デイヴィッド・トンプソン
David Thompson (1770/4/30〜1857/2/10)
ハドソン湾会社と北西会社で測量事業で働く
カナダ北西部探検測量家(Canadian Northwest Survey Explorer)
生地:イングランドのロンドン(#H)生
没地:カナダのケベック州モントリオール(#QC)、86才没
デイヴィッド・トンプソンはロンドンのウェストミンスター(Westminster, #60)で生まれ、2才の時に父親が亡くなりました。7才でウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)近くのグレイコート・チャリティ学校(Grey
Coat charity school)に在籍し、数学の才能を発揮して、代数、三角法、地理学(algebra,
| trigonometry, geography)を学んだ上に、実用的な天文学で航法(navigation)をも習得しました。数年後にハドソン湾会社(HBC:Hudson's
Bay Company)が、北アメリカの毛皮貿易(fur trade)年季奉公(apprenticeship)の学生募集にきて、4人を雇用し、卒業間近のトンプソンも指名しました。14才で卒業したトンプソンは、1784/5月に母を一人残してプリンス・ルパート号(Prince
Rupert)でハドソン湾へと出帆し、母には2度と会えませんでした。乗船時にハドレーのコードラント(Hadley's quadrant)という八分儀を持参しました。1785年にヨーク・ファクトリー(YF:York Factory)へ向かった時に、チャーチル河々畔フォート・プリンス・オブ・ウェールズ(Fort Prince of Wales=略称チャーチル |
プリンス・オブ・ウェールズ砦

図案は同一形式の星型要塞
ペルー 1936/8/27 発行 |
Churchill, MB)に置き忘れて、二度と使うことはありませんでした。
| 1786年 |
ノース・サスカチワン河(North Saskatchewan River 1,287km, SK)沿いに現:ノース・バトルフォード(North
Battleford)近くのマンチェスター・ハウス(MH:Manchester House)へと探検して、其処で越冬 |
| 1787年 |
カルガリー地区(Calgary)ボウ川(Bow River 587km, #AB)沿いにペイガン族(Peigans)地区を通り抜けて測量調査後、越冬 |
| 1788年 |
春に、マンチェスター・ハウスに戻る |
| 12/23 |
18才のトンプソンはマンチェスター・ハウスで、足を骨折して寝込み、HBCヨーク・ファクトリー・チーフのウィリアム・トミソン(William Tomison 1740-1829)がヨーク・ファクトリーから駆けつけて世話するも、4ヵ月たっても良くならず、悪化してもうダメだろうと思われたので、1789/5/1に故国の叔父トンプソンへ手紙で知らせ、治療のためにヨーク・ファクトリーへ移す |
| 1789年 |
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| 8/10 |
椅子に腰掛けるようになり、カンバーランド・ハウス(CH:Cumberland House)へ2週間で移動 |
| 8月 |
末頃に松葉杖で弱々しく歩けるようになり、その後は生涯に渡って足を引きずる |
| 10月 |
フィリップ・ターナー(Philip Turnor)がアサバスカ地区(Athabasca)の調査探検計画を持ってカンバーランド・ハウスに到着。ターナー探検調査隊のメルコム・ロス(Malchom
Ross)、ジョージ・ハドソン(George Hudson)、ピーター・フィルダー(Peter Fidler)に、病弱なトンプソンも加えてもらい一行は5人になる |
| 1790年 |
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六分儀

ガンビア 1988 発行 |
| 2/01 |
カンバーランド・ハウスで緯度の測定を始め、4ヵ月で36ヶ所を測定
それは北緯53° 56' 44" 西経102° 13' と測定し、現在のと僅かの誤差
ところがその冬の間に何の保護装置もない観測器具で太陽を見たので、
右目の視力を失う |
| 春 |
弱っていたのでヨーク・ファクトリーで少し休養して六分儀(Sextant)を持ってアサバスカ川探検調査隊と行を共にする |
| 6/09 |
ヨーク・ファクトリーを出発
越冬はカンバーランド・ハウスでとなる |
| 1791年 |
年季奉公が明けたので、黒と銀色で、2組は赤、1組は緑の保護付ガイド・メモリ眼鏡(Index Glass)の付属した真鍮製六分儀(Brass Sextant)一式とクロノメーター時計をロンドンのピーター・ドランド商会(Peter Dolland 1731-1821)に注文 |
| 1792年 |
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| 9月 |
新任のヨーク・ファクトリー総督ジョセフ・コーレン(Joseph Colen)の命で、チャーチル川沿いにアサバスカ地区調査に出発。サスカチワン州(SK)北部とマニトバ州(MB)北西の境にあるレインディーア湖(Reindeer Lake)での越冬ができず、シピウェスク湖(Sipiwesk Lake)に交易所(trading
house)を造って、越冬 |
| 1793年 |
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| 春 |
シーペイウィスク・ハウス(SH:Seepaywisk House)を出発
バーントウッド川(Burntwood River 322km MB)沿いにチャーチル河を渡河、サスカチワン州(SK)北部とマニトバ州(MB)北西の境にあるレインディーア湖に着。其処でアサバスカ地方へのガイドになる現地人と会えなかったので帰途にく |
| 7/21 |
YF到着。時計が壊れて修理にロンドンへ出していたのが戻ってきていたので、取り替えて、
ネルソン川(Nelson River 644km)沿いに、CHに向う |
| 10/05 |
カンバーランド・ハウス着 |
| 10/07 |
サスカチワンを北上 |
| 10/31 |
バッキンガム・ハウス(BH:Buckingham House、現;セント・ポール(St. Paul, AL)近郷)着
現在のエドモントン(Edmonton)近郷フォート・オーガスタス(Fort Augustus)着 |
| 11/29 |
バッキンガム・ハウスに戻って、旧友ウィリアム・トミソンに再会、越冬 |
| 1794年 |
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| 5/14 |
バッキンガム・ハウスをヨーク・ファクトリーへと出発 |
| 6/02 |
サスカチワンを通ってカンバーランド・ハウスでマルコム・ロス隊に出会うと、リード湖(Reed Lake)にHBCの新しい毛皮交易所のリード・レーク・ハウス(RLH:現:Grass
River Provincial Park, MB:グラス川州立公園)を造るとのことを聞く |
| 6/20 |
マルコム・ロス隊と別れて出発 |
| 7/05 |
YFへ着くと、£12.12ポンドで購入したストップウォッチやクロノメーター時計などの測量器具が
ロンドンから、既に着く |
| 1794年 |
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皮張りカヌー

USA 2011 発行 |
| 7/26 |
ヨーク・ファクトリーを
新造のリード・レーク・ハウスへ交易用カヌー3艘を持って出発 |
| 9/02 |
リード・レーク・ハウスに到着
マルコム・ロス達と共に越冬 |
| 1795年 |
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| 春 |
ロス達とリード・レーク・ハウスで交易した毛皮を持って
ヨーク・ファクトリーへ出発 |
| 7/05 |
ヨーク・ファクトリー着 |
| 7/18 |
ロス達とヨーク・ファクトリーを出発 |
| 9/06 |
シシプク湖(Sisipuk Lake)西端のダック・ポーテイジ(Duck Portage)着 |
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数日後、ロス達はフェアフォード・ハウス(Fairford House)設営のために出発 トンプソンはHBCの交易所建設のための測量に携わり、越冬 |
| 1796年 |
|
| 春 |
チャーチル河のレインディーア湖流入点から下って、 ウラストン湖(Wollaston Lake)からブラック川(Black River)を経て、アサバスカ湖(Lake
Athabasca)東端へ遡上。コーレンとロスが見つけたアサバスカ地方へのルートより近道を発見して、秋になるとレインディーア湖へ戻り其処のベドフォード・ハウス(BH:Bedford
House)でロス達と越冬
トンプソンが注文していた測量器具の残りがロンドンから到着して、完全セット一式が揃う |
| 1797年 |
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| 5/08 |
ハドソン湾会社ライバルの北西会社(NWC:North West Company)の追上げが急になってきたので、27才で北西会社へ行こうと思い、ベドフォード・ハウスからアレキサンダー・フレイザー(Alexander
Fraser 1786-1853)がレインディーア湖南端に建設の交易所に重い装備になった測量器具の大部分を持って到着。残りは後送となる |
| 7/07 |
グランド・ポーテージ(GP:Grand Portage)へと出発 |
| 7/22 |
スペリオル湖(Lake Superior)のNWC本店に初めて到着 |
| 8/09 |
グランド・ポーテージを、USAが独立戦争協力者フランスへの裏切りだったジェイ条約(Treaty of London of 1794)で国境線が閉じられていた地方への危険な調査行へとNWCの探検隊を率いて出発。ヒュー・マックギリス(Hugh
McGillis)とレイニー川(Rainy River)を下ってレイニー湖(Rainy Lake)へ、森林地帯(Lake of the Woods)からウィニペグ湖(Lake
Winnipeg)着
ドゥフィン川(Dauphin River, MB)沿いにマニトバ湖(Lake Manitoba)へ行き、州都ウィニペグから北西に300km付近のウィニペゴシス湖(Lake
Winnipegosis)着 |
| 9/17 |
ショール川(Shoal River)河口で2班に別れる
マックギリスはレッド・ディア湖(Red Deer Lake)へ向う
トンプソンはショール川を下ってスワン・リヴァー・ハウス(Swan River House)着
トンプソンとカスバート・グラント(Cuthbert Grant Sr)はHBCで馬を借りて
スワン河(Swan River)渓谷沿いにアシニボイン河(Assiniboine River 1,070km, SK)へと向う
次の2ヵ月はレッド・ディア川とアシニボイン河の調査を実施 |
| 11月 |
スリス川(Souris River 700km)河口のマクドネル・ハウス(MH:McDonnell's house)着 |
| 11/28 |
トンプソンはマンダン族語375語を知っていたので
スー族(Sioux)の襲撃を逃れたマンダン族集落(Mandan)を探しに
9人とマクドネル・ハウスを出発
現:サカカウィア湖(Lake Sakakawea, North Dakota)沿いの
ミズーリ河(Missouri River 4,090km)で集落を発見、滞在 |
| 1798年 |
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| 1/10 |
マンダン族集落を出発 |
| 2/03 |
マクドネル・ハウス着 |
| 2/28 |
マクドネル・ハウスを出発
レッドディア川とミシシッピ河(Mississippi River 5,971km)とグランドポーテイジの合流を探す
アシニボイン族(Assiniboine)集落からフォークス(Forks:現Winnipeg:ウィニペグ)からレッド川とレッド・ディア川、レッド湖(Red
Lake)を調査 |
| 3/24 |
バプチスト・カドット・ハウス(BCH:Baptiste Cadotte Hous)着、越冬 |
| 4/09 |
バプチスト・カドット・ハウスを出発、東のタートル湖(Turtle Lake)へ向う
スペリオル湖(Lake Superior)、スーセントマリー(Sault Ste. Marie, ON)を調査 |
| 6/07 |
グランド・ポーテイジ着 |
| 7/14 |
グランド・ポーテイジを出発、レイニー湖(Rainy Lake)からウィニペグ湖(Lake Winnipeg)へ
さらにサスカチワン川(Saskatchewan River 550km)を調査 |
| 8/09 |
カンバーランド・ハウス着 |
| 8/19 |
カンバーランド・ハウスを出発、ラックラビチェ(Lac La Biche, AB)へ、チャーチル河からラックラロンゲ氷河湖(Lac La Ronge,
SK)へ、ラックイル・アラカルトラクロス湖(Lac Ile-a-la-Crosse, SK)から、ビーバー川(Beaver River 491km,
AB)沿いに |
| 9月 |
ラックラビチェ着、越冬 |
| 1799年 |
|
| 3月 |
ラックラビチェを出発、アルバータ州(AB)北方へと探検調査
フォート・オーガスタ(Fort Augustus現エドモントン(Edmonton)近郷)から、カナダ・ロッキー山脈のペンビーナ川(Pembina
River 547km)沿いにアサバスカ河(Athabasca River 1,231km)着。レッサースレイブ湖(Lesser Slave
Lake)へ向う。現フォートマクマレー(Ft. McMurray)のクリアウォーター川(Clearwater River 120.4km, AB)を遡上、メシー・ポーテージ川(Methy
Portage River)からメシー湖(Methy Lake)着 |
| 5/20 |
ラックイル・アラカルトラクロス湖に着 |
| 6/10 |
ラックイル・アラカルトラクロス湖で、北西会社重役の父パトリック・スモール(Patrick Small)と現地クリー族(Cree)との娘シャルロッテ・スモール(Charlotte
Small)と結婚(子供13人で、探検後はモントリオール(Montreal)に落ち着く)。結婚すると、シャルロッテ夫人の姉妹と結婚したジョン・マクドナルド(John
McDonald of Garth)と共にグランド・ポーテージへ探検後、セント・ポール(St. Paul, AB)近郷のフォート・ジョージ(Fort
George)へ行き、越冬 |
| 1800年 |
|
| 春 |
フォート・ジョージを出発
作秋にガースが新造のロッキー・マウンテン・ハウス(Rocky Mountain House)着 |
| 5/08 |
ロッキー・マウンテン・ハウスを出発 |
| 6/07 |
ウィニペグ湖(Lake Winnipeg)着
グランド・ポーテージからロッキー・マウンテン・ハウスで越冬 |
| 10月 |
クリアウォーター川へ馬で行き、徒歩でロッキー山脈の山へ
其処でブラックフット族(Blackfoot)から逃れてきた銃を持った
クートナイ族(Kootenay, BC)に出会い、ロッキー・マウンテン・ハウスに着いて交易 |
| 12/03 |
ボウ川地方へ乗馬で行き、徒歩でクートナイ族と共にロッキー・マウンテン・ハウスに戻る
別動のダンカン・マックギリヴライ(Duncan McGillivray)はサスカチワンへ行くも
リューマチ(rheumatism)になって、ロッキー・マウンテン・ハウスで越冬 |
| 1801年 |
|
| 6月 |
ロッキー・マウンテン・ハウスを乗馬でサスカチワン川(Saskatchewan rivers 550km)から
ボウ川湿地帯のシープ川(Sheep river)沿いに厳しいロッキー山脈の測量探検行へ出発 |
| 6/10 |
シャルロッテ夫人との第1子ファニィ(Fanny)誕生 |
| 6/30 |
ロッキー・マウンテン・ハウスに戻り着く
隊員のスタミナ不足でオーガスタ砦(Fort Augustus)への小旅行後、越冬 |
| 5月 |
スペリオル湖のサンダー湾(Thunder Bay, ON)フォート・カミニスティキア(Fort Kaministiquia、1807 Fort
William 改名)にある北西会社本部へと出発。レッサー・スレーヴ湖を経て、スモーキー川(Smoky river)から、ピース川(Peace
river)に着き、越冬。その後、数年間は北西会社の職員(clerk)として、交易しながら測量調査を続行 |
| 1803年 |
|
長男が誕生

アーシャル 2004 発行 |
|
ピース川のフォート・フォークス(Fort Forks 1972/11/1-1793/5/9)で過ごす |
| 12月 |
犬ゾリでレッサー・スレーヴ湖へ短期調査後
フォート・フォークスで越冬 |
| 2-3月 |
犬ゾリでロッキー・マウンテン・ハウスへ |
| 3/05 |
第2子の長男サミュエル(Samuel)がフォート・フォークスで誕生 |
| 3/15 |
フォート・カミニスティキアへの長旅に家族を連れて出発 |
|
| 1804年 |
|
|
| 9/08 |
カンバーランド・ハウス着 |
09/08、
| 10/06 |
チャーチル河の交易所でラッセル湖(Russell Lake, MB北部)近くのマスクラット地方(Muskrat Country)と呼んでいたマスカウェアン(Musquawegan)着、越冬 |
毛皮用ビーバー

カナダ 1954 発行 |
| 1805年 |
マスカウェアンで過ごす
カンバーランド・ハウスで交易するため、レインディーア湖(Reindeer Lake)やサウス・インディアン湖(South Indian Lake)で毛皮狩り |
| 6/17 |
カンバーランド・ハウス着
着くとアレグザンダー・マッケンジー卿(Sir Alexander Mackenzie 1764-1820)のXY会社(XY Co)が1804/11/5付で合併して、毛皮狩り地区が緩和されていたことを知る。リード湖で越冬(1794年の越冬場所リード・レーク・ハウス近く) |
| 1806年 |
|
|
| 3月 |
第4子のエマ(Emma)が越冬地で誕生、後にトンプソンの母がエリザベス(Elizabeth)に改名 |
| 6/10 |
マスクラット地方を出発
カンバーランド・ハウスをへてフォート・カミニスティキアへ |
| 11/29 |
ロッキー・マウンテン・ハウス着、夫人と子供達が越冬 |
| 1807年 |
|
コロンビア河

モリアオガエル カナダ 1994 発行 |
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| 05/10 |
ロッキー・マウンテン・ハウスを家族とファイナン・マクドナルド(Finan McDonald)隊員達8人と出発。ロッキー山脈を越え、ノース・サスカチワン河'North
Saskatchewan River 1,287km)からクートネー平原(Kootenay Plains)通過ハウズ峠(Howse Pass,
BC)へ向う |
| 6/30 |
峠を越えてブルーベリー川(Blaeberry River 60km, BC)着
前年にフィンレイ(Jaco Finlay 1768-1828)がカヌーで下るも |
|
激流で破壊された所で、後にコロンビア河(Columbia River 2,000km)を迂回することになる |
| 7/18 |
準備したカヌーで、ウィンダミア湖(Lake Windermere, BC)南端に着
クートネー・ハウス(Kootanae House)を建設、越冬、毛皮交易 |
| 1808年 |
|
|
| 春 |
クートネー・ハウスを夫人と子供達を連れて出発
米国アイダホ州ボナーズフェリー(Bonner's Ferry, Idaho)から招待を受けたフラットヘッド族(Flat Head Indian)を探しにクートネー川(Kootenay
River 780km)へ向い、旧友ダンカン・マックギルヴレイ(Duncan McGillivray 1808/4没)に因んでマックギルヴレイ川(McGillivray's
River)と命名 |
| 6/05 |
フラットヘッド族と別れ、クランブルック(Cranbrook, BC)からクートネー・ハウス着 |
| 8/02 |
ボギー・ホール(Boggy Hall)に家族を残してレイニー湖(Rainy Lake)で狩猟後、交易 |
| 8/19 |
ウィニペグ湖で、エドモントン東のヴァーミリオン川(Vermilion rivers)河畔フォート・ヴァーミリオン(Fort Vermilion)へ向うアレクサンダー・ヘンリー(Alexander
Henry)の弟に会う |
| 10/03 |
ボギー・ホールで家族と再会
生後6週間の息子ジョン(John 1808/8/25生)に初めて会う |
| 11/10 |
再度、ハウズ峠越えをして、クートネー・ハウスに戻って、越冬 |
| 1809年 |
|
| 4/17 |
クートネー・ハウスを出発 |
| 6/24 |
ハウズ峠越えをして、フォート・オーガスタス着 |
| 7/18 |
毛皮が安全に船積みされたのを見届ける |
| 8/20 |
家族とヤコブ・フィンレイと共にクートネー川に着き
ボナーズフェリーへ行く |
| 9/10 |
乗馬でアイダホ州北部クートネー地方のパンドレイ湖(Pend Oreille Lake)着 |
| 9/11 |
クリスペル・ハウス(Kullyspell House)の建設を始める |
| 9/23 |
丸太造りのクリスペル・ハウスが完成。さらにクラーク・フォーク川(Clark Fork River)河畔に現モンタナ州トンプソン・フォール(Thompson
Falls, Montana)に行き、ワシントン州スポケーン(Spokane, Washington)近郷にサリシュ・ハウス(Saleesh
House)を建設、越冬 |
| 1810年 |
|
| 5/09 |
サリシュ・ハウスを出発
サスカチワン(Saskatchewan)へ毛皮を運んで交易 |
| 7/04 |
ハウズ峠越えをして、カンバランド・ハウス着 |
| 7/22 |
北西会社本部のレイニー湖着 |
| 9月遅く |
4隻のカヌーでフォート・オーガスタス着
夫人と子供を残してサスカチワン北部からコロンビア地方へ向う
途中のクートネー地方でブラックフット族の白人に対する脅威に出会い
ボギー・ホール(Boggy Hall)へ向う |
| 12/29 |
犬ゾリと雪靴でボギー・ホール着 |
| 1811年 |
|
| 1/18 |
飢えなどの困難を乗越えアサバスカ峠(Athabasca Pass現ジャスパー:Jasper, AB)を越える
山越えでコロンビア河支流カヌー川(Canoe rivers)着、河を遡上してクートネー・ハウスへ向かおうとするも、隊員達の反対でカヌー川で越冬 |
| 3/28 |
フォート・オーガスタスで第5子ジョシュア(Joshua)誕生
春になると杉材(cedar)で鎧張りした頑丈なカヌー(clinker-built canoes)を建造してコロンビア河水系クートネー川からサリシュ・ハウスへ向い、1810年にトンプソン監督でフィンレイ(Jaco
Finlay)が造ったスポケーン・ハウス(Spokane House、現Spokane, Washington スポケーン)へ |
| 6月末 |
ロンビア河のケトル・フォールズ(Kettle Falls)着 |
| 太平洋 |
カナダ横断のルート地図(点線)、(7)フォート・ウィリアム

カナダ 1985/6/28 発行、切手帳カバー |
太西洋 |
|
スポーケン・ハウスやサリシュ・ハウス、クリスペル・ハウス、クートネー・ハウスの交易所から、ロッキー山脈越えでサスカチワンのフォート・ウィリアム(Fort William)へ行き、そしてモントリオール(Montreal)迄、馬の背やカヌーで運ぶ北西会社の輸送ルートは信じられないほど遠いものでした。トンプソンはコロンビアの地理的場所はルイス&クラーク(Lewis & Clark)探検隊やクック船長(Captain Cook)の探検航海で、帆船で大量の輸送が可能となる太平洋岸に近いと信じていました。
| 1811年 |
|
カヌーでコロンビア河下りの探検

ギニア・ビサウ 2007 発行 |
| 7/03 |
頑丈なカヌーで、コロンビア河を太平洋岸へと下り始める |
|
随行者:〜
・ミシェル・ボルドー(Michel Bourdeaux)
・ピエール・パレイル(Pierre Pareil)
・ジョセフ・コート(Joseph Cote)
・ミシェル・ブラール(Michel Boulard)
・フランソワ・グレゴワール(Francois Gregoire)
・イロコイ族のチャールス(Charles)
・イロコイ族のイグナス(Ignace)
・サンポイル族ガイド(Sanpoil interpreters)2人の計8人 |
| 7/14 |
河口に到着
アメリカ人ジョン・ヤコブ(John Jacob)アメリカ太平洋毛皮会社アメリカン・アスターズ・ファー・カンパニー(American Astor's
Pacific Fur Co)支配人がフォート・アストリア(Fort Astoria)に着く3ヵ月前のこと、北西会社のトンプソンが先着するも記録されず |
| 7/21 |
フォート・アストリアを出発
コロンビア河を遡上して交易所を隊員に建設させる |
| 7/31 |
トンプソンは、ルイス&クラークが探検したスネーク河(Snake River 1,670km USA)へ向い、スポーケン川のスポーケン・ハウスに乗馬で着き、カヌーを建造し、アサバスカ峠西をカヌー川からコロンビア湖に出て、コロンビア河を下って河口に着き、太平洋岸に出る全コースを踏破 |
| 11/19 |
アサバスカ峠越えして補給物資を運んだ後、コロンビア河を下ってスポケーン・ハウスから、
サリシュ・ハウス着、越冬 |
| 1812年 |
|
|
| 春 |
サリシュ・ハウスを出発
まず、モンタナ州ミズーラ(Missoula, MT, USA)へ測量旅行して
ルイス&クラーク探検のルートを確認
次いで、同州フラットヘッド湖(Flathead Lake)南端へ測量旅行 |
| 3/13 |
サリシュ・ハウスを出発
スポーケン・ハウス近くでカヌーを建造してフォート・ウィリアム(Fort William)へ測量旅行 |
| 4/22 |
スポーケン・ハウスを出発
ロンビア河を遡上してカヌー川へ |
ウィリアム砦(7) Fort William, Ont

カナダ 1985/6/28 発行 |
| 5/11 |
アサバスカ峠越えで現在のアルバータ州ジャスパー(Jasper, AB)のアサバスカ河ウィリアム・ヘンリー・ハウス(William Henry
House)着 |
| 5/27 |
ラックラビチェ着 |
| 6/18 |
イル・アラカルトラクロス(Ile a la Crosse)からチャーチル河のカンバーランド・ハウス着 |
| 8月 |
スペリオル湖のフォート・ウィリアム(Fort William)着 |
| 8/24 |
フォート・ウィリアムを出発
スペリオル湖北岸沿いに東へ進み、秋にモントリオール北のテレボン(Terrebonne, Quebec)着 |
|
モントリオールの教会(St. Gabriel Street Presbyterian Church)で結婚式を挙行
子供3人が洗礼を受ける。 |
トンプソンの約88,000kmに及ぶ北西部への測量探検調査大旅行は、1812年に終了(42才)しました。
その後は地図アトラスの製作に加わり、モントリオールで余生を送りました。
1813年
07/30、ケベックのテレボン(Terrebonne, Quebec)でヘンリー(Henry)誕生
10月、米英戦争(War of 1812. 1812-1814)中にNWCがフォート・アストリアを太平洋毛皮会社(Pacific
Fur Co)から$40,000ドルで購入
12月、英艦ラクーン(sloop-of-war HNS Raccoon 1808, 18gun, 425t)ブラック艦長(Black)がアストリア
(Fort Astoria, Oregon、カナダ国境近く)を占領、フォート・ジョージ(Fort George)に改名
1821年に北西会社(NWC)とハドソン湾会社(HBC)が合併する迄、NWCの交易所となる
1814年
フォート・ウィリアム大集会所(Fort William's Great Hall)に約2mX3mの大地図が掲げられる
01/11、ボギー・ホールで5年前に生まれたジョンが亡くなる
02/22、厳しい環境での測量と毛皮交易の中で育った優しい娘エマ(7才)が亡くなる(涙)
その後の15年に子供7人が誕生
1815年
家族をトレボンからオンタリオのウィリアムズタウン(Williamstown)へ移す
1817年
北西会社で地図を完成させるために再雇用され、ケベックに米国と英国領北アメリカで設立され
たカナダ米国々境委員会(International Boundary Commission)に雇用移動
1821年
ハドソン湾会社と北西会社の間で、小ぜりあいが頻発し交戦状態になったので、両社はイギリス
政府の圧力で統合させられ、ハドソン湾会社が北西会社を吸収合併
ロンドンの地図製作業者アロースミス(Aaron Arrowsmith 1750-1823)がトンプソンの測量デー
タを基に北米カナダの地図を作成
1825年
北西会社が破産してハドソン湾会社に吸収された時、トンプソンは£400ポンドの損害を被る
子供達のために種々のヴェンチャー事業に投資
1829年
イギリス陸軍の宿舎用木製ユニット(cordwood)事業に失敗して残りの財産を失う
1833年
63才で破産、測量事業を続けながら政府へ救済を請願
1843年
アロースミスの地図が完成するとイギリス外務連邦担当国務長官(British foreign secretary)が
トンプソンに僅か£150ポンドを支給
1846年
76才で視覚が悪くなり、仕事ができなくなる
持っていた唯一の財産の測量器具を売り払って家族の生活費にあてる
1857/2/10
87才の誕生日前2ヵ月で永眠
3ヵ月後に生涯連れ添って苦楽を共にしたシャルロッテ夫人が亡くなり
モントリオール・マウント・ロイアル墓地(Montreal's Mount Royal cemetery)で
夫の側に葬られました。
参考HP:〜
・アサバスカ河付近の地図(Athabasca River、Lake Athabasca、
Ft McMurray南東東にMethye Portage有、Clearwater River、など有)
・カナダの川の場所地図(Coppermine River, Canada:有)
・HBCカナダの大陸横断ルートの地図(ヨーク・ファクトリー〜フォート・ヴァンクーヴァー、1820)
(York Factory, Norway House, Edomonton, Fort Assiniboin, Fort Colvile,
Fort Nez Perces,
Fort Vanvouver:有)
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 13/8/10、13/9/15、13/11/11、令和8年 2026/3/26
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