Spain

国連 1988 発行
切手で綴る スペインの大航海 (Conquist Voyage)アステカ帝国征服(IV-9
ロドリゲス・カブリロ船長
1542
サンディエゴを発見・命名

大航海物語
 スペイン編

USA
カブリロとサンディエゴ湾

乗船サンサルバドル号
アメリカ 1992/9/28 発行

PORTUGAL
ポルトガル人の航海者カブリロ

ポルトガル 1990-94 発行
ESPANA
北アメリカ西岸・カリフォルニア海岸


Costa Septentrional de Calfornia
スペイン 1967/10/12 発行

ESPANA Mozambique
ガレオン船

(Galeon)
オール付帆船

ジーベック船(Jabeque)
カラベル船
スペイン 1964/7/16 発行 モザンビーグ 1963/12/1 発行

1542年にポルトガル人のカブリロ船長がスペイン船で、北アメリカのカルフォルニア西海岸を探検した最初のヨーロッパ人で、サンディエゴ湾ロマ岬に到着、上陸。ヨーロッパ人として初めてサンディエゴに足を踏み入れたとされています。カブリロ船長はこの地を「サン・ミゲル」と名づけました。

ファン・ロドリゲス・カブリロ船長
 (Captain Juan Rodriguez Cabrillo、1499頃〜1543/1/3)
 
航海探検家(Maritime Explorer)
カブリロ船長はポルトガル人だとの説があるも、スペイン・アンダルシア州セビリアで貧しい両親のもとに生れたとの説もあります。幼い頃のことは定かではありませんが、若い頃に一攫千金を夢見て新大陸へと渡り、キューバ島のハバナへ上陸しました。そしてエルナン・コルテスの軍隊に入り、メキシコへ行きました。その後、ガテマラで現地人の土地を借り上げ、彼らを奴隷にして金鉱を採掘させるという経営手腕を発揮、メキシコでも有数の富裕なコンキスタドール(Conquistador:征服者)になりました。

コルテスの下でフランシコ・ド・ウロア(Francisco de Ulloa, 1540頃没)が1539年の航海でカリフォルニア湾を発見しました。それに引き続いて、新大陸ヌエバ・エスパーニャ(英:ニュー・スペイン)の初代メンドーザ副王(Viceroy of New Spain)の命で、金鉱採掘で得た利益で3隻の持ち船を持っていたカブリロ船長が、未だ未発見の中国に達する北西航路の発見、そして伝説のアニアン海峡を通過してハドソン湾に達するために、太平洋海岸探検航海の遠征隊々長に任命されました。

1540年にペドロ・土・アルバラードの船団がエルサルバドルアカジュトラ(Acajutla, El Salvador)を出帆、クリスマスの日にメキシコのナビダード(Navidad, Mexico)に到着。メキシコに滞在中、アルバラードは敵対的な現地人に攻撃されているサカテカス州ノチストゥラン・デ・メヒア(Nochistlan de Mejia, Zacatecas, Mexico)を守ろうとするも、落馬して胸を打って亡くなりました。アルバラードの没後、副王はその艦隊を取りあげて、その一部をルイ・ロペス・デ・ビリャロボスのためにフィリピンへと送り、2隻はカブリロ船長の指揮のもと、北方へ向かうことになりました。

1542/6/27、カブリロ船長の小さなスペイン船団
・サン・サルバドル号
  (Flagship San Salvador, 200t, 3本マスト、喫水3m、長さ30m)旗艦ガレオン船
・サン・ミゲル号(San Miguel, Lateen-rigged, 26oars)
   小型船ラテンセイル(三角帆)オール付ブリガンティン船、ジーベック船(Xebec)類似
・ラ・ビクトリア号
  (La Victoria, 100t)の3隻はメキシコのナビダード(Navidad、現アカプルコ)を出帆し、伝説の「金の都」や新しい植民地の好適地を探して北上しました。同年9/28に現サンディエゴ湾(San Diego Bay)に上陸、サン・ミゲル(San Miguel)と名づけ、バハ半島(Boja peninsula)を探検。さらに海岸沿いに北上して、サンタ・バーバラからポイント・コンセプション岬(Point Conception)を周って、カリフォルニアのできるだけ北へ向かい、サンフランシスコ湾( San Francisco Bay)の現メンドシノ郡(Mendocino County)ラシアン川(Russian River, 180km)まで航海して、秋の嵐の季節が来る前に引き返しました。

その時、カブリロ船長はロマ岬 (Point Loma) に到達。ヨーロッパ人として初めてサンディエゴに足を踏み入れたとされ、その地をサン・ミゲル(San Miguel) と名づけ、それが現在のサン・ディエゴ(San Diego、California)となりました。

そこでは友好的な現地人のチュマシュ族(Chumash people)と交易。1542/11/23に彼の小さな船団はサンタカタリナ島 (Santa Catalina Island, Gulf of Santa Catalina, California)へ修理のために寄航。そこでカブリロがボートを降りて、ギザギザの有る岩に足をぶっつけて「向う脛」を引き裂きました。その傷のせいで足が壊疽(エソ)になり、1543/1/3に手当ての甲斐も無く44才で亡くなり葬られました。船団の副隊長は残りの乗組員を連れて、1543/4/14にメキシコのアカプルコへ帰港しました。

1542 <カブリロ船長の大航海>
06/27 3隻でナヴィダードを出帆
08/01 セドロス島を望見して停泊
8月終わりまでに、1539年にデウロアが「カボデルエンガニョ」と命名したバハポイントを通過してスペイン船が未開拓の海域に進入
09/28 現在のサンディエゴ湾に上陸、「サンミゲル」と命名
10/07 サンタカタリナ島に到達、旗艦に因んで「サンサルバドル」と命名
ボートで島に上陸すると、武装した現地人の大群衆が出現するも、後に友好的になる
近くの島を3番船に因んでビクトリアと命名(現サンクレメンテ島、San Clemente Island)
10/08 朝サンペドロ湾(San Pedro Bay)に到達、「バヤデロスフモス」(スモークベイ)と命名
10/09 サンタモニカ湾(Santa Monica Bay)に一晩停泊
10/10 現地人から聞いたアナカパ島(Anacapa Island)に上陸、無人島と判明
翌週 サンミゲル島の北東海岸の湾にある島々のカイラー港に停泊
10/18 ポイントコンセプション岬を望見、「カボデガレラ」と命名
11/13 ポイントレイズを望見、「カボデピニョス」と命名するも、
しばしば霧に覆われているサンフランシスコ湾への入り口を通過、発見は2世紀後になる
ロシアン川または北のコロンビアまでに到達し、海岸を下って戻り、モントレー湾に進入
「バイア・デ・ロスピニョス」と命名。遠征隊は、秋の嵐が来る前に引き返して越冬
11/23 越冬後に修理で「サンサルバドル」(サンタカタリナ島)に戻る
12/24 頃、カブリロはボートから降りて、トングヴァの戦士を攻撃することから彼の部下の何人かを救おうとしている時にギザギザの岩につまずいて、すねを裂き、壊疽を発症
1543
01/03 手当ての甲斐も無く亡くなり埋葬。後にサンミゲル島で墓石が発見される
04/14 副司令官と残りがナヴィダードに到着。

カブリロの遠征に関する公証人の公式報告は失われました。生き残っているのは、船の航海日誌や海図にもアクセスした別の調査員、アンドレス・デ・ウルダネタによって作成された要約だけです。17世紀初頭の歴史家アントニオ・デ・エレーラの記述の前に、カブリロの航海の印刷された記述は現れませんでした

※サン・サルバドル号の実物大レプリカ(複製)が
2011年春に完成して、2015年に米国サンフランシスコ州サンディエゴのハーバードライブにあるスパニッシュランディングパークで公開・展示され、現在はサンディエゴ海事博物館(Maritime Museum of San Diego)で保存・展示されています。

参考HP:〜
カリフォルニアのチャネル諸島の地図(Californian Channel Islands)

こちらで世界遺産の
ピラミッド (エジプト)
パルテノン神殿 (ギリシャ)
サンマリノ (イタリアの中のサンマリノ共和国)
姫路城 (日本)
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   08/7/25追記、令和 R.2/12/15(2020)

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