★ロシア |
ピョートル大帝
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大航海物語★ |
新首都創建 サンクトペテルブルク 海軍創設 バルチック海々戦・勝利 |
ピョ|トル大帝 サンクトペテルブルクの大聖堂 |
ロシア帝国の艦隊 |
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ピョートル大帝は10才でロマノフ朝第5代の皇帝の座につきましたが、後継者紛争で兄が亡くなってから、25才で完全な統治者となり、スウェーデンやオスマン・トルコなどとの戦争遂行のために幾多の反発・反乱を乗り越えて、ロシア帝国の急速な近代化に邁進し大改革を成し遂げました。スウェーデンとの21年におよぶ大北方戦争に勝利すると、ロシアをモスクワ大公国からロシア帝国となし、自ら初代のインペラトールに就任し、53才で後継者を指名しないで亡くなりました。なお、ロマノフ朝は以降、第18代ニコライ2世がロシアの共産主義革命で廃位させられた1917年まで続きました。 |
ピョートル1世 (1671/6/9〜1725/2/8、在位:1682〜1725) Peter I the Great (Pyotr Alexeyevich Romanov、Pyotr Velikiy、Pyotr I Alekseevich) ピョートル1世はロマノフ朝(1613-1917)第5代のツァー(Tsar 在位:1682-1725)、初代帝政ロシアの皇帝(インペラトール(Imperator 元老院認定の大帝称号:在位:1721-1725)。2mを超す巨体の大男だったことと、大きな功績を残したことから、ピョートル大帝(ピョートル・ザ・グレート、Peter the Great)と呼ばれています。 父モスクワ大公アレクセイ・ミハイロヴィチ(Alexei Mikhailovich, 1629-1676, モスクワ・ロシア第2代モスクワ大公兼ツァー(在位;1645-1676)の子供(6男10女)の6男で、母はナタリヤ・ナルイシキナ(Natalia Kirillovna Naryshkina, 1651-1694、モスクワ大公アレクセイの2番目の皇妃、1男2女)でした。幼い頃からモスクワ郊外の外国人居留地に出入りしており、ほとんど入り浸りだったという説もあるくらいで、外人の側近もかかえており、趣味が軍事訓練だったと伝えられています。1676年に父王が亡くなり、後継者の兄フョードル3世(Feodor (Theodore) III 1661-在位:1676-1682)も1682/5/7に亡くなると、10才で後継者になったものの後継者紛争が起り、まず銃兵隊(ストレリツィ:streltsy)の反乱で病弱な13才の兄イワン5世(Ivan V Alekseyevich Romanov 1666-在位:1682/5/7-1696)が即位し、ピョートルはその共同統治者となり、その兄が1696/2/8に亡くなると、25才で単独統治者のツアーとなりました。 ピョートル1世はロシアをヨーロッパ列強の一員とするため、1697/3月〜1698/8月迄、250人を越す使節団を結成してtヨーロッパに派遣しました。自らも偽名を使い使節団の一員となって、オランダのアムステルダムに4ヵ月半滞在し、アムステルダムでは造船技術の習得に専心し、東インド会社所有の造船所で自ら船大工として働き、病院・博物館・植物園を視察、歯科医療や人体解剖を見学しました。イギリスのロンドンに3ヵ月滞在し、ロンドンでも王立海軍造船所に通い、天文台・王立協会・大学・武器庫などを訪れました。また貴族院の本会議やイギリス海軍の艦隊演習も見学しました。プロイセン(ドイツ)のケーニヒスベルク、ドレスデン、オーストリアのウィーンにも行き、ヨーロッパ文明の軍事・科学の専門技術を学び吸収しました。帰国する時に、ピョートル1世は多くの物産品や武器を買い集め、900人を越える軍事や技術の専門家をロシアに連れ帰って、その知識をロシア人に教え込ませました。 スウェーデンからバルト海海域世界の覇権を奪取してバルト海交易ルートを確保するためには、大北方戦争(1700-1721)に勝利しなければならないので、モスクワ大公国(首都:モスクワ)を大改革しました。戦争遂行を容易にするため、また黒海海域をロシアの影響下におくことを目標とし、これらを達成するために治世の大半を大北方戦争に費やしました。戦争遂行を容易にするため、行政改革の実行、海軍の創設を断行。さらに貴族に国家奉仕の義務を負わせ、正教会を国家の管理下におき、ロシア帝国における全勢力を皇帝のもとに一元化しました。また歴代ツァーが進めてきた西欧化改革を強力に推進し、外国人を多く登用して、国家体制の効率化に努めました。1721年には大北方戦争の勝利を記念して、元老院にインペラトール(大帝)の称号を贈らせ、国家名称をモスクワ大公国(Grand Duchy of Moscow)からロシア帝国(Russian Empire)に昇格させました。 ピョートル大帝の主な業績:〜 (1)新首都創建:〜 1703年、ネヴァ川河口デルタ地帯に港湾都市の建設を開始し、1712年工事完了、 サンクトペテルブルクと命名して遷都し、新首都とする。1725年人口4万人となる (2)海軍創設:〜 1703年、ロシア帝国軍がスウェーデン領のコトリン島を占領し、首都ペテルブルク防衛の クロンシュタット要塞を築き、バルチック艦隊を創設し、ハンゲの海戦(1714)に大勝利し、 バルチック艦隊の主力基地として大北方戦争を勝利へ導く (3)行政改革:〜 戦争遂行を容易にする組織改革、重税は反乱を引き起こす、コザックや農民一揆の反乱 (4)陸軍改革:〜 陸軍の装備を近代化し、対外戦争を遂行・勝利に導く。1700年ナルヴァ戦敗北後本格的な 軍事改革に着手、海軍省と砲兵学校を創設し、小銃・大砲・軍艦の増産、1705年に終身型 徴兵制度を導入、新設軍隊では西欧式の訓練を実施 (5)西欧化改革(文化教育):〜 外国人を多く登用し、国家体制を近代化・効率化する、ユリウス暦の導入 女性皇族の厳しい行動制限を撤廃し、宮廷行事への出席を命じる (6)貴族改革:〜 爵位制度を導入して国家奉仕の義務を課し、大貴族の髭を切らせ、市民の髭に課税する (7)宗教改革(正教会改革):〜 国家の管理とし、免税特権を廃止する (8)大北方戦争勝利:〜1721/9/10:ニスタット条約の後、初代ロシア皇帝(インペラトール)就任 大北方戦争(1700-1721)では、1700年スウェーデンと交戦状態に入り、1712年からロシアは攻勢に転じ、バルト海、ハンコ半島沖でスウェーデン(バルト帝国、1611-1718)海軍とロシア帝国(モスクワ大公国、1283〜)海軍が戦ったハンゲの海戦(1714/7/27)に歴史的勝利を収めて、1721年に大北方戦争に勝利 (9)国家名称改革:〜 モスクワ大公国をロシア帝国に昇格させる このようなピョートル大帝も家庭的には恵まれませんでした。ピョートルは1689年にエヴドキヤ・ロプーヒナ(Tsarina Evdokiya Feodorovna Lopukhina 1669-1731)と結婚し、3人の息子をもうけましたが、成長したのは長男アレクセイ(Alexei Petrovich Romanov 1690-1718)だけでした。ピョートルはこの敬虔な妻を疎んじ、1698年に修道院に追放・幽閉しました。また結婚直後から、外国人居留地出身のオランダ人女性アンナ・モンスを愛人としていました。1703年にはメーンシコフの家の召使マルファ(Marta、後のエカチェリーナ1世、Catherine I Yekaterina I Alekseyevna 1684-在位:1725-1727)をも愛人とし、1707年にはこのマルファと秘密結婚、1712年に正式に結婚して皇妃としました。マルファは戦争捕虜で、もとはラトヴィアのリヴォニア地方(Livonia Latvia)の農民の娘で、ロシア正教に改宗してエカチェリーナと名乗り、12人の子供が出来ました。成人したのはアンナ・ペトロヴナとエリザヴェータ(後の女帝)の娘2人だけでした。娘アンナ・ペトロヴナと姪のエカチェリーナ・イヴァノヴナ、アンナ・イヴァノヴナ(後の女帝)の3人は、いずれもバルト海沿岸のドイツ人領邦君主と結婚し、ピョートルによるバルト海支配の重要な布石となりました。信仰心が強く西欧化に反発する息子アレクセイとは不仲で、彼の周囲には反体制派が集まって、無視できない勢力となり、1716年にアレクセイはウィーンに亡命。翌1717年にナポリでロシア政府に拘束され連れ戻されました。ピョートルは息子が政府転覆の意思を持っていたと信じ込み、彼の支持者を粛清したうえでアレクセイの継承権を奪い、アレクセイは1718年に死刑を宣告され、その直後に獄死しました。ピョートルの後継者の地位は、エカチェリーナが産んだ息子ピョートル・ペトロヴィチに移るも、この幼い息子は1719年に亡くなりました。 晩年のピョートルは膀胱炎を患っており、真冬の海に入って溺れた漁師を助けるたために病気が悪化し、 サンクトペテルブルクで53才で亡くなりました。後継者を選定しないままだったため、皇后がエカチェリーナ1世として後を継ぎました。ピョートル大帝は出世させた側近や新設の軍隊には人気がありましたが、その統治方針は大多数の貴族、聖職者、民衆には理解できないもので、教会への圧力や外国人の登用、急速な西欧化に反感が高まりました。 参考HP:〜 ピョートル大帝の外遊地図 ロシアの地図(日本語、モスクワ&サンクトペテルブルク有) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 10/6/30 |