旧イギリス領
キ プ ロ ス 島
Cypurus Island


CYPRUS・KIBRIS
エーゲ海の島々とキプロス島の地図、オルテリュウス(1573)の地図より

第2回世界会議記念
キプロス共和国(南) 1974 発行


ORDINE DI MALTA
キプロス島の場所地図(旗の有る島)
地中海 パレスチナ
マルタ騎士団 1968 発行

キプロスは、1960.8.16に英国より独立を宣言しましたが、1974.7.15ギリシャ軍指導部によるクーデターが発生しギリシャ系のキプロス共和国となり、同年7.20にトルコ軍が侵攻し北部約37%は同軍による占領状態が続いていますが1983.11.15には一方的に'北キプロス・トルコ共和国'として独立宣言をしました。また、ギリシャが主権を主張した時期がありました。
CYPRAS
英ジョージ5世と
ローマ時代のソリ野外劇場

Soli Theatre
キプロス 1938 発行
地中海に浮かぶ島キプロス島の地図
キプロス島の地図
英領キプロス 1938 発行
南キプロス
コロッシ城塞

Kolossi Castle
キプロス 1938 発行

イスラム教のモスク(教会)

Bairakdar Mosque
キプロス 1938 発行
キリスト教の教会

Peresterona Church
キプロス 1938 発行
北キプロス
Othello's Tower要塞の遺跡

Famagasta Citadel
キプロス 1938 発行

CYPRAS CYPRUS・KIBRIS
英エリザベス2世女王と
北キプロスの聖ヒラリオン城

St.Hilarion Castle、Kyrenia Mountains
キプロス 1955/8/1 発行
ローマ時代のコイン(銀貨)

Roman Coin
キプロス共和国(南) 1972/9/25 発行

キプロス島
  Cypurus Island

キプロス島は、東地中海のシリア・アナトリア半島の沿岸にある島。地中海ではシチリア島、サルデーニャ島に次いで3番目に大きな島です。
キプロス島はイギリス領時代をへて、1960年にキプロス共和国として独立し、憲法の規定で、
大統領はギリシャ系、副大統領はトルコ系で選ばれて就任することになりましたが、
・1960/8/16に英国より独立を宣言するも、
・1974/7/15ギリシャ軍指導部によるクーデターが発生し、ギリシャ系のキプロス共和国となり、
・1974/7/20トルコ軍が侵攻し北部約37%は同軍による占領状態が続いています。
・1983/11/15には北部が一方的に”北キプロス・トルコ共和国”として独立宣言をしました。

・総面積:9,250ku(日本の四国(18,296.37ku)の約半分)
 ・陸地面積:9,240ku
  ・キプロス共和国: 5,296ku
  ・北キプロス・トルコ共和国の旗北キプロス・トルコ共和国: 3,355ku
  ・イギリスの旗イギリス主権基地領域アクロティリおよびデケリア: 254ku
  ・グリーンライン: 346ku
 ・水域面積:10 ku。
・人 口 :871,000人(2008)。
・最高地点:オリンポス山(Mt. Olympus、1,951m)。
・1番切手:〜
 ・イギリス領:1880年イギリス切手に ”CYPRUS” 加刷発行
 ・キプロス共和国(南):1960/8/16独立の1番切手発行(地図切手)
 ・北キプロス:1974年に ”Turkish Republic of Nothern Cypuros” として1番切手発行
・世界遺産:トロードス山脈に点在する12の聖堂群が「トロードス地方の壁画聖堂群」で登録。

・現在のキプロス島
  (Cyprus Island)
現在のキプロス島は、1974年以来、南北に分断されています。キプロス島は元来はギリシャ系住民とトルコ系住民の混住する複合民族国家なるも、分断後は事実上、ギリシャ系によるほぼ単一民族国家となっています。

キプロス共和国
  (Republic of Cyprus、1960〜)
キプロス共和国は、トルコの南の東地中海上にあるキプロス島の大部分を占める共和制国家で、イギリス連邦加盟国。首都はニコシア。ヨーロッパ連合加盟国で、公用語はギリシャ語。キプロス共和国は国際連合加盟国193か国のうち、192ヵ国(トルコを除く)が国家承認。

北キプロス・トルコ共和国
  (Turkish Republic of Northern Cyprus、TRNC:Turkish: Kuzey Kibris Turk Cumhuriyeti、1983〜)
北キプロス・トルコ共和国は、島の北部約37%を、国際的にはトルコ共和国のみが承認する「独立国家」であるトルコ系住民による北キプロス・トルコ共和国が占めている。

・アクロティリおよびデケリア
  (Sovereign Base Areas of Akrotiri and Dhekelia)
アクロティリおよびデケリアは、キプロス島の一部で、イギリス海外領土(British Overseas Territories)で、往来は容易であるものの共和国領ではなくイギリス領です。アクロティリおよびデケリアはイギリスの海外領土を構成し、イギリスの統治権が及ぶ、キプロス島にある地域。キプロスがイギリス帝国の植民地から、イギリス連邦内の独立した共和政国家に移行した時、キプロスが地中海において戦略上の拠点に位置していたため、基地については引き続きイギリスが保持することとされました。

基地は2つの地域に分かれており、一方はアクロティリ(Akrotiri)で、エピスコピ駐屯地とともに西部主権基地領域 (WSBA) とされており、もう一方はデケリア(Dhekelia)で、アイオス・ニコラオス・ステーション(Ayios Nikolaos Station)とともに東部主権基地領域 (ESBA) とされています。

・キプロス島の略史:〜
キプロス島は東地中海を往来する諸民族、諸文明の中継地となったため、その歴史は古く有史時代から、当初はヒッタイト(Hittites, BC1600-BC1178)、アッシリア(Assyria, BC2500-BC605)などのオリエント諸国の支配を受けました。アッシリアの滅亡後しばらくは独立状態にあったものの、エジプト第26王朝(BC664-BC525)のアマシス(クネムイブラー・イアフメス)2世(Amasis II,在位BC570-BC526)によって征服され、エジプトが ペルシアのアケメネス朝(Achaemenid Empire, BC550-BC330)に併合されたのとほぼ同時期にキプロスもペルシアの支配下になりました。住民の多くがギリシア系だったので、再三反ペルシア暴動が生じたものの、ペルシアが全て鎮圧しました。

アレクサンドロス大王(Alexander the Great, 在位BC336-BC323)によるペルシア滅亡(BC330?)と大王没後のディアドコイ戦争(後継者戦争:Wars of Diadochi, BC322-BC275)での結果、キプロスはエジプトのプトレマイオス朝(Ptolemaic dynasty of Egypt, BC305-30)の保護下に置かれ、エジプトから総督が派遣されました。この時期のキプロスは当時の2大商業都市だったアテネ(Athens)とアレキサンドリア(Alexandria)の間の中間貿易港として発展。紀元前58年、共和政ローマ(Roman Republic, BC509-BC27)から派遣された小カト(マルクス・ポルキウス・カト:Marcus Porcius Cato, BC95-BC46)によってキプロスはローマ属州(Roman Cyprus:キュプルス属州、Provincia Cyprus, BC31-7th century)となりました。クレオパトラ7世(Cleopatra VII, BC51-BC30)はマルクス・アントニウス(Marcus Antonius, BC83-BC30)と結んでキプロスの支配権を再び手に収めるも、アクティウムの海戦(Battle of Actium, BC31/9/2)に敗北し、プトレマイオス朝の滅亡と共に再度ローマ属州へ復帰。紀元前22年以降は、元老院(senatus:BC509年王制打倒-1453年東ローマ帝国滅亡)の属州としてのキュプルス(Cyprus)となり、イタリア本国と東方属州を結ぶ交通の要衝として機能。第14代ローマ皇帝ハドリアヌス(Hadrian, 在位117-138)や共同皇帝ルキウス・ウェルス(Lucius Verus, 在位:161-169)等のローマ皇帝もキプロスを訪れました。115年からのユダヤ人の一斉蜂起によりキプロスは損害を被りました。4世紀以降にローマ帝国がキリスト教化する中でキプロスもキリスト教が徐々に普及、ローマ帝国が分裂した後も東ローマ帝国の支配下に留まりました。


1191年には第3回十字軍に参加したイングランドのリチャード獅子王(リチャード1世)に占領され、その後テンプル騎士団(Knights Templar, 1119-1312頃)に譲渡されました。その後エルサレム王国(Kingdom of Jerusalem, 1099-1291)のフランスの騎士で国王ギー・ド・リュジニャン(Guy de Lusignan、1159-1194)に売却され、1489年以後はヴェネツィア共和国(Republic of Venice, 697-1797)領となり、1570年から1571年にかけてオスマン帝国(Ottoman Empire, 1299-1922)に占領されました。1878年にオスマン帝国がロシアに敗北を喫したことを機に、統治権はイギリスに移りました。当初はオスマン帝国から貸借を受けイギリスが統治するという形式をとっているも、1925年にイギリスの直轄統治領になりました。第二次世界大戦後は反英テロが活発化し、イギリス本国と対立を深めて、1960年にキプロスとして独立が承認されました。この時に、アクロティリ及びデケリアが成立。1974/7/15に隣国トルコがトルコ系住民の保護を目的に北部を占領。1983/11/15にトルコ占領地が北キプロス・トルコ共和国として独立宣言し、事実上キプロス共和国の支配下から外れました。1974年のトルコ北部占領時には国際連合が北部(北キプロス)と南部(キプロス共和国)の間にグリーンライン( Green Line:United Nations Buffer Zone in Cyprus, 1974)を引き、現在に至りました。

キプロス略史:〜
1191、第3回十字軍の遠征途上にイングランド王リチャード1世が征服
1192、フランク人(西ヨーロッパ人カトリック教徒)のキプロス王国(Kingdom of Cyprus 1192-1489)建国
1489、キプロス王国が相続者を欠いて断絶、ヴェネツィア共和国がキプロスを植民地とする
1570、オスマン帝国の侵攻で占領される
    ニコシア(十字軍の命名)は20,000人の犠牲者を出す
1571、オスマン帝国がオスマン・ヴェネツィア戦争 (1570-1573)でヴェネツィアからキプロスを奪い、
    キプロス州(オスマン領キプロス)を置く
1571/10/7、ギリシャのレパント岬沖でレパントの海戦が勃発
1835、ニコシアでコレラが流行
1857、ニコシアで大火が発生
1878、エジプトの植民地化を進めていたイギリスが露土戦争 (1877-1878、オスマン帝国が敗北)後の
    ベルリン会議でオスマン側に便宜を図った代償にキプロス島の統治権を獲得、
    ニコシアが首都として成長(イギリスがオスマン帝国から貸借の形式)
1914、第一次世界大戦勃発でオスマン帝国がイギリスと敵対すると、
    同年イギリスが一方的に併合
1925、イギリスの直轄統治領となる
1939、第二次世界大戦(1939/9/1-1945/9/2)勃発
1945、第二次世界大戦終結後、ギリシャ併合派、トルコ併合派による反イギリス運動が高まる
1954、ギリシャがキプロス復帰問題を国連に提訴
1960、独立前にニコシアで反イギリス闘争の過程で、血で血を洗う惨事が続く
    8/16、イギリスから独立
    初代大統領にキプロス正教会首座主教マカリオス3世(Makarios III, 1913-1977)が、
    副大統領にトルコ系ファーズル・キュチュク(Fazil Kucuk, 1906-1984)が憲法の規定で就任
    イギリス主権基地領域アクロティリ&デケリア(Sovereign Base Areas of Akrotiri & Dhekelia)成立
1961、イギリス連邦加盟
1963、11/30、トルコ系住民の権利を縮小させる憲法改正
    12/21、首都ニコシア(Nicosia)で両者間の衝突が発生(キプロス島紛争(内戦)が勃発
    12/27、イギリス・トルコ・ギリシャによる臨時の平和維持軍が派遣される
1964、03/04、国際連合安全保障理事会(United Nations Security Council Resolution 186)決議
         国連キプロス平和維持軍(PKF:United Nations peacekeeping force)派遣が決定
    03/27、国連キプロス平和維持軍が活動を開始
1974、07/15、併合派のギリシャ系住民がクーデターを起こし、
         独立派のギリシャ系住民との内戦が始まる
    07/20、トルコ軍がキプロスに侵攻、島の北部を占領する
         そこへトルコ系住民が移住し「北キプロス・トルコ共和国」を称する
    8月、停戦するも、島は南北に分断される状態となる
    北キプロスもニコシアが首都(複数の国によって同じ都市が首都とされる唯一の例)
1983、11/15、北キプロス・トルコ共和国が独立を宣言
2004、国際連合によってひかれた緩衝地帯グリーンライン(南北分断線)は南側のキプロス共和国側から
    に限り北側への通行が可能なるも、南北間通行は検問所の増設で自由化される
    北キプロスがEUに加盟。

参考HP:〜
 ・キプロス島の場所地図(日本語)
 ・キプロス島の地図(詳細地図)
 ・キプロス島の地図(区分地図)
 ・キプロス島の地図(南(キプロス政府)と北(トルコ系)の境界地図)
 ・キプロス島の地図(日本語、同上の境界地図)

こちらで
キプロス紛争
お楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     08/9/29追記、2018/9/9

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