India 国連 1984 発行 |
切手で綴る ポルトガルのインド攻略(XIV)
ボンベイ Bombay |
大航海物語 地図編★ |
ボンベイ |
・ボンベイ Bombay 現:ムンバイ(Munbai) ボンベイはポルトガルがインドに到達すると早くも1529年にポルトガルが遠征した所ですが、1995年に英語での公式名称がボンベイ(Bombay)から、現地語(マラーティー語)での名称にもとづくムンバイへ(Munbai)に変更されました。ムンバイはインドの西海岸に面するマハーラーシュトラ州の州都で、インド及び南アジアを代表する世界都市です。インドでは首都ニューデリーに次ぐ第2位、人口は1366万と世界でも屈指の都市で、2010年の国際連合の統計で近郊を含む大都市圏人口は21,255千人と世界第3位で、 1)東京35,200千人、 2)ジャカルタ22,000千人、 4)デリー20,955千人、 5)マニラ20,795千人、 6)ニューヨーク20,610千人、 7)サンパウロ19,893千人、 8)ソウル・仁川19,910千人、 9)メキシコシティ18,690千人、 10)上海18,400千人、 11)カイロ17,290、 12)大阪・神戸・京都17,000千人となっています。 1498年、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがインド(カリカット)到達に成功 1529年、ポルトガルのヌーノ・ダ・クーニャ副王が遠征軍を侵攻させる 1534/12/23、ポルトガルがバサイン条約(Treaty of Bassein)でグジャラートの土侯から この地域を譲り受け、ゴアの補助港として港を建設して城塞都市を築き、 ボンベイと呼び、7つの島がディエゴ(Mestre Diogo、1548没)に貸与される 7つの島(Mahim、Parel、Mazagaon、Bombay、Little Colaba、Colaba) 1540年、聖ミッチェル教会(St. Michael)を建設 1545年、ポルトガルのカストロ副王が遠征軍を送り、ボンベイ近郷のパレル(Parel)、 ワダラ(Wadala)、シオン(Sion)、ウォリ(Worli)の村々を1548年までに占拠 1661年、ポルトガルのカタリナ王女がイギリスのチャールズ2世と結婚する際、ボンベイは 持参金としてイギリス側に委譲され、ポルトガルのボンベイ植民地支配が終り、 イギリス植民地時代にはボンベイ管区の中枢として、 城塞の中に公会堂・税関などさまざまなイギリス風の施設が建設される 1662/3/19、イギリスのシップマン(Abraham Shipman)の艦隊がボンベイに来航 1668年、英国王家はこれを10ポンドでイギリス東インド会社に貸し付け、対岸に良港が有 1687年、インドのイギリスの拠点となり、島の間の埋め立てが進められて市街地として発展 1850年代、鉄道と綿紡績工場の建設は、この地の産業を大きく発展させる 1861年〜65年のアメリカ南北戦争では、アメリカからイギリスへの綿花輸出が停止して、 ボンベイの綿織物業は飛躍的に拡大 1869年、スエズ運河開通は、ボンベイ港の重要性をさらに高める 20世紀、2度の世界大戦を通じてボンベイはコルカタ(カルカッタ)を抜く商工業都市となり、 1945年、大日本帝国無条件降伏、第2次世界大戦終結 1947年、インドがイギリスから独立、インドにおけるイギリスの植民地支配が終る インド独立後はボンベイ州の州都となる インド独立に際してはティラクやマハトマ・ガンディーらの民族運動の拠点となる 1960年、言語の違いから、州の北がグジャラート州、南がマハーラーシュトラ州に分割され、 ボンベイはマハーラーシュトラ州の州都となる 1995年、英語の公式名称がボンベイから現地語の「ムンバイ」に変更される 現在もムンバイは西インドのみならず国全体の産業や文化の一大中心地 2008/11/26、ムンバイ同時多発テロが起こり多数の死傷者が出る 参考HP:〜 ・ボンベイの場所地図(広域) ・ボンベイの場所地図 ・ボンベイの地図 ・ボンベイ7つの島の地図 ・インドの地図(日本語) ・インド植民地の地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 10/10/13 |