★イギリス |
ヘンリー・ケルシー
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大航海物語★ |
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SWEEDEN 北極の地図 ベーリング↓海峡 スウェーデン↑(黒い所) スウェーデン 1989/8/22 発行小型シートより |
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New Zealand 17〜18世紀のイギリス帆船 ニュージランド 1995/2/9 発行 |
フォート・プリンス・オブ・ウェールズのあるチャーチル河 カナダ 1994/8/22 発行 |
イギリス生れのケルシーは少年期に大西洋を越えて、年季奉公でカナダのハドソン湾岸にできて間もないハドソン湾会社(HBC)に入社。HBCのためにカナダでビーバーなどの毛皮交易をしながら、HBC確立に重要な役割を果たし、カナダ北西部や北極までも探検しました。プレーリーと呼ばれる大草原を見た最初のヨーロッパ人となり、現地のスー族などの各部族や、バッファローの大群、またヒグマのグリズリーなどを見た最初のヨーロッパ人にもなりました。そして2回もフランスの捕虜になり、大西洋の横断航海は実に6回も無事に成し遂げ、ロンドンで亡くなりました。 |
ヘンリー・ケルシー(1667-1724/11/1) Henry Kelsey 別名:ボーイ・ケルシー(the Boy Kelsey) イギリスの毛皮商人(English fur trader)、北極探検家(Arctic explorer)、船長(Sailor) 生地:イングランドのロンドン生 没地:ロンドン、57才没 ケルシーは父ジョン(John Kelsey)の息子3人の長男で、ロンドンの東グリニッジ(East Greenwich, London)で生まれ、1784年17才で北米大陸カナダのハドソン湾岸へ渡航しました。そして、ビーバーなどの毛皮交易のため1670年に設立されたイングランドの国策勅許会社ハドソン湾会社(HBC:Hudson's Bay Company 1670/5/2〜)に年季奉公人で入社し、先住民と共にカナダ北西部からカナダ北極の探検をしました。 1690〜1691年の間は現地人クリー族(Cree)と共にハドソン湾からサスカチュワン川(Saskatchewan rivers 550km)を遡り、現在のマニトバ州北部を探検しました。現在のサスカチュワン州(SK)とアルバータ州(Alberta:AB)に最初に足を踏み入れたヨーロッパ人といわれています。また、ロッキー山脈東側の北アメリカ大陸中央部で中央平原西側に広がる温帯草原地帯のプレーリー(Prairie)や、バッファロー(American bison)の大きな群れ、グリズリー(Grizzly bear)、北アメリカ大陸の中西部でロッキー山脈の東側とプレーリーの間を南北に広がる台地状の大平原グレート・プレーンズ(Great Plains)に暮らす多くの先住民族などを見た最初のヨーロッパ人ともいわれています。1722年に55才でイングランドに帰国し、2年後に亡くなり、グリニッジの聖アルフェッジ教会に葬られました。 ▼ケルシーの大冒険 ・1684、初回の大西洋横断航海 ・1690、ネルソン川からカナダ西部の大草原(Great Plains)を探検、〜1692 ・1694、第2回大西洋横断航海 ・1696、第3回大西洋横断航海 ・1697、フランスの捕虜 ・1698、第4回大西洋横断航海 ・1706、第5回大西洋横断航海 ・1713、HBCヨーク・ファクトリー総督代理 ・1714、第6回大西洋横断航海 ・1717、フランスの捕虜 ・1718、HBCヨーク・ファクトリー総督(1718-1722) ・1719、北極探検 1684/3/15にケルシーはハドソン湾会社で4年間の年季奉公人(apprentice)となり、1684/5/6にルーシー号(HBC ship Lucy)船長ジョン・アウトロー(Cpt John Outlaw 1697没)で、カナダに向けてロンドンを出帆しました。ハドソン湾岸に注ぐネルソン川(Nelson River 644km)河口にあるハドソン湾会社の要塞で毛皮交易所のフォート・ネルソン(Fort Nelson)に上陸。その後そこはフランスに襲撃されたので、その南近くのヘイズ川(Hayes River 483km)河口にフォート・ヨーク(Fort York、現:ヨーク・ファクトリー:York Factory)が建設されました。1688年に年季奉公が終わり、冬になると、21才でケルシーの最初の探検行が始まりました。フォート・ヨークから郵便物(mail)を持って陸路で約322km南のフォート・セヴァーン(Fort Severn)HBC交易所へと現地人の少年と旅をしました。1689年には北方へ約378kmを旅して行くも氷に阻まれて、マニトバ州チャーチル河(Churchill River 1,609km)の北で、1689/6/7に丸太で交易所フォート・チャーチル(Fort Churtill)を造って現地人と交易を始めました。1689/6/26にフォート・ヨークへ戻ってきました。そしてイギリスへ戻ろうとしましたが果たせず、1690/6/12に内陸への探検に出発しました。 ・大草原への冒険旅行、1690-1692 Explore Travel to the Great Plains from Nerson River 1690年にフォート・ヨークのハドソン湾会社総督ジョージ・ゲイヤー(George Geyer)に、現地人との交易を始めるためのネルソン川水系(総延長:2,575km)探検を命じられました。1690/6/12にフォート・ヨークを現地人グループとカヌーでビーバーの毛皮(Beaver pelts)を求めて、交易用の銃(guns)や毛布(blankets)、釜(kettles)、手斧(hatchets)、ビーズ(beads)、タバコ(tobacco)などの見本を持って、ネルソン川を南西へと出発。
イントからスー族(Sioux)などが居る豊かな大草原のアスペン・パークランド(Aspen parkland)と プレーリー大草原へとクリー族(Cree)と出発。キャロット川(Carrot River, SK)をカヌーで探検、 遡上、サスカチワン(SK)へ徒歩でヨークタウン(Yorktown, SK)からアスペン・パークランドに入 る。大草原でバッファロー狩をする山岳部族の大集団アシニボイン族(Assiniboine)のタッチウ
04/24、ハドソン湾会社から再雇用の知らせを受け取る 夏に、カナダ渡航のため出帆 08月、 ヨーク・ファクトリーに到着 09/14、ネルソン川河口にフランス艦隊接近の知らせが届く 09/16、フランスのケベック総督フロンテナック(Governor Frontenac)の命を受けたピエール・ルモワー ヌ・ディバービル(Pierre LeMoyne d'Iberville 1661-1706)艦長のフランス艦隊サラマンダー号 (Salamandre)とポーリ号(Poli)の2隻がヨーク・ファクトリーを襲撃 10/14、イギリス守備隊53人とケルシーが降伏 ヨーク・ファクトリーがフランスに占領され、フォート・ブルボン(Fort Bourbon)に改名される 1695年 09月、補給が続かず、フランス艦隊が保管中の大量の毛皮を奪って、 フランスのラ・ロシェル(La Rochelle)へと出帆して去って行く 年末頃、ケルシーがイギリスへ帰国 1696年 05/18、ハドソン湾会社から再雇用の知らせを受け取る 06/02、グレーヴセンド(Gravesend)をカナダへとHBC武装商船が英海軍の護衛で出帆 07/19、英艦隊がヨーク・ファクトリーに到着 ヨーク・ファクトリーをフランスから奪還 1697年 08/31、フランス戦艦ペリカン号(Pelican 44gns 500t)がヨーク・ファクトリーへ艦砲射撃を開始 フランス軍900人が上陸して砦を攻撃 09/13、イギリス守備隊が降伏後、占領される フランスの捕虜となり、イギリスへ帰国 1698年 04/07、ロンドンの東グリニッチでエリザベス・ディックス(Elizabeth Dix)と結婚 後に3人の子宝に恵まれる 05/28、ハドソン湾会社から再雇用の知らせを受け取る デーリング3世号(Dering III)で新大陸へ出帆 ハドソン湾南のジェームス湾に注ぐアルバニー川河口近くの フォート・アルバニー(Fort Albany, James Bay)へ渡航
・月給£4ポンド、航海中の航海士(Mate) ・年俸£100ポンド、ハドソン湾での船長(Master) フォート・アルバニーへ渡航、 チーフ・トレーダー(chief trader)として交易に従事 1706年 03/17、 2番目の子供メアリー(Mary)がHBCの交易所で生まれる 1712年 08月、かつて船長で乗組んだナイト号(Knight)の乗客で出帆 イギリスへ帰国 1713年 ユトレヒト条約(Treaty of Utrecht)でHBCに復帰、総督代理となり年俸£100ポンドになる 11/16、3番目の子供ジョン(John)がヨーク・ファクトリーで生まれる 1714年 6回目の大西洋横断でヨーク・ファクトリーへ渡航 ヨーク・ファクトリー総督代理(Deputy Governor of York Factory)になる
9月にチャーチルに帰還してナイト探検隊の交易失敗を報告 1721年 ナイト船長(James Knight's expedition, 1719-1722)は1719年に引き続き、 1721年に黄金と北西航路の発見へと北極探検に出帆するも、行方不明となる 07/13、ケルシーがチャーチルを出帆 07/21、エスキモー(Eskimos、イヌイット族)と交易 07/23、エスキモーと交易 08/01、エスキモーと交易 08/09、ケルシーがチャーチルへと出帆、帰途に就く 1722年 ジョン・スクロッジ船長(Captain John Scroggs)を鯨漁調査に北極海へ派遣 前年のジェームス・ナイト北西航路探検隊の船の残骸をマーブル島(Marble Island)で発見、 隊員はエスキモーに殺された(?)と報告 10/31、ケルシーがロンドンに上陸、イギリスへ帰国 1724年 11/01、ロンドンのイースト・グリニッチ・チャーチ通(Church Street, East Greenwich)で没後 11/02、聖アルフェッジ教会(St. Alphege Church)に埋葬されました。 HBCからの給料について:〜(1688年=21才) ・1688〜1691、年俸£15ポンド ・1691〜1693、年俸£30ポンド ・1696、年俸£35ポンド ・1698、アルバニーでは年俸£30ポンドに減給 ・1701、イースト・メイン貿易(East Main trade)では年俸£50ポンドに昇給 ・1706-1718、年俸£100ポンドに昇給(1711年のアルバニーは除く) ・1718、総督になって年俸£200ポンドに昇給 さらに余得が入って少なくとも£2,500ポンドを蓄財したと言われる 探検の報酬:〜 ・1689、チャーチル河北方探検の見返りは無し ・1690-1692、大草原への冒険旅行、心付£30ポンドだけを受領 (かつてない大冒険行にもかかわらず最低の安報酬) なお、ケルシー没後の1730年にはエリザベス夫人が長男の修行費用を請願してギニー(guineas)金貨10枚(半ポンド)を受領し、1734年には洋服代に6ギニーを受領。 ケルシーに因む地名など:〜 ・ヘンリー・ケルシー上級公立学校、トロント近郊のスカーバロー ・ケルシー公園、サスカトゥーン ・「ヘンリー・ケルシー、平原の最初の探検家」タイトルの6セント切手をカナダ郵便発行 ・「ケルシー・キャンパス」、サスカチュワン応用科学・技術学院(SIAST)のサスカトゥーンキャンパスと名付ける ・サスカトゥーンにはケルシーフレンチバイリンガル小学校 ・サスカチュワン州のカナダ放送協会(CBC)系ラジオ局「CBK」のKとはケルシーのイニシャル ・「ヘンリー・ケルシー・ローズ」、農業・農業食品カナダ開発のバラ品種 参考HP:〜 ・ケルシーの探検地図(紫の線) ・グレートプレーンの場所地図 ・プレーリーの場所地図 ・カナダの川の場所地図(Coppermine River, Canada:有)
・発端 1669年に、ヨーロッパ列強は植民地の平和と中立を崩さないとしたホワイトホール条約が締結されたのに、その後の20年間に及ぶ不安定な関係が続いた後、1689年にヌーベルフランスとニューイングランドで本国の代理戦争として、イングランド領ニューヨーク植民地は、地元のインディアン部族であるであるイロコイ連邦を駆り立てて、ヌーベルフランスの入植地を襲わせ、ラシーヌの虐殺(Lacine massacre、ビーバー戦争中に起こった戦闘で1500人のイロコイ連邦(モホーク)族の兵が、1689/8/5の朝にヌーベルフランスのモントリオール島の入植地ラシーヌを奇襲)が起ってイングランドとフランス両国は交戦状態に入り、約百年続くビーバー戦争が勃発しました。 ・仏英艦隊の編成 フランスのディバービル艦隊5隻:〜 ・旗艦フリゲート艦ル・ペリカン号(frigate Le Pelican 44-guns, 150-men)、 ディバービル艦長 ・武装貯蔵船プロフォン号(Le Profond frigate Storeship 460t 32-flute canons) ピエール・ドゥ・グゥ艦長(Capt. Pierre Du Gue, Sieur de Boisbriand) ・武装輸送船ル・ヴェスプ号(Le Vesp/Weesph 300 t 20-26 guns) シャヴァリエール・デ・カストリエール艦長(Capt. Chevalier de Chastrier) ・フリゲート艦ル・パルミエール号(frigate Le Palmier 5th rate man-of-war, 300t, 20-26-guns) ジョセフ・ル・モイン・デ・セリグニィ艦長(Capt. Joseph Le Moyne de Serigny) ・武装補給船ル・エスキモー号(supply ship L'Esquimau, 150 ton brigantine 10-12 guns) ジャン・オウテラス艦長(Capt. Jean Outelas)、戦後に氷で破壊される イギリス艦隊3隻:〜 ・ハンプシャー号(fourth-rate ship of the line HMS Hampshire 1653, 479-tons, 50-guns) フレッチャー艦長(Capt. Fletcher) ・HBC武装貨物船デリング号(HBC Dering 260t 36-guns) ミッチェル・グリミントン艦長(Capt. Michael Grimington) ・HBC火船武装貨物船オウナーズ・ラヴ号(fireship HMS Owner’s Love 217t) ロイド艦長(Capt. Lloyd) ・フランス艦隊の襲撃 フランスのディバービル艦隊5隻がハドソン湾の攻略に向う途中で、旗艦ペリカン号は氷と濃霧のため他の艦と離れ離れになり、ディバービル艦長はペリカン号単独突入を決意しました。ヨーク・ファクトリーに接近したディバービル艦長はペリカン号で指揮をとり、兵士の一団を上陸させ、砦をどうやって攻略するかを偵察させました。その時、遠方に帆船の帆が見えると、ディバービル艦長はそれをフランス艦隊だと思い、ペリカン号をそちらの方向に向けるも、それが敵艦であることに気づきました。そしてペリカン号はイギリス艦隊3隻に包囲されました。イギリス艦隊は多くの兵士を揃え、また多くの大砲を装備しており、一方ディバービル艦長の兵の精鋭部隊は上陸しており、その他は壊血病のため船中にいたので、ペリカン号は危機に直面しました。 ・海戦 ディバービル艦長は上陸部隊を呼び戻すのは難しいと思い、捨て身の交戦を決意。海上での戦いは追撃戦で始まり、2時間半の後に接近したペリカン号とハンプシャー号は凄まじい片舷砲撃戦の応酬となりました。約4時間の砲撃戦でイギリス艦隊が優位になり、イギリスのフレッチャー艦長はディバービル艦長に降伏を迫るも、ディバービル艦長は拒否。その時、ペリカン号の砲弾がハンプシャー号の火薬庫に命中。ハンプシャー号は爆発・炎上して煙を出しながら、全乗員もろとも沈没しました。他の2隻の貨物船の内の1隻は、捨て鉢になって砲撃を行うも望みを捨て、マストに降伏の印しである白旗をすばやく掲揚、降伏しました。もう1隻は大急ぎで退却し、フランスのペリカン号の勝利になりましたが、ペリカン号も交戦中に破損し、喫水線の上に穴が開いて、破棄せざるを得なくなりました。 ・ヨークファクトリー攻略 ペリカン号は沈められ、乗員はヨーク・ファクトリーの直ぐ傍の南側野営地に集結しました。ペリカン号の代わりとなるプロフォン号をはじめとするフランス艦隊が到着。それから5日間、ディバービル艦長は900人の軍勢を率いてハドソン湾総督のヘンリー・バレイ麾下のイギリス守備隊と小競り合いを繰り返し、イギリス守備隊は9/13に降伏しました。フランスの手に落ちたヨーク・ファクトリーはブルボン砦と改称され、ハドソン湾でイギリスに残された交易所はオルバニー交易所のみとなりました。ハドソン湾会社がヨーク・ファクトリーを奪回したのは、その16年後のことでした。 ・その後(平和条約) ウィリアム王戦争後のレイスウェイク条約では、フランスがジェイムズ湾、イングランドがヨークファクトリーを確保することが決められていて、1697年9月20日に調印も終わっていたが、ヨークファクトリーがフランスのものとなったことで、逆に、フランスがヨークファクトリー、イングランドがジェイムズ湾を自国のものとするという条件で、改めて締結(Treaty of Utrecht 1713/4/13)がなされました。このため、イギリスはヨーク・ファクトリーに貯蔵していた2万ポンドの価値の毛皮をフランスに奪われました。 ・余談〜 ディバービル艦長のハドソン湾遠征(Hudson Bay expedition 1686) ディバービル艦長はフランス艦隊で大尉ピエール・デ・トロイ(Pierre de Troyes, Chevalier de Troyes 1688/5/8没)海兵部隊(Troupes de la marine)を率いて、1685/8月にモントリオール着。1686/3/20に海兵部隊20とカナダ民兵(Canadien militiamen)カヌー部隊60を率いて、モントリオールからハドソン湾
略年表:〜 ・1686、ディバービル艦長のハドソン湾遠征(Hudson Bay expedition) フォート・アルバニー、ムース・ファクトリー、ルパート・ハウスを襲撃・占領 ・1687/6、ディバービル艦長がソレイル・ディアフリカ号(Soleil d'Afrique)で来加。 ・1688、第1次フォート・アルバニーの戦い(1st Battle of Fort Albany)、 ディバービル艦長のソレイユ・ディアフリカ号が補給に成功 ・1693、第2次フォート・アルバニーの戦い(2nd Battle of Fort Albany) イギリスのジェームス・ナイト艦長艦隊が奪還 ・1694、ヨーク・ファクトリーの占領(Capture of York Factory) ディバービル艦長の襲撃隊がヨーク・ファクトリーを占領 ・1697、ハドソン湾の海戦(Sea Battle of Hudson Bay) ディバービル艦長のペリカン号がイギリス艦隊を殲滅 フランスがヨーク・ファクトリーを占領 16年後にイギリスがヨーク・ファクトリーを奪還。
・フォート・チャーチル(Fort Churchill)、ハドソン湾西岸チャーチル河々口 ・フォート・ネルソン(Fort Nelson)、ハドソン湾西岸ネルソン川河口 ・フォート・セヴァーン(Fort Severn 1689)、ハドソン湾西岸セヴァーン川河口 ・フォート・アルバニー(Fort Albany, ON, 1679)ジェームス湾西岸アルバニー川河口 ・ムース・ファクトリー(Moose Factory 1673)ジェームス湾南岸ムース川河口 ・ルパート・ハウス(Rupert House 1670)ジェームス湾東岸ルパート川河口 が建設される 1684年、最初の砦ヨーク・ファクトリーがヘイズ川河口に丸太造りで建設される 1693年、フランスのディバービル艦長のフランス艦隊サラマンダー号とポーリ号の2隻が ヨーク・ファクトリーを襲撃・占領 1696年、イギリス艦隊がヨーク・ファクトリーに到着 ヨーク・ファクトリーをフランスから奪還 1697年、フランスのディバービル艦長のペリカン号がイギリス艦隊を殲滅 フランス艦隊がヨーク・ファクトリーを襲撃・占領 1703年、イギリス艦隊がヨーク・ファクトリーに到着 ヨーク・ファクトリーをフランスから奪還 1718年、ヘンリー・ケルシーがHBCヨーク・ファクトリー総督に就任 1776年、サミュエル・ハーンがフォート・チャーチル(フォート・プリンス・オブ・ウェールズ)総督に就任 1782年、フランスのラ・ペルーズ麾下のハドソン湾遠征艦隊3隻が来航 フォート・チャーチルなどを襲撃・占領 1793年、石造りの星型要塞が建設される 1802年、アイザック・ブロック少将(Major-General Sir Isaac Brock、1769-1812)がカナダに到着 1812年、アイザック・ブロック少将の部隊がヨーク・ファクトリーに到着・駐留 1812年、米英戦争(War of 1812 、1812-1815)が勃発 1813年、米国艦隊14隻に兵2700人と砲85門が攻撃して、英が兵750人と砲12門で守るも ヨーク・ファクトリーがアメリカ合衆国に占領される 1814年、ジョージ・コックバーン提督がホワイトハウスを焼き討ちする イギリスがヨーク・ファクトリーを米国から奪還 1821年、HBCの本部となる(-1873) 参考HP:〜 ・ネルソン川と付近の場所地図(河口にヨーク・ファクトリー有) ・ハドソン湾南ジェームス湾フォート・アルバニーの場所地図(日本語、拡大付きMapcarta世界地図) ・HBCカナダの大陸横断ルートの地図(ヨーク・ファクトリー〜フォート・ヴァンクーヴァー、1820) (York Factory, Norway House, Edomonton, Fort Assiniboin, Fort Colvile, Fort Nez Perces, Fort Vanvouver:有) ・ヘイズ川の場所地図(河口にヨーク・ファクトリー有) ・ネルソン川とヘイズ川の場所地図(河口にヨーク・ファクトリー有) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 13/8/13、13/9/15 |