★歴史の証人 シリーズ |
パレスチナ紛争 Parestina 1948/5/14:イスラエル建国 1994/5/4:パレスチナ建国 |
イスラエル イパレスチナ 建国★ |
UAR パレスチナ難民母子 パレスティナの地図 エジプト 1961/5/15 発行 |
IRAN パレスチナ
イラン 1986/6/6 発行 |
ALGERIE アラブの領土を主張する パレスチナ(イスラエル)の地図 アルジェリア 1976/7/16 発行 |
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THE HASHEMITE KINGDAM OF JORDAN イスラエルを認めないヨルダンの地図
(アラブ・サミット 1964/1/13 会議) ヨルダン 1964/9/5 発行 (200%) |
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UAR エジプト義勇軍がガザに到着 1948/5/15 エジプト 1948/6/15 発行 |
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パレスチナの地図、1948/4/9 デイル・ヤシーンの大虐殺 |
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IRAQ イラク発行 イラク 1965/4/9 発行 |
SYRIA シリア発行 シリア 1965/3/24 発行 |
UAR エジプト発行 エジプト 1965/4/9 発行 |
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(ホロコーストを描く郵便切手) |
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ユダヤ人絶滅収容所 (強制収容所を開放) ナチから開放20年記念、寄付金付 フランス 1964 発行 |
アンネ・フランク ドイツ 1979/5/17 発行 |
昔々パレスチナにはユダヤ人の国イスラエル王国(Kingdom of Israel BC1021頃創立)が栄えていました。ダビデ王(King David BC1000-962 ベツレヘム(Bethlehem)生、都:(Jerusalem)エルサレム)の後を継いだソロモン王(King Solomon BC962-922 都:エルサレム)の時代に最も繁栄しましたが、その後は内部抗争で紀元前930年頃に分裂して北王国(イスラエル王国 BC930-720:王都(Shechem)シケム、後(Samaria)サマリア)と南王国(ユダ王国 BC930-586:王都エルサレム)に分裂しました。北王国はアッシリア帝国の猛攻でBC720に滅亡。南王国は紀元前609年にメギドの戦い(Battle of Megiddo)に敗北してネカウ2世(Necho II BC610-595)のエジプト第26王朝(Dynasty 26 of Egypt BC664-525)の属国となり、最終的に紀元前597年に新バビロニア王国(Neo-Babylonian Empire BC625-539)の王ネブカドネザル2世(Nebuchadnezzar II, 在位BC605-562)の支配下に入り、しばらくは独立国としての存在が許されるも、結局エジプトと結んでバビロニアと対抗しようという企てが失敗し、紀元前586年にエルサレム全体とエルサレム神殿が破壊され、支配者や貴族たちは王都バビロニア(Babylon)へ連行され(バビロン捕囚)ました。ユダ王国が滅ぶと、わずかな例外的時期を除いて20世紀に至るまでユダヤ民族が独立国を持つことはなかったので、ユダヤ民族の放浪が始まったと言われています。なお紀元前10世紀頃に、はるばると遠くから訪ねて行ったシバの女王(Queen of Sheba)がソロモン王に謁見し、其処で見た光景は、ユダヤ人もアラブ人も其の他の民族も皆んな仲良く暮らしていたと伝えられています。 時は夢のように流れて2,400年以上もの時を経て、19世紀になると”シオニズム”ということが声高く叫ばれるようになりました。折しもその後に起こった第一次世界大戦の勃発で、大英帝国が3枚舌外交を行なってパレスチナの地に混乱をもたらしたと言われています。 ・シオニズム (ユダヤ民族の祖国回復運動) Zionism パレスチナにあった王国が滅ばされて、ユダヤ民族が世界に散り散じりになって、祖国復帰運動が民族の願いとなり、シオニズム(Zionism)という”イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しよう”、”シオン(Sion、エルサレム市街の丘)の地に帰ろう”、という意味の運動が起りました。そして、ユダヤ人への冤罪のフランス陸軍で起きたドレフュス事件(Dreyfus affair 1894)を取材していたオーストリア人でユダヤ人の記者テーオドール・ヘルツル(Theodor Herzl、1860/5/2-1904/7/3)が”失われた祖国イスラエルを取り戻すシオニズム運動を起こし”、ユダヤ人自ら国家を建設し諸外国に承認させることを訴えました。 1897年、ヘルツルがスイスのバーゼルで第1回シオニスト会議を主宰。 後にヘルツルは建国の父の一人となる 1915年、フサイン・マクマホン協定〜3枚舌の一枚目? 1914年、第一次世界大戦が勃発 1916年、英仏露でサイクス・ピコ協定〜3枚舌の二枚目? 1917年、英外相が「パレスチナでのユダヤ人居住地建設と支援」を 約束したバルフォア宣言が出される〜3枚舌の三枚目? 1918年、第一次世界大戦が終結 イギリスがパレスチナの占領統治を開始 1920年、イギリスは高等弁務官による民政を開始(実質的植民統治) 1922/7/24、国際連盟理事会でイギリス委任統治領パレスチナの決議案が公式承認
1948年、イラクなどアラブ5カ国は新しく建国されたイスラエルを承認せず、 1948/5/15、アラブ諸国がイスラエルに対して宣戦布告 第一次中東戦争が勃発(-1949/(3/10)7月) 1949/3/10、膠着状態となり、以降イスラエルと各国が停戦協定を締結 5月、停戦協定にイラクは署名拒否 7月、第1次中東戦争が終結 国連決議で広範囲な土地をイスラエルが占領 1949/5/11、イスラエルが国際連合に加盟 1952年、日本がイスラエル国を承認、イスラエルが東京に公使館開設 1955年、日本がテルアビブに公使館開設 1956/7月、エジプトのナセル大統領がスエズ運河の国有化を宣言 1956/10/29、第2次中東戦争(〜1957/5月) エジプトのスエズ運河国有化宣言に対応して、 英・仏・イスラエル連合軍がスエズ運河に侵攻、 米・ソの仲介により3国は撤退 1963年、日本・イスラエル双方の公使館が大使館に昇格 1967/6/5、第3次中東戦争(〜1967/6/10:6日間戦争)、 エジプトのナセル大統領による紅海のティラン海峡封鎖で、イスラエルが 「先制攻撃」を実施、6日でイスラエルの圧倒的勝利で終結、イスラエルは エジプトからシナイ半島とガザ地区を、同戦争に参戦したシリアからゴラン高原を、 ヨルダンから東エルサレムとヨルダン川西岸全域を奪取 1972/09/5、旧西ドイツで、ミュンヘンオリンピック・テロ事件(イスラエル参照) 1972/5/30、イスラエルのテルアビブ空港で日本人(赤軍)が銃乱射事件を起す 1973/10/6〜10/26、第4次中東戦争 イスラエル軍の不敗神話が崩壊するも、 10/16のスエズ渡河作戦で形勢逆転、渡河後17日間で停戦、 10/10からはシリアに反撃しダマスカスに迫る 1973年、戦後に石油危機が起こり、日本でもオイルショック発生 1974年、PLOが国際連合総会オブザーバー資格を取得、アラファト議長が国連本部で演説、 パレスチナを公的・国際的に代表する機関として国際的な認知を得る 1975/6月、第3次中東戦争以来停止していたスエズ運河の通行が8年ぶりに再開 1976年、ウガンダのエンテベでパレスチナ過激派がエールフランス機をハイジャック 1977年、エジプトのサダト大統領がエルサレム訪問 1979年、イスラエル・エジプト平和条約締結 イスラエルが占領していたシナイ半島を返還 1981年、イラク原子炉爆撃事件、フランスの技術協力を得てバグダッド郊外に原爆開発用に 建設中の原子炉をイスラエル空軍が爆撃 1982年、レバノン侵攻(ガリラヤ平和作戦)、アリエル・シャロン国防相が辞任 1991年、湾岸戦争、テル・アヴィヴを標的としたイラクによるスカッドミサイルの攻撃有 1992年、米国主導でマドリッド会議開催、イスラエルとパレスチナ解放機構 (PLO)との顔合わせ 1993/8/20、オスロ合意、PLOとイスラエルとの和平協定成立 1994/5/4、パレスチナ自治政府(PLO)がヨルダン川西岸とガザ地区の暫定自治を開始 1995年、ユダヤ人過激派によりラビン首相が射殺される 1996/1月、ヤセル・アラファト(Yasser Arafat 1929-)PLO議長が選挙で大統領(長官)に選出 2004/11/11、アラファトPLO議長が亡くなる 2006/1/25、2回目の総選挙で穏健派のファタハが負けて、強硬派のハマスが第1党となる 2006/4月、パレスチナの壁(ヨルダン川西岸地区の分離壁)は、総延長703kmの内 408kmが建設済み、63kmが建設中、残り232kmは未着工 2006/7/12〜9/10、イスラエルがイスラム武装組織ヒズボラ鎮圧を目的にレバノンに再侵攻 2007/9/6、北朝鮮の支援で建設中のシリア東部施設(原子炉)をイスラエル空軍が空爆で破壊 2008/12/27、イスラエルがパレスチナ自治区ガザ地区のハマスに対し空爆、地上侵攻を開始 2009/1/3、イスラエルがガザ侵攻、地上侵攻を開始 2010/8/3、イスラエルがレバノンと衝突 2012/2/16、来日中のイスラエル外相がNHK-TVでイラン核開発施設への空爆も辞さないと言明 ・フサイン・マクマホン協定 1915/7/14-1916/1/30 (英国の対アラブ政策) McMahon-Hussein Correspondence (letters) フサイン・マクマホン協定は、1915年にイギリスがオスマン帝国の支配下にあったアラブ地域の独立と、アラブ人のパレスチナでの居住を認めた協定で、 メッカ(Mecca)の太守であるフサイン・イブン・アリー(Hussein bin Ali, Sharif of Mecca、1853-1931/6/4)はマッカのシャリーフ(在位:1908-1916)でオスマン帝国(1299-1922)からのアラブ独立運動の指導者とイギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホン卿(High Commissioner Sir Arthur Henry McMahon、1862/11/28-1949/1229)との間でやりとりされた書簡の中で、イギリスは対トルコ戦協力(アラブ反乱)を条件にアラブ人居住地の独立支持を約束。これは翌年のアラブ地域を分割を決定したサイクス・ピコ協定、翌々年のパレスチナへのユダヤ人入植を認めるバルフォア宣言と矛盾しているように見えたため、一連のイギリスの行動を指して「イギリスの三枚舌外交」ともいわれるも、線引きを厳密に適用すればパレスチナはそもそもアラブ人国家のエリア内に含まれないこと、サイクスピコ協定でのフランス支配地域も、ダマスカス近辺がかぶるが、概ねエリア内に含まれないことから、それぞれの内容は、実はそれほど矛盾していないとの説もあります。でも、このイギリスの秘密外交が反発を買ってパレスチナ問題の大きな原因となりました。 ・バルフォア宣言 1917/11/2 (英国の対ユダヤ政策) Balfour Declaration バルフォア宣言は、第一次世界大戦(1914/7/28-1918/11/11)中に、イギリスのロイド・ジョージ(David Lloyd George、1863/1/17-1945/3/26)内閣の外務大臣アーサー・ジェームズ・バルフォア(Foreign minister Arthur James Balfour, 1st Earl of Balfour、1914/7/28-1918/11/11)が、イギリスのユダヤ人コミュニティーのリーダーであるライオネル・ウォルター・ロスチャイルド(Lionel Walter Rothschild,2nd Baron Rothschild、1868/2/8-1937/8/27)に対して送った書簡で表明された”イギリス政府のシオニズム支持”表明。 ・サイクス・ピコ協定 (1916/5/16) (トルコ領分割の秘密協定) Sykes-Picot Agreement サイクス・ピコ協定は、第一次世界大戦中の1916/5/16にイギリス、フランス、ロシアの間で結ばれたオスマン帝国(トルコ)領の分割を約した秘密協定。イギリスの中東専門家マーク・サイクス (Colonel Sir Mark Sykes, 6th Baronet 1879/3/16-1919/2/16) とフランスの外交官フランソワ・ジョルジュ=ピコ (Francois Marie Denis Georges-Picot, 1870/12/21-1951/6/20) によって原案が作成されて「サイクス・ピコ協定」と呼ばれるようになりましたが、イギリスはフランスとの間では戦後の中東を両国で分割する密約(サイクス=ピコ協定)を結びながら、アラブ人にはパレスチナを含むアラブ国家の独立を認め(フセイン・マクマホン書簡)、ユダヤ人に対してもパレスチナでの「民族的郷土」の建設を支援する約束をしました(バルフォア宣言)・・・三枚舌? その後、ロシア帝国も加わってペトログラードで秘密協定が結ばれました。 ・アラブの反乱 (1916/6-1918/10) (別名:フサインの蜂起・アラビアのロレンス) Arab Revolt アラブの反乱は、第一次世界大戦中にオスマン帝国からのアラブ人独立と、南はアデンから北はアレッポに至る統一アラブ国家の樹立を目指してメッカのシャリーフ(太守)・フサイン・イブン・アリーが起こした戦いで、ハーシム家が主導するアラブ諸部族は、イギリスの支援を受けて中東各地でオスマン帝国軍と戦いその支配からの脱却には成功するも、アラブの地はイギリスやフランスによる委任統治領となって分断され、統一国家を作っての独立は出来ず。後世に作られたアラビアのロレンスが活躍する映画の元になりました。 参考HP〜 ・イギリス領パレスチナの地図(イラクも英領、シリアは仏領:日本語) ・パレスチナの地図(1947年アラブ主張の所) ・パレスチナの場所地図 ・パレスチナの壁の場所地図(イスラエル建設) ・パレスチナ付近の地図(日本語) ・イスラエル王国とユダ王国の場所地図 ・ベツレヘムとエルサレムの場所地図 ・イスラエルの地図(現在の詳細地図) ・ヒジャース鉄道の場所地図(旧ダマスカス〜メッカ巡礼鉄道) ・ヒジャース鉄道の場所地図(アラビア語) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 12/2/17 |