Spain 国連 1988 発行 |
切手で綴る 歴史の証人シリーズ (Historical
Witness)No.7
フランコ総統 1951 アフリカ植民地を歴訪 |
大航海物語 スペイン編★ |
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1936 フランコ総統25年記念 1961 |
フランシスコ・フランコ・イ・バアモンデ (Francisco Franco y Bahamonde, 1892/12/4〜1975/11/20) フランコ総統はガリシア出身のスペイン軍人から政治家になり、やがて独裁者(総統)になって、 反対勢力を粛清したといわれていますが、果たしてその実像や如何に:〜 1892、スペイン北西部ガリシア地方フェロル(Ferrol, Galicia)で軍人の子として誕生 1907、Gカスティーリャ=ラ・マンチャ州トレドの陸軍士官学校に入校 1909、メリリャ近郊で第2次リーフ戦争(2nd Rif War 1909)が、7/9に勃発、 スペインは大損害をだして、1910/1月に反乱を鎮圧 1910、トレドの陸軍士官学校を卒業、7月に18才で少尉に任官 1912、20才で、頑強な独立運動が展開されていたスペインの植民地モロッコに派遣され、 同地で以後5年間、ベルベル人の独立を求める反乱(リーフ戦争、1909-1927)鎮圧 にあたり、現地のアフリカ人部隊を指揮して反乱軍と戦い、6月に陸軍中尉に昇進 1914、第1次世界大戦が勃発(-1918)、スペインは中立国でほとんど直接の影響なし
マリア・カルメン・ポロ(Maria del Carmen Polo y Martinez-Valdes, 1900-1988)と結婚 1925、陸軍大佐(Colonal)となってモロッコ北部リーフ地方ホセイマ(Al Hoceima)上陸作戦を指揮 1926、陸軍の将軍(General、34才)となる フランス・スペイン連合軍の攻撃でリーフ共和国(Republic of the Rif 1921-1926)が滅亡 長女マリア・カルメン(Maria del Carmen)誕生 1928、新設のサラゴサ陸軍士官学校(General Military Academy of Zaragoza)の校長となる 1931、ブルボン王朝が倒されて国王アルフォンソ13世が退位した後、 第二共和政(Segunda Republica Espanola 1931-1939)成立し、 王族は国外へと追放され、フランコは半年間の監視を受ける 1932/2/5、共和政府がガリシア州ア・コルーニャ県都ア・コルーニャ(A Coruna)軍司令官 1933/2/17、バレアレス諸島の軍司令官に降格 1934/10/5、右翼の内閣が成立して左翼政党が抗議のゼネストライキを呼びかける、 スペイン北部アストゥリアス地方でゼネストに決起した鉱山労働者を武力鎮圧 1935、その功績により陸軍参謀総長に任命される 1936/2月、総選挙で左翼勢力を中心とする人民戦線内閣が誕生すると、 フランコは参謀総長を解任され、カナリア諸島総督に左遷される 1936/7月、フランコ将軍がサンフルホ将軍やエミリオ・ビダル将軍などとクーデターを起こし、 スペイン各地で反乱が頻発、後にスペイン内戦(1936/7/17-1939/4/1)と呼ばれる戦争が勃発 07月、スペイン領モロッコと本土で軍隊が反乱を起こすと、モロッコのセウタに飛んで 反乱軍を指揮して本土に侵攻。保守勢力が反乱軍を支援したため、 反乱はスペインを二分する大規模な内戦に発展。サンフルホ将軍が飛行機事故で 亡くなり、初戦に反乱軍は敗北を重ねるなど長期化の様相を見せ始め、 トレド陥落など戦功めざましいフランコ将軍がビダル将軍に代わって司令官となる 1936/10/1、ブルゴスで反乱軍(国民戦線軍)の総司令官に指名され、国家元首に就任、 国家元首の総統(Caudillo カウディーリョ)称号を用い、国家行政委員会を設置 1938/1/30、国家行政委員会をを改組して正式に内閣制度を導入、フランコは国家元首兼首相 その後、ファシスト国ドイツやイタリア軍の支援を受けて人民戦線政府勢力と戦う 人民戦線はソ連や国際旅団(各国の義勇兵)の支援を受けるも、劣勢 1939/3/27、マドリードが陥落、人民戦線政府が崩壊 03/27、フランコは日独伊防共協定に加入 03/31、スペイン全土を制圧 04/01、フランコ総統は内戦終結を宣言 08/08、国家元首法を公布、緊急立法権が付与され、強大な権限で国家を再建 09月、第2次世界大戦(1939-1945)の勃発で中立を宣言するも、 ポルトガルと同様、枢軸国側に近づく 1940/10月、ドイツのアドルフ・ヒトラー総統と、ヴィシー政府統治の国境のアンダイエで会談 1941、太平洋戦争開戦後、アメリカの植民地のフィリピンに日本軍が進攻し、 ホセ・ラウレル政権が樹立されると、フランコ政権はラウレル大統領に祝電を送る 06/22、ヒトラーがソ連侵攻バルバロッサ作戦を開始すると、国中の熱狂的なファシスト主義者 1万人近くを集めて青師団を創設、義勇兵部隊としてナチス・ドイツへ派遣 1943頃、連合国が優勢になると、再び中立を誇示する 1944頃、青師団について連合国側各国から批判が集まりフランコは撤兵を約束、 国内に対して反対する者は厳罰に処すると声明 1945、第2次世界大戦が連合国の勝利で終結 1946/12月、国連総会でファシズムの影響下にあるスペインを国連から排除する決議を採択 1951/7/18、フランコ総督がアフリカ植民地を歴訪の途次、サハラを訪問 1953/9月、アメリカはスペインと米西防衛協定を締結、その協定によるアメリカの軍事援助と、 国際的孤立から抜け出して観光収入増大で、スペインの国際収支は黒字に転じ、 遅れていた主要産業も発展し始め、スペイン史上初めて中産階級と呼べる層が出現 1958、中産階級をバックに高まる自由主義運動を厳しく抑圧する 亡命者のメキシコやスイスなどからの帰国を認める 1959/12月、アメリカ合衆国のドワイト・アイゼンハワー大統領と会見、 アメリカとの関係は飛躍的に改善される 1966、任命制の議員の一部を選挙制に切り替えるなど冷戦の影響下、 左右に揺れ動くスペイン国内の社会不安の緩和に努める 1947、フランコ総統は「王位継承法」を制定、 スペインを「王国」とすること、 フランコが国家元首として「王国」の終身の「摂政」となること、 フランコに後継の国王の指名権が付与されることなどを定める 1947/7/16、王位継承法が国民投票で成立、フランコは終身国家元首となる 1973、腹心ルイス・ブランコを後継者に指名しようとしたが、ETAによるテロで乗っていた 自動車ごとブランコが爆殺される 1975、長い闘病生活の後、前国王アルフォンソ13世の孫フアン・カルロスを後継者に指名、 30年間の独裁体制を維持し83才で亡くなり、マドリードのエル・エスコリアルの北東 約10kmにある国立の慰霊墓地バジェ・デ・ロス・カイードス( Valle de los Caidos) 「戦没者の谷」に葬られました。 1975、フランコ総統が亡くなると、総統の遺言どおりにスペインにボルボン王朝が復活 フアン・カルロス1世は即位後、一転して政治の民主化を推し進める 1977、総選挙を実施 1978、議会が新憲法を承認、正式に民主主義体制へ移行、この様な議会制民主主義及び 立憲君主制への速やかな移行は、その順調さから「スペインの奇跡」と呼ばれる 1981/2/23、国王親裁の復活を求める右派軍部アントニオ・テヘーロ中佐クーデター未遂事件、 議会が占拠され内閣閣僚と議員350人が人質に取られるも、国王は軍部右派勢力の 呼びかけを拒否して民主制の維持、陸軍反乱部隊やテヘーロらも国王の呼びかけに 応じて投降したため、国民から国王への信頼は不動のものとなる 2007/10/31、スペイン下院議会はスペイン内戦とフランコ政権下の犠牲者の名誉回復、 公の場でのフランコ崇拝の禁止などを盛り込んだ通称「歴史の記憶法」(Ley de Memoria Historica)を与党社会労働党などの賛成多数で可決、上院も可決成立 2008/10/17、内戦中及び独裁政権時代に住民の殺害や拉致を命じたとして、 フランコ以下35人を「人道に対する罪」等で起訴、アムネスティは内戦中及び フランコ政権下で市民11万4千人が殺害、もしくは行方不明になっているとして、 スペイン政府に犠牲者のための真実を解明するよう求めている 2008/12月、カンタブリア州サンタンデール市広場7mブロンズのフランコ像(1964建立)を最後に全て撤去。 参考HP:〜 ・リーフ共和国の場所地図 参考:〜 ・スペイン領アフリカ〜 ・プラサス・デ・ソベラニア ・セウタ ・イフニ ・西サハラ ・フェルナンドポー ・リオムニ ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2011/4/11 |