インド共和国 Republic of India |
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AZADHIND 全インドの地図 ![]() パキスタン・バングラデッシュ分割前 西のインダス河・東のガンジス河 自由インド政府 発行 |
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インド共和国 Republic of India 面積:3,287,263平方キロメートル(パキスタン、中国との係争地を含)、人口:10億2,702万人(2001)国勢調査は10年に1度)、人口増加率1.95%(年平均)、首都:ニューデリー(New Delhi)、民族:インド・アーリヤ族、ドラビダ族、モンゴロイド族など、言語:連邦公用語はヒンディー語、他に憲法で公認されている州の言語が21有、宗教:ヒンドゥー教徒80.5%、イスラム教徒13.4%、キリスト教徒2.3%、シーク教徒1.9%、仏教徒0.8%、ジャイナ教徒0.4%(2001)、識字率:64.8%(2001)、1番切手:発行。 南アジア随一の面積と世界第2位の人口を持つ大国である。10億人を超える国民は、多様な民族、言語、宗教によって構成されている。州境を越えるとまったく違う言語が話され、それぞれの文化芸術があるため欧米ではよく「インドは国と言うより大陸である」と表現される。中央政府とは別に各州に政府があり大臣がいる。主な言語だけで15を超えるためインド政府が発行する紙幣には17の言語が印刷されている。ヒンドゥー教徒が最も多く、ヒンドゥー教にまつわる身分制度であるカースト制度の影響は今でも残っており、複雑な身分制社会を形成している。貧困に苦しむ人が多い国であるとされるが[3][4]、近年の経済発展のおかげで低所得者層の生活も改善されつつあるとする見方もある[5]。 1947年のイギリスの植民地からの独立の際、それまでのインドは、インドとパキスタンに分裂した。その後、パキスタンの飛び地となっていた「東パキスタン」が1971年にバングラデシュとして独立している。 紀元前3500年頃、ドラヴィダ人がインダス川流域に西アジアから移住してきた 紀元前2600年頃〜紀元前1700年頃、インダス文明 インダス川流域にインダス文明が繁栄 パンジャブ地方のハラッパー、シンド地方のモエンジョ・ダロなどの遺跡、 沿岸部のロータルでは造船が行われていた痕跡がみられ、メソポタミアと交流していた 焼き煉瓦を用いて街路や用水路、浴場などを建造し、一定の都市計画で建設された、 紀元前2000年頃、衰退へとむかった。この頃になると各地域ごとに文化発展がみられ、 アハール文化、マールワー文化、ジョールウェー文化などが挙げられる 紀元前1700年頃までにインダス文明が滅亡、その要因として環境問題などが指摘されている インダス文字が未解読ではっきりしていない。インダス文明の影響として、沐浴の習慣や リンガ信仰などが挙げられるほか、彼らの神像がシヴァ神の原形と考えられている。 紀元前1500年頃〜紀元前1000年頃、前期ヴェーダ時代 アーリヤ人がカイバル峠を越えてパンジャブ地方に移住、先住民を征服 アーリヤ人は部族集団で構成され「ラージャン」が部族を率い、軍事力で先住民を圧倒し 先住民から農耕文化の諸技術を学び、前期時代後半に牧畜生活から農耕生活へ移行 司祭者バラモンがヴェーダの神々をまつり、バラモン教が成立。 紀元前1000年頃、 後期ヴェーダ時代とガンジス文明 十六大国 紀元前1000年頃より、アーリヤ人はガンジス川流域へと移動した。そして、この地に定着して本格的な農耕社会を形成した。農耕技術の発展と余剰生産物の発生にともない、徐々に商工業の発展も見られるようになり、諸勢力が台頭して十六王国が興亡を繰り広げる時代へと突入した。こうした中で、祭司階級であるバラモンがその絶対的地位を失い、戦争や商工業に深く関わるクシャトリヤ・ヴァイシャの社会的な地位上昇がもたらされた。十六大国のうち、とりわけマガダ国とコーサラ国が二大勢力として強勢であった。 ウパニシャッド哲学と新宗教 ガンジス川流域で諸国の抗争が続く中、バラモンに代わりクシャトリヤやヴァイシャが勢力を伸ばすようになった。こうした変化を背景にウパニシャッド哲学がおこり、その影響下に釈迦(ガウタマ・シッダールタ)によって仏教が、マハーヴィーラ(ヴァルダマーナ)によってジャイナ教がそれぞれ創始され、「六師外道」とも呼称された自由思想家たちが活躍した。 マウリヤ王朝の成立 マガダ国とコーサラ国の抗争は、最終的にマガダがコーサラを撃破することで決着した。紀元前4世紀後半、そのマガダ国のナンダ朝をチャンドラグプタが打倒したことで、マウリヤ朝が成立した。王位を息子のビンドゥサーラに譲ったチャンドラグプタはジャイナ教徒になったといわれている。 1947年 英国領より独立 1950年 インド憲法の制定 1952年 日印国交樹立、第1回総選挙 1950年代〜 コングレス党が長期間政権を担当 (但し、1977〜1980年、1989〜1991年を除く) 1990年代 経済自由化政策の推進 1998年 インド人民党(BJP)を中心とする連立政権が成立 2004年 コングレス党を第一党とする連立政権が成立 2009年 コングレス党を第一党とする連立政権(第2次マンモハン・シン政権)が成立 インダス文明・ガンジス文明 マウリヤ帝国と古代インドの諸王朝 マウリヤ帝国のインド統一 [編集] 詳細は「マウリヤ朝」を参照 紀元前4世紀、最初の統一国家であるマウリヤ朝が成立し、紀元前3世紀のアショーカ王の時代に最盛期を迎えた。南端部をのぞくインド亜大陸の全域を支配し、ダルマにもとづく政治がなされ、官僚制が整備され、また、属州制を導入するなど中央集権的な統治体制が形成され、秦やローマ帝国と並ぶ古代帝国が築き上げられた。しかし、アショーカ王の死後より弱体化が進み、紀元前2世紀後半に滅亡した。その後、西暦4世紀にグプタ朝が成立するまでの数百年、北インドは混乱の時代をむかえることとなった。 クシャーナ朝 マウリヤ朝の滅亡後、中央アジアの大月氏から自立したクシャーナ朝が1世紀後半インダス川流域に進出し、プルシャプラ(ペシャーワル)を都として2世紀のカニシカ王(カニシュカ王)のもとで最盛期を迎えた。この王朝は、中国とペルシア、ローマをむすぶ内陸の要地を抑えており、「文明の十字路」としての役割を果たした。この頃、仏教文化とギリシア美術が結びつきガンダーラ美術が成立した。クシャーナ朝は、3世紀にサーサーン朝ペルシアのシャープール1世による遠征を受けて衰退し、滅亡へと至った。 サータヴァーハナ朝と古代交易網 [編集] 詳細は「サータヴァーハナ朝」を参照 2世紀になると、南インドではデカン高原のサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)をはじめとする諸王朝がローマ帝国など西方との季節風貿易で繁栄した。南インドではローマ帝国時代の金貨が大量に出土しており、当時の交易がきわめて活発だったことを裏付けている。インドからは綿織物や胡椒が輸出された。このころはまた、北インドのバラモン文化が南インドにもたらされ、仏教が広がっていった時期でもあった。 なお、エジプトのギリシア系商人が著した『エリュトゥラー海案内記』は、当時の季節風貿易の様子を知る貴重な史料とされている。 大乗仏教のおこり マウリヤ朝の崩壊からグプタ朝の成立までの時期の北インドは、政治的には混乱していたが、文化的には仏教やバラモン教の教義が発展し、すぐれた彫刻の生まれた時期でもあった。 西暦1世紀はじめには大乗仏教がおこり、2世紀にはナーガールジュナ(龍樹)が現れて「空」の思想を説いた。現代の大乗仏教は、アフガニスタンから中央アジアを経由して、中国、朝鮮半島、日本へ伝播した(北伝仏教)。また、ヴェーダの宗教であるバラモン教と民間の土俗信仰とがさかんに混淆し、ヒンドゥー教のもとが形成された。 仏像彫刻では、上述のガンダーラのほか、マトゥラーではインド様式による製作がなされるようになった。 二大叙事詩と『マヌ法典』 この時期はまた、『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』のインド二大叙事詩がかたちづくられた時代でもあった。マハーバーラタは史上最大の規模をもつ壮大な叙事詩であり、ともに後世のインドのみならず東南アジアにも広がって多大な影響をあたえた。ここでは、ヴェーダの神々への信仰は衰え、シヴァ、ヴィシュヌ、クリシュナなどの神々が讃えられている。 ダルマ・シャーストラで最も重要なものとされる『マヌ法典』は2世紀ころまでに成立したとみられ、バラモンの特権的地位を規定したほか、4ヴァルナの秩序が定められた。現代のインド人の生活のみならず、その精神にまで深く根ざしており、その影響力は計り知れない。これもまた『ヤージュニャヴァルキヤ法典』と並んで、東南アジア世界に大きな影響をおよぼした。 インド古典文化の完成 グプタ朝の成立とヒンドゥー教の確立 4世紀前半、グプタ朝がパータリプトラを都として成立し、4世紀後半から5世紀にかけて北インドを統一した。チャンドラグプタ2世の時代に最盛期を迎え、官僚制度・軍事制度が整理され、サンスクリットが公用語に定められた。4世紀から5世紀にかけてのこの時代は、インド古典文化の黄金時代とされる。宮廷詩人のカーリダーサが戯曲『シャクンタラー』や『メーガ・ドゥータ』などの作品を残した。 また、バラモン教と民間信仰が結びついた形で、ヒンドゥー教がこの時代に確立され民衆に広まった。上述した二大叙事詩やヒンドゥー二大法典が広く普及したのもグプタ朝の時代である。 いっぽう、仏教教団も勢力を保ち、アジャンター石窟寺院やエローラ石窟寺院などにおいて優れた仏教美術が生み出された。また、5世紀にはナーランダ僧院が建てられ、インドはもとより東南アジアやチベットなどの各地から多数の学僧を集めて教典研究が進められた。 医学・天文学・数学なども発展した。「ゼロ」を発見したのも、古代インド人だといわれている。 グプタ朝は、5世紀以降「白いフン族」と呼ばれたエフタルの中央アジアからの侵入に悩まされ、6世紀半ばには滅亡へと追い込まれた。貴族や都市民の寄進などによって成り立っていた仏教教団は、グプタ朝の弱体化・分権化にともなってその保護者を失っていった。 ヴァルダナ朝とラージプート時代の到来 6世紀後半の北インドは政治的分裂の時代にあったが、7世紀初頭になってハルシャ・ヴァルダナ(戒日王)が現れ、カナウジを都としてヴァルダナ朝を創始した。ハルシャ王は、仏教とヒンドゥー教を保護し、地方有力者には領土を封ずるかたちでの統治を推進し、また、カナウジはその後北インドの政治の中心となって発展した。ハルシャ王の時代、唐僧の玄奘がインドに訪れ、ナーランダ僧院で教典研究にいそしみ、多数の仏典を持ち帰ってその後の漢訳仏教の基礎が固められた。 ヴァルダナ朝はハルシャ王一代で瓦解し、これらの古代王朝の後、7世紀半ば以降はラージプートの諸王朝が分立して北インドは再び分裂した。義浄が訪れたのも分裂時代のインドであった。ラージプートは、中央アジア方面から北西インドに侵入した異民族の子孫だといわれている。かれらは軍事的にすぐれ、各地を支配し、その下に大小領主層がいて、地主や農民を支配した。プラティハーラ朝がそのなかで最大のもので、イスラム勢力の侵入を11世紀初頭まで食いとめたことで知られる。また、10世紀から12世紀頃にかけてチャンデーラ朝の歴代君主は、世界遺産にもなっているカジュラーホーの寺院群を建設した。 こうしたなかで職能集団が形成され、それぞれ世襲化されるようになり、今日のカーストにつながる「ジャーティ」と呼ばれる集団単位が成立していったとみられる。 南インドの諸王朝 武勇をほこったハルシャ王も、デカン高原を本拠とするチャールキヤ朝にだけは敗れ、南インド進出は阻まれた。6世紀から8世紀にかけての前期チャールキヤ朝には、7世紀のプラケーシン2世や8世紀のヴィクラマディーティヤ2世などの君主が現れ、とくにヒンドゥー教建築の隆盛は顕著で、チャールキヤ朝のさらに南にあってそれと対峙したタミル人王朝パッラヴァ朝の建築は高水準をほこった。パッラヴァ朝時代の建築としてはマハーバリプラムの建造物群が著名で、その技術はヴィクラマディーティヤ2世によってチャールキヤ朝に伝えられ、首都バーダーミや「戴冠の都」パッタダカルに数多くの寺院建築を生んだ。 前期チャールキヤ朝は封臣の1人であったダンティドウルガに王位を追われ滅亡、ダンティドウルガはラーシュトラクータ朝を創始し、プラケーシン2世の弟から分かれた東チャールキヤ朝と対峙した。ダンティドウルガには子がなかったため、叔父のクリシュナ1世が継ぎ、エローラ石窟群のカイラーサナータ寺院を建設した。いっぽう、パッラヴァ朝もさらに南方にあったパーンディヤ朝と抗争し、台頭するチョーラ家などとも合従連衡を繰り返したが、最終的にはヴィジャヤラーヤ創始のチョーラ朝によって滅ぼされた。 北インドのイスラーム化と南インド ガズナ朝・ゴール朝の侵入 10世紀後半、中央アジアにあったイラン系王朝サーマーン朝のテュルク系マムルークであったアルプテギンがアフガニスタンで自立してガズナ朝を建て、しばしば北インドへ侵入してパンジャーブを領有した。ガズナ朝にかわり台頭したテュルク系のゴール朝も北インドに進出し、この地の統治を図って北インドのラージプート諸王国の連合軍と対峙した。連合軍は、内部の結束が整わず、大敗した。いっぽう、ゴール朝のマムルークであったアイバクは、ゴール朝の軍とともに北インドにとどまり、1206年にデリーに都をおいて奴隷王朝を建てて自立した。これより約300年間、デリーを都としたムスリム五王朝が興亡を繰り広げた。この時代をデリー・スルタン朝と称する。 デリー・スルタン朝 奴隷王朝、ハルジー朝、トゥグルク朝、サイイド朝、ロディー朝の君主はいずれもスルタンの称号を用い、デリーに都を置いたため、デリー・スルタン朝と総称される。五王朝は北インドをあいついで支配し、特に14世紀初頭のハルジー朝のアラーウッディーン・ハルジーと14世紀前半のトゥグルク朝のムハンマド=ビン=トゥグルクの治世には、デカン遠征を行い、一時は全インドを統一するほどの勢いを誇った。最後のロディー朝のみアフガン系であるが、他はいずれもテュルク系である。こうしたなか、ティムール軍が1398年にデリーに侵入している。 この時代の北インドでは、インド在来の社会組織を利用して統治する現実的な方法がとられ、イスラームへの改宗が強制されることはなかったが、イスラーム神秘主義者スーフィーの活動などもあって、都市を中心に徐々にイスラームが普及していった。 南インドのヒンドゥー諸王国 一方で南インドでは、10世紀後半ころからタミル系のヒンドゥー王国チョーラ朝がインド洋貿易で繁栄した。11世紀前半には、商業上の覇権をめぐって東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国まで遠征を敢行した。チョーラ朝は12世紀末に再建されたパーンディヤ朝(後期パーンディヤ朝)によって13世紀後半に滅ぼされた。その後、一時、北インドの勢力が南下したが、14世紀後半から16世紀初頭にかけてはサンガマ朝、サールヴァ朝、トゥルヴァ朝、アーラヴィードゥ朝のヒンドゥー四王朝がヴィジャヤナガル(ハンピ)に都を置いて繁栄した。これを総称してヴィジャヤナガル王国と呼んでいる。ここでは、北インドとは対照的にヒンドゥー文化の隆盛と爛熟がみられた。ハンピの都市遺跡などに当時の繁栄ぶりを今日に伝えている。 1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがカリカットへ来訪したことを契機に、ポルトガル海上帝国も沿岸部に拠点を築いた。ゴアは1510年以降、インドにおけるポルトガルの拠点として東洋におけるキリスト教布教の中心となった。 バクティ信仰とシク教の創始 北インドのイスラーム支配は14世紀にはデカン高原にもおよび、トゥグルク朝の臣下であったバフマニー朝が14世紀後半から15世紀末にかけて自立、ムスリム政権を成立させた。 やがて北インドでは都市と商工業が発展し、ムスリム商人の活発な活動とスーフィー信仰の修行者による布教とがあいまって、イスラーム教がインド各地に広がっていた。イスラームの平等主義的な一神教の考え方に影響されて、ヒンドゥー教のなかでも15世紀ごろから北インドを中心にバクティ信仰がひろまった。身分の低い人びとのあいだでイスラームに改宗する人も増えた。やがて、ヒンドゥー教とイスラーム教の違いをこえた普遍的な神の存在を主張する人びとがあらわれ、その流れをくむグル・ナーナクによってシク教が創始された。 ムガル帝国の盛衰とヨーロッパ勢力の進出 ムガル帝国の建国と隆盛 16世紀、中央アジアでティムール帝国が滅亡すると、ティムールの一族であるバーブルが北インドへ南下し、最後のデリー・スルタン朝とされるロディー朝の君主イブラヒム・ロディーをパーニーパットの戦い(1526年)で破ってデリー入城を果たし、ムガル帝国を建てた。 その孫にあたる3代皇帝のアクバルは、アフガニスタンから北インドにかけての広大な領域を支配してアグラに都を遷し、ジャイプールの領主でヒンドゥー教徒のビハール・マルの娘と結婚し、イスラーム・ヒンドゥー両教徒との融和を図るためにヒンドゥー教徒への人頭税(ジズヤ)を廃止するとともにザプト制という定額地租制度が導入されて、帝国財政を安定させ、マンサブダーリー制を確立させて統治機構の整備にも努めた。アクバル治下のインド社会は安定し、ヨーロッパ諸国との交易も活発におこなわれた。 17世紀前半の5代シャー・ジャハーンの時代に帝国はもっとも繁栄し、ムガル文化は最盛期をむかえ、その支配領域はデカン方面にもおよんだ。デリーに再遷都され、首都デリーには居城デリー城(赤い城)、旧都となったアグラには亡き妻の霊廟タージ・マハルが建設された。 文化的には、宮廷でペルシア色の強いインド・イスラーム文化が発展した。当時のムガル絵画はイランのミニアチュール(細密画)の影響がみられるほか、宮廷内ではもっぱらペルシア語が使用され、ムガル帝国の代表的建築であるタージ・マハルも、イラン系技術者が多くかかわっていた。ヒンディー語文法にペルシア語・アラビア語の単語を取り入れたウルドゥー語が成立したのも、この時代であった。 英蘭の南インド進出 17世紀、スペイン・ポルトガルの没落に伴い、アジア海域世界への進出をイギリスとオランダが推進した。1612年にはオランダ東インド会社がチェンナイの北プリカットに商館を構えていたが、1623年、英蘭両国が東南アジアで衝突してアンボイナ事件が起こり、イギリス東インド会社は東南アジア交易から駆逐されたかたちとなってインドへの進出を推し進めた。 1639年、イギリス東インド会社はチェンナイの領主であったヴァンダヴァーシの知事からプリカットとポルトガルの根拠地サン・トメ要塞の中間にあたるチェンナイの地を取得し、その地をマドラスと称して1640年にはセント・ジョージ要塞を建設した。いっぽうのオランダは1651年にポルトガル領コロンボ(セイロン島)を支配、1663年にはインド南部のコーチンに進出した。 ムガル帝国の衰退 [編集] 詳細は「アウラングゼーブ」、「マラータ同盟」をそれぞれ参照 17世紀後半になると、6代皇帝のアウラングゼーブは、従来の宗教的寛容策を改めて厳格なイスラーム教スンナ派に基づく統治を行い、人頭税を復活したためにヒンドゥー教徒の支持を失い、デカン高原のマラータ族もシヴァージーを中心に1674年にマラータ王国を形成するなど各地で反乱が勃発、アフガン人・イラン人も侵入して帝国は衰退にむかった。1708年、マラータ王国がマラータ同盟として再建された。ことに1719年は、何人もの皇帝が入れ替わり、政治的混乱の極みに達した。 英仏の進出と植民地抗争 インド産の手織り綿布(キャラコ)がヨーロッパに持ち込まれると大流行となり、各国は対インド貿易を重視したが、その過程で3次にわたる英蘭戦争が勃発、オランダは北米大陸とともにインドでも根拠地を失っていった。イギリスはマドラスにつづき、1661年ボンベイ(ムンバイ)、1690年カルカッタ(コルカタ)を獲得、一方、フランスも徐々にインド進出を図り、コルベールがフランス東インド会社を再建、1673年シャンデルナゴル、1674年ポンディシェリを獲得した。利害が対立した英仏両国は、新大陸と同様にインドでも抗争を続け、1757年、ベンガル地方のプラッシーにおいて、クライヴ率いるイギリス東インド会社がベンガル太守軍とフランス東インド会社の連合軍を打ち破り(プラッシーの戦い)、植民地抗争におけるイギリス覇権が確立した。 イギリスによる植民地化とインドの貧困化 18世紀後半、七年戦争の帰趨を定めた1763年のパリ条約によってフランス勢力をインドから駆逐すると、1765年にベンガル地方の徴税権(ディーワーニー)を獲得したことを皮切りにイギリス東インド会社主導の植民地化が進み、マイソール戦争・マラータ戦争・シク戦争などを経てインド支配を確立した。1813年よりイギリスの対インド貿易が自由化されたことで、産業革命を既に成し遂げていたイギリスから機械製綿織物がインドへ流入、インドの伝統的な綿織物産業は破壊された。さらに、1793年のザミンダーリー制、19世紀前半のライヤットワーリー制などの近代的な地税制度を導入したことも、インド民衆を困窮させた。 19世紀にはいると、イギリス東インド会社は茶、アヘン、インディゴなどのプランテーションを拡大し、19世紀後半にはインドでの鉄道建設を推進した。これらは産地と港湾を結ぶためのものが多く軌道の幅もまちまちで、主としてインドでの税収をもとに投資されたもので、これから得られる利益は多くイギリス人によって回収された。 イギリス植民地時代 インド大反乱と英領インド帝国の成立 こうしたインドの困窮化と経済的従属化に対し、イギリス支配に対する不満は各地で高まり、1857年、デリーに近いメーラトの兵営でシパーヒーが蜂起すると、それは全インドにひろがるインド大反乱(セポイの反乱、シパーヒーの反乱、第一次インド独立戦争)となった。徹底的な鎮圧を図ったイギリスは、翌年にムガル皇帝を廃し、東インド会社がもっていた統治権を譲り受け、インド総督を派遣して直接統治下においた。1877年には、イギリス女王ヴィクトリアがインド女帝を兼任するイギリス領インド帝国が成立した。インド帝国は直轄領と藩王国から成っていた。 インド国民会議派の成立 イギリスはインド統治に際して分割統治の手法をとった。インド人知識人層を懐柔するため、1885年には諮問機関としてインド国民会議を設けた。国民会議は当初、年末の4日間ほど活動するものであったが、やがてインド人の地位向上をめざす政治運動を開始した。国民会議派の中心を占めたのはヒンドゥー教徒の知識人・官吏・地主など比較的めぐまれた階層の人びとが多く、その主張や活動は穏健なものであった。彼らはサティーなど古い因習を廃止してインドの近代化を推進させようとした。そのため、イギリスも円滑な統治の安全弁としてこれを活用した。 国民会議派の急進化と全インド・ムスリム連盟 しかし、民族資本家の形成に伴い反英強硬派が台頭したこと、1905年の日露戦争における日本の勝利、同年のベンガル分割令への憤りなどから反英機運が一層強まり、インド国民会議派は急進的な民族主義政党へ変貌していった。とくにベンガル分割令は過激な民族運動をひきおこし、1906年のカルカッタ大会ではボイコット(英貨排斥)、スワラージー(民族独立)、スワデーシー(国産品愛用)、民族教育の急進的な4大綱領が採択された。こうしたなか、イギリスは独立運動の宗教的分断を図り、親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させた。ムスリム連盟は、人口でヒンドゥー教徒に対し劣位にあるイスラーム教徒の政治力が国民会議派の運動によってさらに弱まると考えて分割支持にまわった。しかし、結局、1911年には、分割令は撤回された。 2度の世界大戦とインド [編集] ローラット法とアムリットサル事件 [編集] 詳細は「ローラット法」、「アムリットサル事件」をそれぞれ参照 第一次世界大戦に際して、イギリスは植民地インドから2個師団100万人以上の兵力を西部戦線に動員し、食糧はじめ軍事物資や戦費の一部も負担させた。しかし、イギリスはインドに対して戦後に自治をあたえるという公約を守らず、形式的自治に終わり、また、ウッドロウ・ウィルソンらの唱えた民族自決の理念の高まりにも影響を受けて民族運動はさらに高揚した。イギリスはこれに対し、1919年3月に出版物の検閲、令状なしの逮捕、裁判なしの投獄を認めるローラット法を制定して、民族運動の弾圧を強化した。同年4月、この法に対する抗議のため集まった非武装のインド人に対してイギリス人警官隊が無差別射撃するアムリットサル事件が起き、独立運動は新しい段階にはいった。 ガンディーの登場 マハトマ・ガンディーの登場は、いままで知識人主導であったインドの民族運動を、幅広く大衆運動にまで深化させた。ガンディーによって1919年4月によりはじめられた非暴力・不服従の運動(サティヤーグラハ)は、イギリスのインド支配を今まで以上に動揺させた。数百万の人びとがデモや集会に参加し、多くの地方では商店も店を閉じ、交通機関もとまった。ガンディーは、サティヤーグラハ運動を指導し、インドの各階層の人びとをイギリス製品排斥や地税不払いなど多様な反英運動に組み入れていった。他方、全インド・ムスリム連盟は同じイスラーム国家であるオスマン帝国との関係を強化しながら反英闘争をおこなった。 プールナ・スワラージと塩の行進 1929年、ラホールでひらかれた国民会議派大会(議長ジャワハルラール・ネルー)では、ガンディーやネルーの指導のもと、プールナ・スワラージ(完全独立)を決議され、その後も粘り強く反英・独立運動が展開された。 1930年3月、ガンディーは「塩の行進」を開始した。イギリスは塩を専売とし、貧しいインド民衆からも搾取していた。「塩の行進」は、それに対する抗議であり、海水から塩をつくることを反英独立運動のシンボルとして、アーメダバードからダンディの海岸までの200マイル(約360キロメートル)を29日かけて行進したものである。このような第2次非暴力・不服従運動に対し、イギリスは民族運動の指導者を英印円卓会議にまねいて懐柔をはかったが、成功しなかった。1935年、イギリスは新インド統治法を発布し、各州の自治拡大を認めた。その後、国民会議派と全インド・ムスリム連盟との対立は深まった。 チャンドラ・ボースとインド国民軍 第二次世界大戦では国民会議派から決裂した急進派のチャンドラ・ボースが日本の援助によってインド国民軍を結成し、独立をめざす動きも生まれた。インド国民軍は、日本軍が1942年に英領マラヤやシンガポールを占領した後、捕虜となった英印軍将兵の中から志願者を募ったのがはじまりであった。 独立から現代へ 分離独立とインド憲法の制定 戦後、インド内のヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の争いは収拾されず、1947年8月15日、イスラーム教国家のパキスタンとの分離独立(インド連邦)となった。イスラーム教徒との融和を説き、分離独立に反対したガンディーは1948年、狂信的なヒンドゥー教徒により暗殺された。初代首相にはジャワハルラール・ネルーが就任し、政教分離の世俗主義という柱で国の統一を図った。1950年に共和制へ移行。1946年12月発足の制憲議会が1949年11月26日に憲法公布、それを受けて1950年1月26日に施行された。以後この日は共和国記念日として連邦首相が主催し、8月15日は独立記念日として大統領が祝賀する慣例となった。制定のインド憲法に書かれた正式国名の英語表記は"Indian Sovereign Socialist Secular Democratic Republic"となっており、そこでは社会主義共和国が志向されている。インド憲法では、カーストによる差別も否定された。憲法前文では、インド国民が主権を持つ民主共和国を実現する決意を明らかにし、公民すべてが社会的・経済的・政治的な正義、思想・表現・信条・信仰・崇拝の自由、地位・機会の平等を確保し、個人の尊厳と国家の統一をもたらす友愛を促進することを規定している。 非同盟主義 ネルーは5か年計画による重工業化を推進し、対外的には冷戦下にあっても両陣営に属さない非同盟の立場をとった。ネルーは1954年、中華人民共和国の周恩来との間で、領土・主権の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存から成る「平和五原則」をまとめた。こうしてネルー以後、冷戦時代のインドは中立非同盟諸国家の中心となった。 国内では長期にわたってインド国民会議派が政権を担った。 印パ戦争と中印国境紛争 パキスタンとの対立はその後も続き、カシミール問題をめぐって第一次印パ戦争(1947年 - 1948年)と第二次印パ戦争 (1965年 - 1966年)が起こり、東パキスタン(現在のバングラデシュ)を原因として第三次印パ戦争 (1971年)が起こっている。両国の対立は現在も続いており、1999年にはカシミールのカルギル地区でパキスタン軍と反インド政府活動家が管理ラインを超えてインド軍駐屯地を占領し、両軍が衝突するカルギス紛争が起こっている。 また、中国とは国境の解釈をめぐって1959年から1962年まで武力衝突がつづいたが、人民解放軍が優位に戦闘を進めた。領土問題では緊張状態が現在も続いている。 核大国化 中ソ対立によって中国が核武装すると国境紛争をかかえるインドも1974年に地下核実験を行って核保有を宣言、世界で6番目の核保有国となった。 2006年7月9日、核弾頭搭載可能な中距離弾道ミサイル「アグニ3」(射程3,500キロメートル)の初の発射実験を行った。当局は当初、発射は成功したとしたが、その後上空でミサイル下部の切り離しが出来ず、目標落下地点には到達しなかったと発表した。 国内政局の変換 1964年にネルーが死去すると、国民会議派のラール・バハードゥル・シャーストリーの短期政権を経て、1966年にはネルーの娘インディラ・ガンディーが長期政権を担った。ところが、長期にわたって議会の多数派を占めてきた国民会議派は地方政党の台頭によって政権基盤が動揺し、1977年の選挙では大敗して、ジャナタ党に政権を譲った。1980年、インディラ・ガンディーが政権に返り咲いたが、1984年暗殺され、後継したインディラの息子ラジーヴ・ガンディーが政権を担った。しかし、彼もまた、辞職後に暗殺されるという悲劇に襲われた。国民会議派の政権はつづき、1997年には、不可触民カースト出身のコチェリル・ラーマン・ナラヤナン大統領が誕生した。 1990年代よりヒンドゥー至上主義の立場をとるインド人民党がアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー(バジパイ)らの指導のもと勢力を伸ばし、1998年から2004年まで政権を獲得した。2004年以降は国民会議派でスィク教徒のマンモハン・シン政権がつづいている。 経済発展 1980年代以降、インドでは「緑の革命」が進展するいっぽうで農民の経済格差もいっそう広がった。しかし、インドは、1997年のアジア通貨危機に際し、中国とならびその影響をほとんど受けなかった。従前よりインドは変動相場制を採用しておらず、このことが為替による投機の拡大、縮小を回避することができたためであった。21世紀に入ってからのインドの経済発展は特にめざましく、ブラジル、ロシア、中国とならんでBRICsと称されている。とりわけIT(情報技術)関連部門の成長が著しい。ムンバイに所在するボンベイ証券取引所は近年、インド株ブームに乗って外国から大量の資金が流入している。 そのいっぽうでは、広大な国土に対するインフラ整備が進んでいないことがしばしば指摘される。2006年8月10日、モンスーンによる洪水の被害者は、東部のグジャラート、南東部のアーンドラ・プラデーシュの2州だけで、約1,300万人に上る惨事となった。 参考HP:〜 ・インダス文明の地図 ・十六大国の場所地図 ・前323年頃のインド付近の地図 ・ムガール朝頃のインドの地図(1700頃) ・インドの地図(日本語) ・インドの地図(日本語) ・ゴアの場所地図 ・ディウの場所地図 ・コチンの場所地図 ・ボンベイの場所地図 ・ダマンの場所地図 ・ゴアの場所地図 ・ゴアの場所地図 |
インドの建造物 |
・タージマハール(Taj Mahal )はインドを代表する建築美 インドを代表するイスラム建築タージ・マハールはその美しさゆえ、人々を魅了して止まない白大理石の巨大な建造物です。壁面のアラベスク模様、華麗な浮き彫りや透かし彫りなど、細部まで完璧な芸術作品となっています。それはインドのアグラ市のヤムナ川岸に建てられています。ムガール帝国の第5代皇帝シャー・ジャハーンは最愛のお妃ムムターズ・マハール(Mumtaz Mahal 1595〜1631年)が亡くなったことを悼んで、廟(22年の歳月をかけて作らせた墓)を建てました。タージマハールはムムターズ・マハールが変化したもので「宮廷の冠」をも意味したそうです。「タージ」は妻の名「ムムターズ」が変化した名です。 1632年に着工し、1653年に完成しました。毎日2万人が建設作業に参加したといわれ、ペルシャやアラブから選りすぐりの建築家や職人が集められ、破格の給与が支払われたともいわれています。この建設のために国家財政が傾き、シャー・ジャハンは息子に軟禁されてしまいました。 彼は自分のために、黒大理石を使って同じ物を作ろうとしていました。実はタージ・マハールは白大理石と黒大理石の廟とがヤムナ川をはさんで建てられ、その二つを大理石の橋で繋いだ壮観な廟となる予定でした。しかし、白い廟が出来上がったあとにシャー・ジャハーン自身が病気になり、さらに4名の皇子の間での帝位継承争いの末に第3皇子のアウラングゼーブによってアグラ城に幽閉されてしまったために、黒い廟は出来上がることなく現在に至っているのです。 世界最大の大理石建築、インドのアグラ市にある文化遺産で、アグラ市はタージ マハールのある町として有名。アグラへは首都デリーから特急で約2時間。国内線で約35分。ムガル帝国第5代の皇帝シャー・ジャハンが、その妃ムムターズ・マハルのために建てた白大理石の美しい墓廟。満月の夜は特に幻想的。インド産の大理石やペルシャなどの貴石で造られていて建物の地下に夫婦の棺が安置されている墓廟である。中央建物のなかは、一般の人も見学出来るが、中はイスラム教の特色である光が入り込むだけでかなり薄暗い。 ・白大理石の劣化 1980年代前半から、タージ・マハルの命であるともいえる白大理石の劣化が目立つようになりました。この遺跡を管理するインド考古調査局(ASI)によると、これは自然現象と人為的な環境変化による原因が考えられるといいます。この地方は一日の気温差が激しく、温度変化により、大理石は収縮・膨張を繰り返し、長年のうちに亀裂、剥落、ひび割れが発生します。また、雨による湿気がコケを付着させたり、石の隙間に付着した種子の発芽を促し、石を劣化させ、割ってしまう危険性がある。周辺の森林減少が気温差の拡大に拍車をかけているとも指摘されています。工業地帯からの大気汚染も石の劣化につながります。アグラの隣町マトゥラーの工業地帯から排出される窒素酸化物など有害物質が白大理石の劣化を進めていると指摘されています。インド政府は1995年に、これらの工場の一時閉鎖命令を出しました。生活の糧を失いかねないという危機に立たされた工場労働者たちは激しく反発しましたが、いまだに操業が再開されていない工場もあります。タージ・マハールを守るための効果的対策は考え出されていません。政府は文化遺産保護と経済発展・雇用促進の板挟みになっています。大気汚染は工場だけが引き起こしているのではなく、増え続ける自動車の排気ガスも問題であると指摘する専門家もいます。 ・シャー・ジャハーン(Shah Jehahn 世界の王の意味 1592〜1666年) 在位1628〜58。ムガル帝国第5代皇帝。父ジャハーンギール(在位1605〜27)の統治時代に父政権に反乱をおこし、父の死にさいし皇位継承が危ういときに,妻の父アーサフ・ハーンのとりなしで,1628年皇帝の位につきました。国内統治には有能であり,ムガル帝国としては政治的安定期を迎え,最盛期となりました。後世,ムガル時代の傑作とされる数々の建築物がつくられました。まず,妃ムムターズ=マハルのためのタージ・マハル廟が挙げられる。さらに,彼は,これまでの首都アグラとは別に,デリーに壮大なデリー城の建設を命じました。赤砂岩でつくられたデリー城は,ジャムナ河に面し,こんにちのオールド・デリーと呼ばれる一画にあり,1648年完成後,彼はここに移りました。赤い色をした城壁にちなみラール・キフ(赤い砦)と呼ばれます。また,城内の宮殿の,ディーワーネ・アーム・ディーワーネ=ハースという二つの謁見の間は有名,後者の特別の謁見の間の壁面に〈地上に天国があるとすれば,それはここだ〉と装飾で記されています。シャー=ジャハーンは,大きな遠征としてまず,デカンのビャージャープル・ゴルコンダ2王国にむけて軍を送り、1636年,2王国ともムガルの至上権を認めて,自立を保ちました。また,1646〜47,中央アジアのバルーヘ遠征軍を送ったが失敗に終わりました。さらに,1652年には,サファヴィー朝ペルシアにとられた,アフガニスタン南部の要衝の地カンダハールを奪回すべく遠征軍を送ったがこれも失敗に終わった。対外遠征はいずれも失敗しましたが,帝国の首都や皇帝のすぐまわりでは,最高度の豪華さが喜ばれ,インド産の当時世界最大のダイヤモンドがはめられ,最高の贅を尽くした,いわゆる「孔雀の玉座」がつくられたのもこの時代です。しかし,シャー・ジャハーンの晩年は悲惨であり,1657〜58年の4王子たちの皇位継承戦争ののち,アグラ城に幽閉され,1666年さびしく死んだのです。 ・ムガール帝国の興亡 1526 バーブルによりムガール帝国創始。 1558 首都をデリーからアグラへ遷都。 1564 アグラ城建設(〜1574年)。 1600 イギリス、カルカッタに東インド会社設立。 1628 シャー・ジャハーン(1592〜1666年)即位。 1631 ムムターズ・マハル(1595〜1631年)死亡。 1632 タージ・マハル着工(〜1653年完成)。 1648 デリーへ再び遷都。 1858 最後の皇帝バハドゥール・シャーがイギリスにより退位させられ帝国滅亡。 1877 イギリス領インド帝国成立。 1947 インド独立。ネルー首相就任(8月)、 パキスタン独立(8月)、英領インドは事実上消滅。 ・ガンジーの主張した「大インド」は実現せず 。 ・分離独立:1947年、英領インドは、インドとパキスタンにそれぞれ分離独立した(この時点ではパキスタンはインドの東西に国土を持っている。このうち東パキスタンが後に独立してバングラディッシュとなる)。インドは政教分離国家、パキスタンはイスラム(ムスリム)国家として出発することとなった。このため、パキスタンとなった地域に住んでいたヒンドゥー教徒がインドへ、インドとなった地域に住んでいたイスラム教徒がパキスタンへ、それぞれ着の身着のままで大移動を開始するという事態が起きた。両国あわせて1500万人もの人々が移動したと言われている。この移動の過程で、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が各地で衝突を繰り広げ、100万人近い人々が殺害されたと言われている。この時の憎しみが、現在も印パ両国の対立に尾を引いている。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 10/1010 |