11
ヤルタ秘密協定

ヤルタ会談
Yalta Conference Bigins 1945
チャーチル、ルーズベルト、スターリン
三巨頭会談

マーシャル諸島 1995 発行
ヤルタ会談(3ヵ国)

ドミニカ 1999/12/31 発行


ヤルタ会談
 (Yalta Conference)、1945/2/4〜2/11
 場所:ソ連クリミア自治ソビエト社会主義共和国のヤルタ近郊
  (クリミア半島ヤルタの場所地図)
独ソ戦線は、1943(昭和18年)8月のソ連の反攻により完全に攻守ところを変え、ソ連は全戦線を挙げて総追撃に移行、帝国のソ連屈服・北進は全く望み得ない状況となりました。スターリンはハル米国務長官に対し、ドイツ降伏後ソ連は日本との戦争に参加すると初めて明確に通告、続く11月28日のテヘラン会談の冒頭、ドイツ降伏後の対日参戦を公式に表明。昭和20年2月11日ヤルタで行われた米英ソ三国間の秘密協定により、ソ連は政治的要求の代償にドイツ降伏2〜3ヶ月後の対日参戦を約束、ソ連軍参謀本部は対日作戦・戦略計画作成に着手。死期の近づいたルーズベルトはソ連を対日戦に引き込むために安易にスターリンの要求を呑んだとされています。

・米英ソ首脳がヤルタで会談:〜(ヤルタ秘密協)昭和20年2月11日
ヤルタ秘密協定「ドイツ降伏後3ヶ月以内対日参戦」 三大国即ち「ソビエト」連邦、アメリカ合衆国及英国の指導者はドイツ国が降伏し且ヨーロッパに於ける戦争が終結したる後二月又は三月を経てソビエト連邦が左の条件に依り連合国に与して日本国に対する戦争に参加すべきことを協定せり。

(一)外蒙古(蒙古人民共和国)の現状は維持せらるべし
(二)千九百四年の日本国の背信的攻撃に依り侵害せられたるロシア国の旧権利は
   左の如く回復せらるべし
(甲)樺太の南部及之に隣接する一切の島嶼はソビエト連邦に返還せらるべし
(乙)大連商港に於けるソビエト連邦の優先的利益は之を擁護し該港は国際化せらるべく
   又ソビエト社会主義共和国連邦の海軍基地としての旅順口の租借権は回復せらるべし
(丙)東清鉄道及大連に出口を供与する南満州鉄道は中ソ合弁会社の設立に依り共同に運
   営せらるべし但しソビエト連邦の優先的利益は保障せられ又中華民国は満洲に於ける
   完全なる主権を保有するものとす
(三)千島列島はソビエト連邦に引渡さるべし
   前記の外蒙古竝に港湾及鉄道に関する協定は蒋介石総帥の同意を要するものとす
   大統領はスターリン元帥よりの通知に依り右同意を得る為措置を執るものとす。
三大国の首班はソビエト連邦の右要求が日本国の敗北したる後に於て確実に満足せしめらるべきことを協定せり ソビエト連邦は中華民国を日本国の覊絆より解放する目的を以て自己の軍隊に依り之に援助を与うる為ソビエト社会主義共和国連邦中華民国間友好同盟条約を中華民国国民政府と締結する用意あることを表明す。
(署名:J・スターリン、フランクリン・D・ルーズベルト、ウィンストン・S・チャーチル)。

昭和20年5月2日、首都ベルリンは陥落、同盟国ドイツ降伏。これにより単独不講和の義務も消滅し、帝国政府は対米英和平実現の有効な手段としてソ連仲介に最後の希望を託し7月13日に近衛元首相を特使として派遣する旨をソ連に申し入れますが、ソ連はこれに対し拒否も応諾もせず回答を引き延ばしました。一方ソ連の対日攻撃開始時機は、8月20日〜25日と予定されていましたが、直前になって8月9日に繰り上げられました。帝国の急激な戦力低下、米による原爆投下ポツダム宣言などにより帝国が降伏する前に参戦することでヤルタ協定に規定した政治的要求の実現を図ったといわれています。

※参考:〜
ソ連の対日宣戦布告:〜
布告はモスクワ時間1945(昭和20)年8月8日午後5時(帝国時間:午後11時)、ソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣から帝国の佐藤尚武駐ソ連大使に知らされました。事態を知った佐藤大使は、東京の政府へ連絡しようとして、モロトフ外相から暗号を使用して東京へ連絡する事を許可されました。佐藤大使はモスクワ中央電信局から日本の外務省本省に電報しょうとするも、モスクワ中央電信局は受理したにもかかわらず、帝国電信局に送信しませんでした。

参考HP〜
ヤルタの場所地図(日本語)








112 <ソヴィエト赤軍、侵入開始>
1945/8/8
ソ満国境を越えて侵入


ソ連赤軍はT型戦車を先頭に
空から陸からソ満国境を突破

ソ連赤軍ミグ戦闘機

ギニアビサウ 2005 発行
ソ連赤軍T型戦車

マーシャル諸島 1991 発行

ソヴィエト赤軍、侵入開始
  (Soviet-Japanese War)、1945/8/9-9/5、満州へ越境侵入
  別名:ソ連対日参戦
  場所:満州国との国境を突破
モスクワ時間1945/8/8午後5時(帝国時間午後11時)、佐藤駐ソ大使はモロトフ外相に呼ばれて近衛特使派遣問題への回答ではなく、宣戦布告文書を受け取りました。外相は帝国政府への連絡は自由であると述べましたが、佐藤大使からの報告電は東京には届きませんでした。ソ連は帝国への宣戦布告と同時にポツダム宣言に参加。ほぼ同時に満州国国境各方面からソ連軍が侵入して来ました。待ちうけるのは、泣く子も黙る関東軍の筈ですが、南方戦線に転用されて「張子の虎」状態でした。日ソ中立条約違反であること、和平仲介を依頼していたことの両面から、敗色濃厚な日本へのトドメとなりました。日本時間では真夜中でしたので、政府がソ連の宣戦布告を知ったのは、サンフランシスコ放送を傍受した同盟通信からでした。

※帝国軍は南方戦線へと兵力を送り出して、いわゆる「泣く子も黙る関東軍」はすでに無く「張子の虎」となっており、数十万の開拓居留民を置き去りにして敗走したといわれていますが、下記兵力にて下記のような戦闘はありました。

両軍の兵力:〜
・帝国関東軍:〜
 ・師団24、戦車旅団2、独立混成旅団9、国境守備隊1などを基幹とする
 ・兵員約75万、火砲約1,000門、戦車約200両、飛行機200機程度。
見かけ上は75万の大軍で「関特演」時と同勢力でしたが、部隊単位数はあっても装備は極めて貧弱、訓練も半数はゼロという兵団が多かったのです。特に根こそぎ動員による新設兵団(師団8、混成旅団7、戦車旅団1)は、対ソ開戦直前に編成が概了したばかりで、兵員の多くは部隊に到着途中の状態で外形のみの存在に等しく、戦力は物心両面ともに極めて低位でした。たとえば第44軍の第63、第117師団の火砲は、両師団併せて山砲18門のみ。第128師団は定員23000人が実在14000人。第1方面軍隷下部隊の速射砲は皆無に近く重機関銃は定数の二分の一という状態で、銃剣は約10万本不足、野砲は400門不足。加えて関東軍による作戦準備の大部分は未着手の有様で、「なんらの誇張もない案山子的存在」という状況でした。

・極東ソ連軍:〜
 ・狙撃師団70、機械化師団2、騎兵師団6、戦車師団2、戦車旅団40などを基幹とする
 ・兵員約174万、火砲約30,000門、戦車5,300両、飛行機5,200機。
独ソ戦開戦時にソ連に進攻したドイツ軍よりも兵力は少ないものの戦車・飛行機など質・量ともにはるかに上回る大兵力でした。その上欧州戦線で経験を積み装備も充実しており、関東軍との戦力差は表面上の数字の何倍にも相当すると言われています。一説によると、ソ連軍の総兵力は150万以上で、満州、樺太、千島へと乱入したと伝えられています。

<両軍の兵力と損害>
○帝国の兵力
・帝国軍〜約70万人
※装備は不十分
○極東ソ連軍の兵力
・ソ連軍〜1,577,725人
・モンゴル〜16,000人
※欧州戦線終結で装備は充実
○帝国軍の損害
・死傷〜7,483人
・捕虜〜594,000人
○連合軍の損害
・戦死〜9,726人
・戦傷〜24,425人
※数字には諸説有

▽両軍の編成:〜
○帝国軍の編成:〜約70万人
・関東軍:総司令官 山田乙三大将(14期)
   ・兵員約70万(詳細な個別師団・部隊の兵員数は不明)
   ・火砲約1,000門(歩兵砲・山砲などすべてを含む)
   ・戦車約200両
   ・航空機約350機(うち戦闘機65機、練習機など含)
 ・第一方面軍:司令官 喜多誠一大将(19期)
  ・第3軍
  ・第5軍
  ・直轄部隊
 ・第三方面軍:司令官 後宮淳大将(17期)
  ・第30軍
  ・第44軍
  ・直轄部隊
  ・第4軍
  ・第34軍
 ・関東軍航空部隊
  ・戦闘飛行部隊
  ・教育飛行部隊(独立第101教育飛行団)
  ・陸軍士官学校満州派遣隊
 ・第五方面軍 樋口季一郎中将
  ・南樺太
   ・第88師団:司令官 峯木十一郎中将
  ・千島列島
   ・第91師団:司令官 堤不夾貴中将
これ以外に、内蒙古では駐蒙軍がソ連・モンゴル連合軍から張家口の防衛を続け、在留邦人の後送が完了した8月21日には占領されて内蒙古から放逐。

○ソビエト軍の編成:〜1,577,725人
極東ソビエト軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキーソ連邦元帥
モンゴル人民革命軍総司令官ホルローギーン・チョイバルサン元帥
 ・総兵力:〜
   ・兵員1,577,725人
   ・火砲26,137門(迫撃砲含)
   ・戦車・自走砲5,556両
   ・航空機3,446機を装備(除く海軍)
 ・第1極東戦線:司令官キリル・メレツコフソ連邦元帥
  ・第1赤旗軍:司令官アファナシー・ベロボロドフ大将
  ・第5軍:司令官ニコライ・クルイロフ大将
  ・第25軍:司令官イワン・チスチャコフ大将
  ・第35軍
  ・第10機械化軍団
  ・第9航空軍
 ・第2極東戦線:司令官マクシム・プルカエフ上級大将 第2赤旗軍
  ・第15軍
  ・第16軍:司令官レオンチー・チェレミソフ少将
  ・第10航空軍
  ・第5独立狙撃軍団
  ・カムチャッカ防衛地区:司令官アレクセイ・グネチコ少将
 ・ザバイカル戦線:司令官ロディオン・マリノフスキーソ連邦元帥
  ・第17軍
  ・第36軍:司令官アレクサンドル・ルチンスキー
  ・第39軍
  ・第53軍
  ・第6親衛戦車軍:司令官アンドレイ・クラフチェンコ大将
  ・第12航空軍
  ・騎兵・機械化群:司令官イッサ・プリーエフ、ソビエト・モンゴル合同部隊
 ・太平洋艦隊:司令官イワン・ユマシェフ大将
   ・兵員11万人
   ・航空機1,549機
  ・巡洋艦2隻
  ・響導艦1隻
  ・駆逐艦・掃海艇12隻
  ・潜水艦78隻。
 ・アムール小艦隊:司令官ニコライ・アントノフ少将。

・満州の対ソ戦:〜
モスクワ時間昭和年8月8日17:00(日本時間23:00)、モロトフ外相は佐藤駐ソ大使に宣戦を通告、帝国政府への連絡は自由であると述べましたが、佐藤大使からの報告電は東京には届きませんでした。8月9日00:00から事実上完全無警告の奇襲攻撃が、中立条約締結国である「大日本帝国」に向かって開始されました。

8月9日01:00第5軍司令部からの緊急電話によってソ連軍の攻撃開始の報告を受けた関東軍総司令部は各方面からの情報を総合して、ソ連が全面攻撃を開始したことが明らかになりました。そして午前6時頃までに「作戦計画に基づき侵入し来る敵を撃破」の命令を下達。一方大本営は、モスクワ放送傍受と関東軍の報告を受けソ連の宣戦を知り、「全面的対ソ作戦の発動準備」を命令。そのころ政府・統帥部はポツダム宣言受諾問題に忙殺されており、ソ連参戦の対応までは手が廻らない状況でした。とはいえ全面攻撃を行っているソ連に対し、停戦までは防衛作戦を行わねばならず、大本営は8月10日付「対ソ全面作戦の開始」の大陸命を下達。これにより関東軍の任務は「皇土朝鮮の保衛」〜実質的な満州放棄に後退。なお、かねての計画に従って関東軍総司令部は新京から満鮮国境付近の通化に移動、満州国皇帝溥儀以下も大栗子に遷都しました。

・ソ連軍侵入開始:〜
当時満州の在留邦人は約155万人でした。そのうち約27万の開拓団関係者の多くは辺境地区に、その他一般邦人は都市部に在住。関東軍が持久守勢に転移して以来、居留民対策は幾度となく問題になったものの決定的措置がとられないうちにソ連参戦に直面することとなりました。これは、「来たらざるを頼む」という希望的心理(これは戦術的・戦略的にも大きく影響を与えた)と、極めて多数に及ぶ在外居留民が直接戦乱の渦中に入る体験を持たなかったこと、防衛企図を秘匿せんとする思想、などが大きな原因と言われています。それでも9日には在留邦人の後送に着手し一般邦人を先に送り出そうとしましたが、既に生活拠点を有する民間人は直ちに乗車などできない状況にあり、満州は内地よりも安全と考えられていたことも手伝って遅々として進みませんでした。一刻の猶予もない状況下ではやむを得ず、緊急集合が容易な軍人・軍属の家族を主体に一番列車に乗せ、10日01:40には新京駅を出発。だがこのことは後に、関東軍は軍人家族を最初に後退させたとして非難されることとなりました。
※当時満州国の首都新京だけでも約14万人の日本人市民が居留するも、8月11日未明から正午までに18本の列車が新京を後にして38,000人(軍人関係家族20,310人 大使館関係家族750人 満鉄関係家族16,700人、民間人家族240人)が脱出。

・居留民後退の問題:〜
第1方面軍(喜多誠一大将)が防衛する東部正面に対して、ソ連第1極東方面軍と第2極東方面軍主力が進攻。牡丹江以北約600キロに第5軍(清水規矩中将)、南部に第3軍(村上啓作中将)を配置、帝国軍10個師団、独立混成旅団、国境守備隊、機動旅団各1個に対し、ソ連軍は35個師団、17個戦車・機械化旅団基幹。東部正面最大都市、牡丹江にソ連軍主力が向かうものと判断した清水司令官は、第124師団、その後方に第126、第135師団を配置、全力を集中してソ連軍侵攻を阻止するよう処置。穆稜を守備する第124師団(椎名正健中将)の一部は12日に突破されましたが、後続のソ連軍部隊と激戦を続け、肉薄攻撃などの必死の攻撃を展開、第126、第135師団主力とともに15日夕までソ連軍の侵攻を阻止し、この間に牡丹江在留邦人約6万人の後退を完了。牡丹江東側陣地の防御が限界に達した第5軍は、17日までに60キロ西方に後退、そこで停戦命令を受領。

・南部の第3軍の戦闘:〜
南部の第3軍は、一部の国境配置部隊のほか主力は後方配置。一方この正面に進攻したソ連軍第25軍は、北鮮の港湾と満州との連絡遮断を目的としていました。羅子溝の第128師団(水原義重中将)、琿春の第112師団(中村次喜蔵中将)は其々予定の陣地で激戦を展開、多数の死傷者を出しながら停戦までソ連軍大兵力を阻止。広い地域に分散孤立した状態で攻撃を受けた第3軍はよく決死敢闘したが停戦時の17日にはソ連軍が第2線陣地に迫り、12日から13日にかけて、ソ連軍は海路から北鮮の雄基と羅南に上陸。帝国軍は総反撃して上陸したソ連軍を分断、水際まで追い詰めたが15日には新たにソ連第13海兵旅団が上陸、北方から狙撃師団が接近したので決戦を断念、防御に転じた時に停戦命令を受領。

・東部方面-第1方面軍(喜多誠一大将)の戦闘:〜
昭和13年春に概成した虎頭陣地は正面8キロ縦深6キロにわたり1トン爆弾にも耐えうるように3mのコンクリートで固められた周囲の丘陵地帯を連携した地下要塞で、関東軍の誇る国境要塞中1,2をあらそう堅塁でした。本来なら歩兵12個中隊、砲兵14個中隊で守備すべき陣地に、歩兵4個中隊、砲兵2個中隊の1,400人が守備、兵力が抽出された後でも、40センチ榴弾砲1、30・24センチ榴弾砲各2、15センチ加農砲6ほか多数を有していました。かつてあった15個の国境守備隊の中で残された唯一の部隊であり、兵の素質は良好。守備隊長西脇大佐は出張中で砲兵隊長大木正大尉が代理として全軍の指揮を執りました。しかし砲兵兵力が不足で、陸軍最大口径を誇った40榴は当初から放棄、30榴は11日、24榴は15日ソ連軍の砲爆撃で射撃不能に陥り、15加も22日までに5門喪失。完全包囲下の中で守備隊は主として夜間斬り込み、肉薄攻撃を反復敢行、8月26日に至り避難民を含めほとんど全員が壮烈なる戦死。陣地にあった約1,900人(含居留民)中、内地に帰還し得た者わずかに53人でした。

・虎頭陣地の戦闘:〜
東寧も関東軍の対ソ作戦の基点として広く知られていました。その中核たる元第1国境守備隊陣地で、勝鬨陣地を守備したのは独立歩兵第783大隊、東寧重砲兵聯隊第1中隊を基幹とする900人であった。守備隊長斎藤俊治大尉は、24センチ榴弾砲2門を中心に歩砲協力による抵抗を続行。ソ連軍の激しい砲爆撃と地上攻撃に耐え、15日の玉音放送は謀略なりとして依然として抗戦を継続。ソ連軍側の要請で第3軍参謀河野中佐が陣地に入って停戦命令を伝え停戦に至ったのは26日でした。

・北部・北西正面を担任した第4軍(上村幹男中将)の戦闘:〜
北部・北西正面を担任したのは第4軍(上村幹男中将)である。第123師団(北沢貞次郎中将)、独混第135旅団(浜田十之助少将)の守備する北部正面には、第2極東方面軍の第2赤衛軍が11日から攻撃を開始。黒龍江岸に配置した監視・警備の遠隔地の部隊は原隊に復帰できず、開拓団など在留邦人を含めた困難な後退の間に多くの犠牲を生じました。ソ連軍は猛攻を加えつつ我が主陣地を迂回南下する作戦をとりましたが、我が守備隊は主要陣地を確保し戦力を温存したまま停戦。第119師団(塩沢清宣中将)とその前方に位置する独混第80旅団(野村登亀江少将)の守備するハイラル北西には、進攻ソ連軍中最強のザバイカル方面軍の最北兵団・第36軍が進攻。9日早朝急襲を受けたこの正面の国境監視哨等は玉砕したものが多く、国境方面の在留邦人も避難の時間なく相当の犠牲者を生じました。ハイラル守備部隊は、圧倒的なソ連軍の完全包囲下に陣地の大部分を確保して健闘し、18日に停戦するまで敵第36軍の大勢力を凌ぎましだ。第119師団は停戦するまでソ連軍の突破を阻止し、その結果邦人主力のハイラル在住者はソ連軍に後方を遮断される前に後退することができました。

・西部第3方面軍(後宮淳大将)の戦闘:〜
第3方面軍(後宮淳大将)が防衛する西部正面及び中・南満州に対して、ザバイカル方面軍が進攻。日本軍9個師団、3個独混旅団、2個独立戦車旅団基幹に対し、ソ連軍は狙撃28個、騎兵5個、戦車2個、自動車化2個各師団、戦車、機械化旅団等18個という大兵力でした。ソ連進攻当時国境線に布陣していたのは第107師団で、ソ連第39軍の猛攻を一手に引き受けることとなりました。師団主力が迎撃態勢をとっていた最中、第44軍から、新京付近に後退せよとの命令を受け、12日から撤退を開始するも既に退路は遮断されていました。ソ連軍に包囲された第107師団は北部の山岳地帯で持久戦闘を展開、終戦を知ることもなく包囲下で健闘を続け、8月25日からは南下した第221狙撃師団と遭遇、このソ連軍を撃退。関東軍参謀2名の命令により停戦したのは29日のことでした。関東軍内で師団主力をもって戦った最後の戦いで、ソ連軍に一矢報いた最後の戦闘でもありました。一方、方面軍主力は最初から国境のはるか後方にあり、開戦後は新京〜奉天地区に兵力を集中しこの方面でソ連軍を迎撃する準備をしていたため、本格的な交戦は行われませんでした。逆にソ連軍から見ると帝国軍の抵抗を受けることなく順調に前進できたわけです。ソ連軍の機甲部隊に対して第2航空軍(原田宇一郎中将)がひとり立ち向かい12日からは連日攻撃。攻撃機の中には全弾打ち尽くした後、敵戦車群に体当たり攻撃を行ったものは相当数に上りました。

・北支方面軍隷下の戦闘:〜
内蒙古に侵入したソ連機械化騎兵旅団に対し、駐満軍(根本博中将のち北支方面軍司令官兼任)は、張家口に終結しつつあった邦人約3万人の引き揚げを8月20日から開始することにしていました。同日、張家口陣地に接近したソ連軍に、引き揚げ終了まで猶予を願ったが聞き入れられず、守備する独立混成第2旅団は、根本司令官の意図を体し、邦人引き揚げを援護するため抗戦を続行。この戦闘で同旅団は約70人の犠牲者を出すも4万人近い邦人は全員無事に引き揚げを完了。

ソ連は終戦翌日の8月16日、捕虜のソ連領移送は行わないと指示しておきながら、8月23日、帝国軍捕虜60万人のシベリア移送計画の極秘指令を発し、最長11年余にもわたる長期間、劣悪な環境下に抑留、労役させ、約6万人の死者を出しました。

参考HP:〜
満州国付近の地図

参考:〜
ソ連赤軍:ミグ戦闘機(Mig-3)の装備:〜初飛行:1940/10月
  (Mikoyan-Gurevich MiG-3、ソ連軍の戦闘機)、運用開始:1940/11/20
開発者 ミコヤン・グレヴィッチ設計局 ソ連赤軍:ミグ戦闘機
全 長 8.25m
翼 幅 10.2m
全 高 3.30m
空虚重量 2,699kg
運用時重量 3,355kg
最大速度 640km/h (高度7,800m)
実用上昇限度 12,000m
上昇率 8,000m まで12分
航続距離 820km
乗 員 1人
生産数 約3,000機
武 装 12.7mmUBS機関銃×1、7.62mmShKAS 機関銃×2
爆 装 100kg 爆弾×2、又は 82mmRS-82 ロケット弾×6
※その他に多くの改良型が有。

こちらで
ソ連赤軍、南カラフトへ侵入
帝国の無条件降伏
をお楽しみください。

・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。     2016/6/10

開 戦
スタンプ・メイツ
Copyright(C):Spice
無断転載禁止