Portugal

国連 1989 発行
切手で綴る 冒険大航海(Adventure Voyages)ポルトガル発見者の群像(2-3
フェルナンド・ポー船長
1469
フェルナンド・ポー島を発見

大航海物語
ポルトガル編

S.TOME .PRINCIPE
(St.Thomas & Prince Islands)
フェルナンド・ポー船長

ポルトガル領サントメ・プリンシペ 1952 発行
Mozambique
15世紀ポルトガル・カラベル船

モザンビーク 1963/12/1 発行

S.TOME .PRINCIPE
メルカトル・ホンディウス版アトラスの1610年版地図
アフリカ・ギニア海岸の拡大図
アフリカ西海岸







サントメ島



アフリカ




赤道ギニア領
←-
ビオコ島-→

プリンシペ島

サントメ島

アンノボン島
フェルナンド・ポー島
ビオゴ島


フェルナンドポー1961発行
1492 コロンブス新大陸発見500年記念 1992
サントメプリンシペ 1991/10/12 発行

フェルナン・ド・ポー (生年没年不詳)
 Fernao do Po
フェルナンド・ポーはポルトガルアフォンソソ5世(Afonso V, 1432〜在位:1438〜1481)時代のポルトガル船長の一人として、宮廷に出仕していました。
そしてポー船長(1469年ビオコ島発見)は
・フェルマオ・ゴメス船長(Fernao Gomes、1471年エル・ミナ到達)の船隊で、
ジョアン・デ・サンタレン船長(1469年エルミナ到達)
ペドロ・エスコラール船長(1470年サントメ・プリンシペ島発見)
ロポ・ゴンサルヴェス船長(1473年ガボンロペズ岬到達)
・ペドロ・デ・シントラ船長(Pedro de Sintra、1460年シェラレオーネ到達)
らと共にギニア湾岸貿易に従事していました。

1469年にポー船長がインド航路の開拓を目指す探検航海を志し、アフリカ西岸を航海して南下し、東へとギニア湾の奥深くへ入り、ビアフラ湾の中でナイジェリアの丁度南に大きな島を発見し、その島が花咲き美しい光景を呈していたので、フォルモサ島(Formosa Flora Island、美しい花の島)と命名しました。3年後の1472年にはそこへ上陸しました。

1494年にポルトガル人はそこフォルモサ島をフェルナンド・ポー島(Fernando Po、現:ビオコ島)と改名して砦を築き領有しました。ポー船長はフォルモサ島からココアの種をガーナへ移植することに成功したとも伝えられています。なお、1474年には南西に690km離れたアンノボン島に到達したともいわれていますが、定かではありません。

なお、1472年にカメルーンの現:ドゥアラ(Douala)に上陸してウォリ川(Wouri River、160km)を「小エビの川」(リオ・ドス・カマラウン、Rio dos Camaroes)と命名したのが、現在の国名カメルーン(Cameroon)の由来とされています。

参考:〜
ビオコ島
  Bioko
 (フェルナンド・ポー島)
面積:約2017ku、人口:約124,000人(2002)、最高峰:マラボ火山(3,008m)。ビオコ島は赤道ギニア領のギニア湾西部でビアフラ湾との境に浮かぶ島で火山島。島内最大都市は首都のマラボ。ビオコ島は南北70 km、東西60 kmで北北東から南南西に延びる島。サントメ・プリンシペ両島をはさんで南西に690 km離れた赤道ギニア領アンノボン島(面積約17ku)有。ビオコ島の海岸線は単調で、167km有。地理的には東方のカメルーンに近く、56kmしか離れていない。一方、南東のリオムニへは260 kmと遠方に有。北部には成層火山マラボ山(サンタ・イサベル山)が有。南部はモカ台地を初めとする高地となり、南西部には直径5kmのカルデラ地形有。南部の山岳は浸食が早壮年期の段階にあって断崖と深い渓谷が縦横に走るため交通手段がなく
ビオゴ島
居住に向かなかった。1469年にポルトガルのフェルナン・ド・ポーが発見してフォルモサ島と命名。後にフェルナンド・ポー島と改名された。ポルトガル人はビオコ島に砦を築き領有したが、1778年にスペインに割譲。ビオコ島は奴隷貿易の中継基地となったが、1823〜1843年の間、イギリスの賃借地となり、奴隷制度が廃止となる。ビオコ島の気候が、特に降水パターンがカカオの栽培に向いていたので、植民地時代にはナイジェリア東部から半強制的に連れてきたイボ族とイビビオ族を栽培に従事させてプランテーションを経営した。 カカオの木から実を収穫
これらの住民はニヘリアノスと呼ばれている。第2次世界大戦後は1958年に赤道ギニアはスペインの県となり、現地住民はスペインの市民権を獲得。

1963年にはフェルナンド・ポー県(ビオコ島)とリオムニ県に分かれた。1966年に将来の独立が決まり、1968/10/12に赤道ギニア共和国として独立。カカオプランテーションではナイジェリア人季節労働者が栽培に携わっていたが、赤道ギニア政府の支給する賃金や労働条件が劣悪であるため、ナイジェリアとの間で関係が悪化、1975年には季節労働者の渡航を制限したため、2000年時点ではプランテーション労働者が不足している。1992/4月にアクバ油田の原油生産が始まり、1996年からはアメリカ合衆国のモービル石油が海底油田ザフィーロ油田からの原油採掘を開始して石油ブームが起きた。

参考HP:〜
ビオコ島の地図(旧名:フェルナンド・ポー島)
ギニア湾の地図(ビオコ島の場所地図)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。平成22年 2010/8/8、17/2/26、令和6年 2024/4/24

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