★イギリス
アーネスト・ガイルス
1872、オルガ岩群を発見
1873、ギブソン砂漠を発見

大航海物語★
AUSTRALIA
ウィリアム・ガイルス

オーストラリア 1976/6/9 発行

AUSTRALIA
ウルル-カタ・ジュタ国立公園
オルガ岩群


国連ウィーン世界遺産シリーズ
国連 1999 発行  大阪の切手商店で購入で(2010/2/3)
GRENADA
18〜19世紀の英国帆船

グレナダ 1998/4/26 発行

オーストラリアの地図
ノーザンテリトリー(北部準州)
オーストラリアの地図

アイルランド 1988/3/1 発行 (200%)



ウェストオーストラリア

サウスオーストラリア




←クィーンズランド


←ニューサウスウェールス
←ヴィクトリア
←タスマニア
オーストラリア100年記念
オランダ 1988/8/30 発行

イングランド生まれのアーネスト・ガイルスは15才で両親とオーストラリアのアデレードに移住し、17才でゴールド・ラッシュに誘われて金鉱探しに行きましたが金は見つからず、メルボルンに行き郵便局で働き、26才でダーリング河の西の牧羊地を探しに行き、探検調査の経験を積みました。オーストラリアの電信線敷設が始まって、そのルート探検が必要になると、1872年から1876年まで3回に渡る大探検をなして、中央オーストラリアからパースへ到達しました。探検の途中でギブソン砂漠を発見して命名し、エアーズロックを望見し、オルガ岩群を発見して命名しました。その後、探検記を執筆してメルボルンで発刊し、英国地質学協会から金メダルを受賞し、62才で亡くなりました。
ウィリアム・アーネスト・ポウェル・ガイルス (1835/7/7〜1897/11/13)
 William Ernest Powell Giles

アーネスト・ガイルスはイングランドのブリストル(Bristol, England)で、商人のウィリアム(William Giles)とジェーン(Jane Elizabeth, nee Powell)夫妻の息子として生まれました。1850年に15才でアデレード(Adelaide, SA)に両親と移住しました。1852年に折から起ったヴィクトリアのゴールド・ラッシュで金鉱(Victorian goldfields)探しに行きましたが、金を掘り当てることなく失敗しましたので、メルボルン(Melbourne)に行き、郵便局職員(General Post Office clerk)の職を得ました。1861年にニューサウスウェールズ(NSW)の西部で、ダーリング河の向う(西)の牧羊に適する土地を探しに、1865年まで探検して貴重な探検の経験を積みました。

第1回探検:〜1872
1872年に、男爵ミューラー博士が準備した探検隊を率いて、中央オーストラリアの電信線敷設ルートを探索しました。
1872年
08/04、南オーストラリア州境のシャーロッテ・ウォーターズ(Charlotte Waters, NT)を出発、
ミッショナリーズ平原(Missionaries' Plain)へとマクドナルド山脈(MacDonnell Ranges)南麓をフィンケ・ヴァレー(Finke valley)沿いに進みましたが、水の欠乏で中断しました。南へと方向を変えてチェンバース・ピラー(Chambers Pillar=議会の柱、NT)へ出て、エアーズロック(ウルル)から北50kmの塩湖(salt-pans)をアマデュース湖(Lake Amadeus、NT)と命名して進みました。馬が弱ったので、帰途に着き、マクドナルド山脈から流れ出るフィンケ川(Finke River、600km)から、シャーロッテ・ウォーターズへ出て、
1873/1月、アデレードへ帰着しました。

第2回探検:〜1873
男爵ミューラー博士が準備した探検隊に、イングランド生まれのウィリアム・ティエットキンス(William Harry Tietkins 1844-1933)を迎えて、アルフレッド・ギブソン(Alfred Gibson 生年不詳〜1874)と2人を連れて総勢6人が馬で、ベルタナ(Beltana, SA)からパース(Perth, WA)への探検を成し遂げましたが、途中でギブソンが亡くなりました。
1873年
08/04、アルバーガ川(Alberga River SA, 690km)出発、
1ヵ月後、中央オーストラリアでヴィクトリア砂漠とギブソン砂漠の間に有る
     マスグレーヴ山脈(Musgrave Ranges)着
     フェルディナンド川(Ferdinand River)発見、命名
10/03、東経128度着
11月初旬、東経126度着
12/20、スコット山(Mount Scott 880m)着
1874年
04/23、最西端着、帰路に着く
05/01、ギブソンが亡くなり、ギブソン砂漠(Gibson Desert)命名
オーストラリアの乾燥地帯

オーストラリア 1988/10/17 発行
06/04、フィンケ川への道を発見
07/13、シャーロッテ・ウォーターズ到着
ガイルスがアリス・スプリングスから南西323kmのジョージ・ギルス山脈(George Gill Range)西端のキングス・キャニオン(Kings Canyon NT)近くで、エアーズロックを望見した時に、その付近の川をミューラー博士に因んでフェルディナンド川と命名して、ミューラー博士に報告し、またウィリアム・ゴース(William Christie Gosse 1842-1881)からのクレームで、オルガ(The Olgas)の発見についてだけ、ドイツ王カール1世(Karl I.)の王妃オルガ(Grand Duchess Olga Nikolaevna of Russia 1822-1892)に因んでオルガ岩群(Mount Olga)と命名しました。 オルガ岩群
なお、ガイルスはミューラー博士に因んでフェルディナンド湖(Lakes Ferdinand)、ミューラー山(Mt Mueller)と名付けようとしましたが、ミューラー博士がスペイン王アマデオ1世(Amadeo I, 1845-1890)に因んでアマデュース湖(Lake Amadeus)と、そしてドイツ南部の王国のカール1世の王妃オルガ(Olga Nikolaevna)に因んでオルガ山(Mount Olga)と命名しました。

第3回探検:〜1875
ベルタナ(Beltana, SA)から総勢7人で、パース(Perth, WA)への探検。
1875年
03/13、トーマス(Sir Thomas Elder GCMG 1818-1897)の参加を得て、
     フォウラー湾(Fowlers Bay, SA)から北へ出発
     トレンス湖(Lake Torrens)の北岸からトーマスのベルタナ基地着
     ベルタナ基地で準備。ティエットキンスを再度連れていく
05/06、ベルタナをラクダのキャラバンで出発
05/23、ポートオーガスタに着き補給を受ける
     ウィンブリング(Wynbring)、ウールディーア(Ooldea)、ウールダビナ(Ooldabinna)
     ボーダリイダム(Boundary Dam)を経て、515kmの間一滴の水も無く渇きで苦しんで
     偶然に見つけた少しの水のある窪み(small hollow)で、9日間休息後に出発
05/23、南オーストラリア州と西オーストラリア州の境に到着、
10/06、グレートヴィクトリア砂漠(Great Victoria Desert)を515km踏破
10/16、現地人の襲撃を受けるも火炎で対抗して追い払う、その後
     クィーン・ヴィクトリア・スプリングス(Queen Victoria Springs)を発見
11/04、奥地の白人畜産業者の牧場に着く
11/10、カルハム基地(Culham station)でジョン・フォレストに出会い、
11/13、彼の手引きでパース着、2ヵ月滞在、
     ティエットキンスとヤング(Jess Young)は船でアデレードへ行く
1876年
01/13、帰途の探検にパースを出発、砂漠を横断して、マーチソン川(Murchison Rivers 780km)、
     アシュバートン川(Ashburton Rivers 680km)、ギブソン砂漠を横切り、
     1874年に救助されたローリンソン山脈(Rawlinson Ranges)に着いて、
     2度に渡り中央オーストラリアを横断し、約644km踏破して、電信線施設ルートを探検
08/23、アデレードに到着。

ガイルスはメルボルンで「中央オーストラリアの地理学旅行記」(Geographic Travels in Central Australia from 1872 to 1874)を1875年に出版。アデレードで「忘れられた探検記」(The Journal of a Forgotten Expedition)を1880年に出版。ロンドンで「2度のオーストラリア旅行記」(Australia Twice Traversed)を1889年に出版。英国地質学協会(Royal Geographical Society)のフェロー(fellow)となり、金メダル(gold medal)を受賞。1897年に62才で肺炎(pneumonia)で亡くなり、クールガーディー墓地(Coolgardie Cemetery)に葬られました。

参考:〜
男爵フェルディナンド・ヤコブ・ヴォン・ミューラー博士 (1825-1896)
  Sir Ferdinand Jakob Heinrich von Mueller
Baron von Mueller)
ミューラー博士はドイツの医師で、オーストラリアに渡って、ヴィクトリアで医師(German-Australian physician)、地理学者(geographer)、植物学者(botanist)として活躍し、特に植物学者で最も有名になりました。ミューラー博士は1847年に医師になり、同年にドイツを出帆して、12/18にアデレードに着きました。間もなアデレード近郷で81,000m2の土地を取得。1851年にヴィクトリア首都メルボルンに移りました。
ミューラー博士

オストラリア 1986 発行
1853年にヴィクトリア植民地副総督チャールズ・ラ・トローブ(Charles Joseph La Trobe 1801-1875 first lieutenant-governor of Victoria、在任:1851〜1854)の要請で、新設された植物学省長官に就任し、特に山岳植物相(Alpine vegetation)の研究をなすため、バッファロー山脈(Buffalo Ranges)からコルバーン川(Goulburn River)、ギッブスランド(Gippsland)を横断して海岸に出て、ポートアルバート(Port Albert)から、ウィルソン絶壁(Wilson's Promontory)を経てメルボルンに帰るという2,400kmに及ぶ大探検を成し遂げて、偉大な業績を残しました。メルボルンの王立植物学ガーデン(Royal Botanic Gardens)のヴィクトリア国立植物標本館(National Herbarium of Victoria)に、彼の蒐集した標本が収められていいて、現在も観察できます。1846〜1858年のグレゴリー(Sir Augustus Charles Gregory 1819-1905)の4度に渡る探検に参加して、北部オーストラリアでヴィクトリア川(Victoria River)を探検し、1858年にはターミネーション湖(Termination Lake)、モートン湾(Moreton Bay)に到達しました。1857〜1873の間は王立植物学ガーデンの重役になり、バーク探検隊の後援をし、ライカート探検隊の捜索をなし、ガイルス探検隊の準備をしました。1861年にロイヤル・ソサイエティのフェロー(Fellow of the Royal Society)となり、1879年にヴィクトリア女王から爵位(knighted)を拝領し、ナイト・コマンダー勲章(KCMG)を受賞しました。1871年にドイツ南部ヴュルテンベルク王国の第3代国王(在位:1864-1891)カール1世(Karl I.(Charles I of Wurttemberg)、1823-1891)とオルガ王妃の第25回銀婚式結婚記念日に爵位を受領し、男爵(Baron Sir Ferdinand von Mueller)になり、そのご縁でオルガ山が名付けられました。71才でメルボルンで亡くなりました。
参考HP:〜グレゴリーの探検地図

参考HP:〜
 ・ガイルスの探検地図
 ・イングランドの区分地図(詳細)
 ・ブリストルの場所地図
 ・アデレードの場所地図(日本語)
 ・アデレード付近の地図(詳細)
 ・シャーロッテ・ウォーターズの場所地図
   (AliceSpringsOodonadattaの中間にCharlotte Waters有)
 ・アマデュース湖の場所地図
 ・マクドナルド山脈の場所地図
 ・オーストラリアの山脈の場所地図(日本語)(マクドナルド山脈、マスグレーヴ山脈が有)
 ・エーア湖湿地帯の地図(マレーダーリング水系の地図)(Finke River、600km有)
 ・フォウラー湾の場所地図(Fowlers Bay有)
 ・キングス・キャニオンの場所地図(Kings Canyon、Ayers Rock、Alice Springs有)
 ・ギブソン砂漠の場所地図
 ・サウス・オーストラリアの地図(Lake Gairdner、Lake Eyre、Lake Torrens有)
    (ゲアドナー湖、エーア湖、トレンス湖が有)
 ・マーチソン川の場所地図
 ・アシュバートン川水域の場所地図
 ・ミーカサラの場所地図(Meekatharraの道路地図、ここにローリンソン山脈が有)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       2010/5/30

スタンプ・メイツ
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