India

国連 1984 発行
切手で綴る ポルトガルのインド攻略(II
ダマン
Damao

大航海物語

  地図編

ダマン ダマンと飛び地
ダートラー、ナガル・ハーヴェリーの地図
ダマン→

ダードラー→







ポ領インド 1957 発行
ナガル・ハーヴェリー
1635、ペドロ・バレットの古地図
Pedro Barreto de Resende (?-1651)

ポルトガル領インド 1956/3/24  発行

ダマン
  Damao
 (現:Daman)
ダマンはボンベイの北100マイル(約161km)にあって、ダマン・ディーウ連邦直轄地域(Daman and Diu、union territory in India)としてのインドの連邦政府直轄地域の一つで、アラビア海に面したギャンガ川(Ganga River)河口のダマンとカンバト湾(Gulf of Cambay、現:Khambhat)北西岸のディウから構成されています。両都市とも16世紀中頃まではグジャラート王国の領地で、その後20世紀中頃まではゴアと共にポルトガル領インドを構成していました。ダマンがいつ成立したのかはっきりしませんが、少なくとも2000年間都市として機能しており、18世紀後半から、内陸部のダードラー及びナガル・ハーヴェリーもポルトガル領ダマンの一部とされました。その地域は面積・人口ともダマン自体より大きく、ゴアの飛び地としてのディウとダマンがあり、さらにダマンの飛び地としてダートラーとナガルハーヴェリーがありました

1498年、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがインド(カリカット)到達に成功
1529年、ヌーノ・ダ・クーニャ副王が遠征軍を侵攻させて街を包囲し、街を焼き討ち
1531年、ポルトガルが占領
1558年、ポルトガルのコンスタンチノ副王がクジャラートのサルタン(Gujarat Sultanate)から
      正式に割譲され、木材などの積出港、貿易拠点として栄える
1779年、ポルトガルのボンベイがダードラーとナガル・ハーヴェリーをサルタンから取得
1945年、大日本帝国無条件降伏第2次世界大戦終結
1947年、インドがイギリスから独立
      インド政府はポルトガルにも領土の返還を求めたが、
      ポルトガルのアントニオ・サラザール独裁政権は応じず
1954年、ダードラー・ナガルハヴェーリーをインドの民族主義グループが占拠、
      ポルトガルがダマンの飛び地を喪失
1957年、ポルトガルが「ダードラー・ナガルハーヴェリーの地図切手」をインドで発行
1961/12/19、インド軍がダマンに侵攻して占領、インドに併合、
         ポルトガルのダマン植民地支配が終る

ダードラーとナガル・ハーヴェリー連邦直轄地域
 Dadra and Nagar Haveli

内陸部のダードラー及びナガル・ハーヴェリーはインドの連邦政府直轄地域の一つで、人口:22万人(2001)、面積:491km2、首府:スィルヴァーサー(Silvassa)、グジャラート州とマハラシュトラ州の間にある。1779年にマハーラーシュトラの王がポルトガルに割譲、1954年にインドの民族主義者グループが占拠。インドがポルトガルの軍・警察の領内通過を拒んだため、そのまま飛び地が消滅、1961年にインド政府がダードラーとナガルハーヴェリーを正式に領土に編入併合となる。ダードラは3つの村、ナガル・ハーヴェリーは
ナガル・ハーヴェリー地図
68の村からなり、ダマンからインド(旧イギリス領)を挟んで10kmくらい離れていて、森と田んぼと湖がある農村地帯でも、ナガル・ハーヴェリーから産出されるチーク材がゴアを中心とするポルトガル領インドの最大の収入源となる。

参考HP:〜
 ・ダマンとディウの場所地図
 ・ダマンとディウの地図
 ・ダマンの地図 (DADRA、NAGAR HARVELI 有)
 ・ダードラー・ナガルハヴェーリーの地図
 ・カンバト湾の場所地図
 ・インドの地図 (日本語)
 ・インド植民地の地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。    10/10/15

スタンプ・メイツ
Copyright(C):Nicky
無断転載禁止