★イギリス |
デイヴィッド・トンプソン 1784〜1812 カナダ北西部の測量探検 |
大航海物語★ |
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カナダ→ ハドソン湾→ パフィン湾→ グリーンランド→ |
SWEEDEN 北極の地図 ベーリング↓海峡 スウェーデン↑(黒い所) スウェーデン 1989/8/22 発行小型シートより |
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New Zealand 17〜18世紀のイギリス帆船 ニュージランド 1995/2/9 発行 |
Marshall Islands 川では皮張りカヌーを使用 アーシャル 2004/5/14 発行 |
イギリスのロンドン生れのデイヴィッド・トンプソンは14才でカナダのハドソン湾岸へ渡航し、16才から42才迄の26年間もカナダ北西部の測量探検に従事し、遂にはコロンビア河を縦漕して太平洋岸に達しました。29才で結婚してからは家族を連れての測量探検行となりました。その後はカナダ東部に住んで、事業に投資するも失敗して、苦難な老後を送り、87才の2ヵ月前に永眠しました。 |
デイヴィッド・トンプソン (1770/4/30〜1857/2/10) David Thompson ハドソン湾会社と北西会社で測量事業で働く カナダ北西部探検測量家(Canadian Northwest Survey Explorer) 生地:イングランドのロンドン生 没地:カナダのモントリオール、86才没 デイヴィッド・トンプソンはロンドンのウェストミンスター(Westminster, London, England)で生まれ、2才の時に父親が亡くなりました。7才でウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)近くのグレイコート・
ノース・サスカチワン河(North Saskatchewan River 1,287km, SK)沿いに現:ノース・バトルフォ ード(North Battleford)近くのマンチェスター・ハウス(MH:Manchester House)へと探検して、 其処で越冬 1787年 カルガリー地区(Calgary)ボウ川(Bow River 587km, AB)沿いに ペイガン族(Peigans)地区を通り抜けて測量調査後、越冬 1788年 春に、マンチェスター・ハウスに戻る 12/23、18才のトンプソンはマンチェスター・ハウスで、足を骨折して寝込み、HBCヨーク・ファクトリー・ チーフのウィリアム・トミソン(William Tomison 1740-1829)がヨーク・ファクトリーから駆けつけて 世話するも、4ヵ月たっても良くならず、悪化してもうダメだろうと思われたので、1789/5/1に故 国の叔父トンプソンへ手紙で知らせ、治療のためにヨーク・ファクトリーへ移す 1789年 08/10、椅子に腰掛けるようになり、カンバーランド・ハウス(CH:Cumberland House)へ2週間で移動 8月末頃に松葉杖で弱々しく歩けるようになり、その後は生涯に渡って足を引きずる 10月、フィリップ・ターナー(Philip Turnor)がアサバスカ地区(Athabasca)の調査探検計画を持って カンバーランド・ハウスに到着。ターナー探検調査隊のメルコム・ロス(Malchom Ross)、ジョー ジ・ハドソン(George Hudson)、ピーター・フィルダー(Peter Fidler)に、病弱なトンプソンも加え てもらい一行は5人になる
09月、新任のヨーク・ファクトリー総督ジョセフ・コーレン(Joseph Colen)の命で、チャーチル川沿いに アサバスカ地区調査に出発。サスカチワン州(SK)北部とマニトバ州(MB)北西の境にある レインディーア湖(Reindeer Lake)での越冬ができず、シピウェスク湖(Sipiwesk Lake)に 交易所(trading house)を造って、越冬 1793年 春、シーペイウィスク・ハウス(SH:Seepaywisk House)を出発 バーントウッド川(Burntwood River 322km MB)沿いにチャーチル河を渡河、サスカチワン州 (SK)北部とマニトバ州(MB)北西の境にあるレインディーア湖に着。其処でアサバスカ地方へ のガイドになる現地人と会えなかったので帰途にく 07/21、YF到着。時計が壊れて修理にロンドンへ出していたのが戻ってきていたので、取り替えて、 ネルソン川(Nelson River 644km)沿いに、CHに向う 10/05、カンバーランド・ハウス着 10/07、サスカチワンを北上 10/31、バッキンガム・ハウス(BH:Buckingham House、現;セント・ポール(St. Paul, AL)近郷)着 現在のエドモントン(Edmonton)近郷フォート・オーガスタス(Fort Augustus)着 11/29、バッキンガム・ハウスに戻って、旧友ウィリアム・トミソンに再会、越冬 1794年 05/14、バッキンガム・ハウスをヨーク・ファクトリーへと出発 06/02、サスカチワンを通ってカンバーランド・ハウスでマルコム・ロス隊に出会うと、リード湖(Reed Lake)にHBCの新しい毛皮交易所のリード・レーク・ハウス(RLH:現:Grass River Provincial Park, MB:グラス川州立公園)を造るとのことを聞く 06/20、マルコム・ロス隊と別れて出発 070/5、YFへ着くと、£12.12ポンドで購入したストップウォッチやクロノメーター時計などの測量器具が ロンドンから、既に着く
1796年 春、チャーチル河のレインディーア湖流入点から下って、 ウラストン湖(Wollaston Lake)から ブラック川(Black River)を経て、アサバスカ湖(Lake Athabasca)東端へ遡上。コーレンとロス が見つけたアサバスカ地方へのルートより近道を発見して、秋になるとレインディーア湖へ戻り 其処のベドフォード・ハウス(BH:Bedford House)でロス達と越冬 トンプソンが注文していた測量器具の残りがロンドンから到着して、完全セット一式が揃う 1797年 05/08、ハドソン湾会社ライバルの北西会社(NWC:North West Company)の追上げが急になってきた ので、27才で北西会社へ行こうと思い、ベドフォード・ハウスからアレキサンダー・フレイザー (Alexander Fraser 1786-1853)がレインディーア湖南端に建設の交易所に重い装備になった 測量器具の大部分を持って到着。残りは後送となる 07/07、グランド・ポーテージ(GP:Grand Portage)へと出発 07/22、スペリオル湖(Lake Superior)のNWC本店に初めて到着 08/09、グランド・ポーテージを、USAが独立戦争協力者フランスへの裏切りだったジェイ条約(Treaty of London of 1794)で国境線が閉じられていた地方への危険な調査行へとNWCの探検隊を 率いて出発。ヒュー・マックギリス(Hugh McGillis)とレイニー川(Rainy River)を下ってレイニー 湖(Rainy Lake)へ、森林地帯(Lake of the Woods)からウィニペグ湖(Lake Winnipeg)着 ドゥフィン川(Dauphin River, MB)沿いにマニトバ湖(Lake Manitoba)へ行き、州都ウィニペグか ら北西に300km付近のウィニペゴシス湖(Lake Winnipegosis)着 09/17、ショール川(Shoal River)河口で2班に別れる。マックギリスはレッド・ディア湖(Red Deer Lake) へ向う。トンプソンはショール川を下ってスワン・リヴァー・ハウス(Swan River House)着。トンプ ソンとカスバート・グラント(Cuthbert Grant Sr)はHBCで馬を借りて、スワン河(Swan River)渓 谷沿いにアシニボイン河(Assiniboine River 1,070km, SK)へと向う。次の2ヵ月はレッド・ディア 川とアシニボイン河の調査を実施 11月、スリス川(Souris River 700km)河口のマクドネル・ハウス(MH:McDonnell's house)着 11/28、トンプソンはマンダン族語375語を知っていたので、スー族(Sioux)の襲撃を逃れたマンダン族 集落(Mandan)を探しに9人とマクドネル・ハウスを出発。現:サカカウィア湖(Lake Sakakawea, North Dakota)沿いのミズーリ河(Missouri River 4,090km)で集落を発見、滞在 1798年 01/10、マンダン族集落を出発 02/03、マクドネル・ハウス着 02/28、マクドネル・ハウスを出発 レッド・ディア川とミシシッピ河(Mississippi River 5,971km)とグランド・ポーテイジの合流を探す アシニボイン族(Assiniboine)集落からフォークス(Forks:現Winnipeg:ウィニペグ)からレッド川 とレッド・ディア川、レッド湖(Red Lake)を調査 03/24、バプチスト・カドット・ハウス(BCH:Baptiste Cadotte Hous)着、越冬 04/09、バプチスト・カドット・ハウスを出発、東のタートル湖(Turtle Lake)へ向う スペリオル湖(Lake Superior)、スーセントマリー(Sault Ste. Marie, ON)を調査 06/07、グランド・ポーテイジ着 07/14、グランド・ポーテイジを出発、レイニー湖(Rainy Lake)からウィニペグ湖(Lake Winnipeg)へ さらにサスカチワン川(Saskatchewan River 550km)を調査 08/09、カンバーランド・ハウス着 08/19、カンバーランド・ハウスを出発、ラックラビチェ(Lac La Biche, AB)へ、チャーチル河からラックラ ロンゲ氷河湖(Lac La Ronge, SK)へ、ラックイル・アラカルトラクロス湖(Lac Ile-a-la-Crosse, SK)から、ビーバー川(Beaver River 491km, AB)沿いに 09月、ラックラビチェ着、越冬 1799年 03月、ラックラビチェを出発、アルバータ州(AB)北方へと探検調査 フォート・オーガスタ(Fort Augustus、現:エドモントン(Edmonton)近郷)から、カナダ・ロッキー山 脈のペンビーナ川(Pembina River 547km)沿いにアサバスカ河(Athabasca River 1,231km)着 レッサースレイブ湖(Lesser Slave Lake)へ向う。現:フォート・マクマレー(Ft. McMurray) のクリアウォーター川(Clearwater River 120.4km, AB)を遡上、メシー・ポーテージ川(Methy Portage River)からメシー湖(Methy Lake)着 05/20、ラックイル・アラカルトラクロス湖に着 06/10、ラックイル・アラカルトラクロス湖で、北西会社重役の父パトリック・スモール(Patrick Small)と現 地クリー族(Cree)との娘シャルロッテ・スモール(Charlotte Small)と結婚(子供13人で、探検後 はモントリオール(Montreal)に落ち着く)。結婚すると、シャルロッテ夫人の姉妹と結婚したジョ ン・マクドナルド(John McDonald of Garth)と共にグランド・ポーテージへ探検後、 セント・ポール(St. Paul, AB)近郷のフォート・ジョージ(Fort George)へ行き、越冬 1800年 春に、フォート・ジョージを出発 作秋にガースが新造のロッキー・マウンテン・ハウス(Rocky Mountain House)着 05/08、ロッキー・マウンテン・ハウスを出発 06/07、ウィニペグ湖(Lake Winnipeg)着、 グランド・ポーテージからロッキー・マウンテン・ハウスで越冬 10月、クリアウォーター川へ馬で行き、徒歩でロッキー山脈の山へ、其処でブラックフット族(Blackfoot) から逃れてきた銃を持ったクートナイ族(Kootenay, BC)に出会い、ロッキー・マウンテン・ハウ スに着いて交易 12/03、ボウ川地方へ乗馬で行き、徒歩でクートナイ族と共にロッキー・マウンテン・ハウスに戻る。 別動のダンカン・マックギリヴライ(Duncan McGillivray)はサスカチワンへ行くもリューマチ (rheumatism)になって、ロッキー・マウンテン・ハウスで越冬 1801年 6月、ロッキー・マウンテン・ハウスを乗馬でサスカチワン川(Saskatchewan rivers 550km)からボウ川湿 地帯のシープ川(Sheep river)沿いに厳しいロッキー山脈の測量探検行へ出発 06/10、シャルロッテ夫人との第1子ファニィ(Fanny)誕生 06/30、ロッキー・マウンテン・ハウスに戻り着く、 隊員のスタミナ不足でオーガスタ砦(Fort Augustus)への小旅行後、越冬 1802年 05月、スペリオル湖のサンダー湾(Thunder Bay, ON)フォート・カミニスティキア(Fort Kaministiquia、 1807 Fort William 改名)にある北西会社本部へと出発。レッサー・スレーヴ湖を経て、スモーキ ー川(Smoky river)から、ピース川(Peace river)に着き、越冬 その後、数年間は北西会社の職員(clerk)として、交易しながら測量調査を続行
1806年 03月、第4子のエマ(Emma)が越冬地で誕生、後にトンプソンの母がエリザベス(Elizabeth)に改名 06/10、マスクラット地方を出発 カンバーランド・ハウスをへてフォート・カミニスティキアへ 11/29、ロッキー・マウンテン・ハウス着、夫人と子供達が越冬
1808年 春に、クートネー・ハウスを夫人と子供達を連れて出発 米国アイダホ州ボナーズフェリー(Bonner's Ferry, Idaho)から招待を受けたフラットヘッド族(Flat Head Indian)を探しにクートネー川(Kootenay River 780km)へ向い、旧友ダンカン・マックギルヴ レイ(Duncan McGillivray 1808/4没)に因んでマックギルヴレイ川(McGillivray's River)と命名 06/05、フラットヘッド族と別れ、クランブルック(Cranbrook, BC)からクートネー・ハウス着 08/02、ボギー・ホール(Boggy Hall)に家族を残してレイニー湖(Rainy Lake)で狩猟後、交易 08/19、ウィニペグ湖で、エドモントン東のヴァーミリオン川(Vermilion rivers)河畔フォート・ヴァーミリオ ン(Fort Vermilion)へ向うアレクサンダー・ヘンリー(Alexander Henry)の弟に会う 10/03、ボギー・ホールで家族と再会 生後6週間の息子ジョン(John 1808/8/25生)に初めて会う 11/10、再度、ハウズ峠越えをして、クートネー・ハウスに戻って、越冬 1809年 04/17、クートネー・ハウスを出発 06/24、ハウズ峠越えをして、フォート・オーガスタス着 07/18、毛皮が安全に船積みされたのを見届ける 08/20、家族とヤコブ・フィンレイと共にクートネー川に着き ボナーズフェリーへ行く 09/10、乗馬でアイダホ州北部クートネー地方のパンドレイ湖(Pend Oreille Lake)着 09/11、クリスペル・ハウス(Kullyspell House)の建設を始める 09/23、丸太造りのクリスペル・ハウスが完成。さらにクラーク・フォーク川(Clark Fork River)河畔に現: モンタナ州トンプソン・フォール(Thompson Falls, Montana)に行き、ワシントン州スポケーン (Spokane, Washington)近郷にサリシュ・ハウス(Saleesh House)を建設、越冬 1810年 05/09、サリシュ・ハウスを出発 サスカチワン(Saskatchewan)へ毛皮を運んで交易 07/04、ハウズ峠越えをして、カンバランド・ハウス着 07/22、北西会社本部のレイニー湖着 9月遅く、4隻のカヌーでフォート・オーガスタス着 夫人と子供を残してサスカチワン北部からコロンビア地方へ向う 途中のクートネー地方でブラックフット族の白人に対する脅威に出会い、 ボギー・ホール(Boggy Hall)へ向う 12/29、犬ゾリと雪靴でボギー・ホール着 1811年 01/18、飢えなどの困難を乗越えアサバスカ峠(Athabasca Pass:現:ジャスパー:Jasper, AB)を越える 山越えでコロンビア河支流カヌー川(Canoe rivers)着、河を遡上してクートネー・ハウスへ向か おうとするも、隊員達の反対でカヌー川で越冬 03/28、フォート・オーガスタスで第5子ジョシュア(Joshua)誕生 春になると杉材(cedar)で鎧張りした頑丈なカヌー(clinker-built canoes)を建造してコロンビア 河水系クートネー川からサリシュ・ハウスへ向い、1810年にトンプソン監督でフィンレイ(Jaco Finlay)が造ったスポケーン・ハウス(Spokane House、現:Spokane, Washington スポケーン)へ 6月末、コロンビア河のケトル・フォールズ(Kettle Falls)着
北西会社のトンプソンが先着するも記録されず 07/21、フォート・アストリアを出発 コロンビア河を遡上して交易所を隊員に建設させる 07/31、トンプソンは、ルイス&クラークが探検したスネーク河(Snake River 1,670km USA)へ向い、ス ポーケン川のスポーケン・ハウスに乗馬で着き、カヌーを建造し、アサバスカ峠西をカヌー川か らコロンビア湖に出て、コロンビア河を下って河口に着き、太平洋岸に出る全コースを踏破 11/19、アサバスカ峠越えして補給物資を運んだ後、コロンビア河を下ってスポケーン・ハウスから、 サリシュ・ハウス着、越冬 1812年 春に、サリシュ・ハウスを出発。まず、モンタナ州(Montana)ミズーラ(Missoula)へ測量旅行してルイス &クラーク探検のルートを確認 次いで、同州フラットヘッド湖(Flathead Lake)南端へ測量旅行 03/13、サリシュ・ハウスを出発 スポーケン・ハウス近くでカヌーを建造してフォート・ウィリアム(Fort William)へ測量旅行
子供3人が洗礼を受ける トンプソンの約88,000kmに及ぶ北西部への測量探検調査大旅行は、1812年に終了(42才)しました。 その後は地図アトラスの製作に加わり、モントリオールで余生を送りました。 1813年 07/30、ケベックのテレボン(Terrebonne, Quebec)でヘンリー(Henry)誕生 10月、米英戦争(War of 1812. 1812-1814)中にNWCがフォート・アストリアを太平洋毛皮会社(Pacific Fur Co)から$40,000ドルで購入 12月、英艦ラクーン(sloop-of-war HNS Raccoon 1808, 18gun, 425t)ブラック艦長(Black)がアストリア (Fort Astoria, Oregon、カナダ国境近く)を占領、フォート・ジョージ(Fort George)に改名 1821年に北西会社(NWC)とハドソン湾会社(HBC)が合併する迄、NWCの交易所となる 1814年 フォート・ウィリアム大集会所(Fort William's Great Hall)に約2mX3mの大地図が掲げられる 01/11、ボギー・ホールで5年前に生まれたジョンが亡くなる 02/22、厳しい環境での測量と毛皮交易の中で育った優しい娘エマ(7才)が亡くなる(涙) その後の15年に子供7人が誕生 1815年 家族をトレボンからオンタリオのウィリアムズタウン(Williamstown)へ移す 1817年 北西会社で地図を完成させるために再雇用され、ケベックに米国と英国領北アメリカで設立され たカナダ米国々境委員会(International Boundary Commission)に雇用移動 1821年 ハドソン湾会社と北西会社の間で、小ぜりあいが頻発し交戦状態になったので、両社はイギリス 政府の圧力で統合させられ、ハドソン湾会社が北西会社を吸収合併 ロンドンの地図製作業者アロースミス(Aaron Arrowsmith 1750-1823)がトンプソンの測量デー タを基に北米カナダの地図を作成 1825年 北西会社が破産してハドソン湾会社に吸収された時、トンプソンは£400ポンドの損害を被る 子供達のために種々のヴェンチャー事業に投資 1829年 イギリス陸軍の宿舎用木製ユニット(cordwood)事業に失敗して残りの財産を失う 1833年 63才で破産、測量事業を続けながら政府へ救済を請願 1843年 アロースミスの地図が完成するとイギリス外務連邦担当国務長官(British foreign secretary)が トンプソンに僅か£150ポンドを支給 1846年 76才で視覚が悪くなり、仕事ができなくなる 持っていた唯一の財産の測量器具を売り払って家族の生活費にあてる 1857/2/10 87才の誕生日前2ヵ月で永眠 3ヵ月後に生涯連れ添って苦楽を共にしたシャルロッテ夫人が亡くなりモントリオール・マウント・ ロイアル墓地(Montreal's Mount Royal cemetery)で、夫の側に葬られました。 参考HP:〜 ・トンプソンの探検地図(赤) ・アサバスカ河付近の地図(Athabasca River、Lake Athabasca、 Ft McMurray南東東にMethye Portage有、Clearwater River、など有) ・ハドソン湾からネルソン川をへてウィニペグ湖への地図 (Prince of Wales Fort、York Factory、Nelson River、Lake Winnipeg有) ・カナダの川の場所地図(Coppermine River, Canada:有) ・HBCカナダの大陸横断ルートの地図(ヨーク・ファクトリー〜フォート・ヴァンクーヴァー、1820) (York Factory, Norway House, Edomonton, Fort Assiniboin, Fort Colvile, Fort Nez Perces, Fort Vanvouver:有) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 13/8/10、13/9/15、13/11/11 |