冒険大航海 | ||
★イギリス |
総督ジョン・ガイ船長 1610〜1614 ニューファンドランド島・イギリス初代総督 |
大航海語★ |
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USA | NEWFOUNDLAND | ||||
カラベル帆船 USA 明治26年 1893 発行 |
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CANADA | |
中央がハドソン湾 カナダ 1981 発行 |
←ケーン水路 ←グリーンランド ←パフィン島 ←プロビジャー湾 ←ハドソン海峡 ←ラプラドル湾 ←ラプラドル半島 ←ニューファンドランド島 ←ケベック |
ジョン・ガイ船長は1608年にブリストルの冒険貿易商人協会の要請で新大陸北東部のニュー・ファウンドランド島へ大航海して到達、探検調査して殖民の好適地と報告。1610年には植民団を連れて渡り入植に成功し、イギリス最初の恒久入植地”クーパーズ・コーヴ”の初代総督を務めましました。 |
・総督ジョン・ガイ船長 (Captain Governor John Guy、生年不祥〜1629頃没) ニューファウンドランド島クーパーズコーヴ、イギリス初代総督、在任:1610〜1614 (Cuper's Cove, Island of Newfoundland, Canada) ジョン・ガイはイングランド・ブリストルの冒険貿易商人船長で、1605〜1606年の間はブリストル議会の議員を務めました。 ブリストル貿易商人協会(Society of Merchant Venturers、13世紀)は1497年にジョン・カボット船長を新大陸に派遣し、彼がカナダのニューファンドランド島を発見し、1498年に上陸しました。1583年にはイギリスのギルバート卿がセント・ジョン湾に入植して、イギリス最初の海外植民地となっていましたが、ギルバート卿が帰りの航海で遭難して亡くなり、その後は入植者が続いていませんでした。
1612年の秋が来る前に女性と家畜類を連れてニューファンドランドへ出帆しました。1612/10にトリニティ湾(Trinity Bay)を探検して、友好的な原住民ベオスック族(Beothuks)に出会いました。1612年夏の探検航海中に海賊ピーター・イーストン(English pirate Peter Easton, 1570頃-1620頃)に捕まって、ガイ船長が、その年の春にアヴァロン半島東南岸に建設された2番目の植民地レニュー(Renews, Avalon Peninsula)を放棄することを約して放免されました。1613年の居住地は厳しい冬を迎えました。8人の犠牲者が出て、壊血病患者は幾人も出ました。 ガイ船長は1613/4、1613/9、1614/12にブリストルに戻りました。ロンドン・ブリストル商会(London and Bristol Company, 1610設立)が約束した土地の提供をしなかったので、ガイ船長は苦情を申し立てました。この頃からガイ船長の植民地への興味が薄れてきました。間もなく、土地問題は解決され、植民者にも給料がわりの土地割当が行われました。1626年にガイ船長は息子と妻のアン(Anne)に土地を相続することにしました。 1618〜1619年の間はブリストル市の市長になりました。1620〜1621、1624〜1628年の間は貿易商人協会の重役を務めました。1620〜1622、1624の間はブリストル議会の議員をも務めました。1629/3月頃にガイ船長は亡くなりましたが、ブリストルの聖ステファン教会(St. Stephen's Church)に埋蔵されたかどうか不明で、教会の記録にも何もありません。ガイ船長の没後、弟フィリップが”クーパーズ・コーヴ”総督職を引き継ぎました。 クーパーズコーブの居住地は18世紀まで現存したという証拠があるという説もありますが、1600年代に放棄されたというのが有力な説のようです。下記の表の通り、クーパーズコーブの総督名簿には1621年までしか記録が残っていません。 ・ニューファンドランド総督:列伝:〜
総督名の変遷:〜
・法隆寺 (日本) をお楽しみください。 参考HP:〜 ・ブリストルの場所地図 ・ニュー・ファウンドランド付近の地図 ・コンセプション湾(セント・ジョン(Saint Johns)の西の湾) ・アヴァロン半島の場所地図 ・ニュー・ファウンドランド島の地図 ・ニュー・ファウンドランド島の地図(日本語の地名有) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 09/4/30、2018/10/10 |