★イギリス |
アーネスト・ガイルス
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大航海物語★ |
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AUSTRALIA ウルル-カタ・ジュタ国立公園 オルガ岩群 国連ウィーン世界遺産シリーズ 国連 1999 発行 大阪の切手商店で購入で(2010/2/3) |
GRENADA 18〜19世紀の英国帆船 グレナダ 1998/4/26 発行 |
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オーストラリアの地図 ノーザンテリトリー(北部準州) |
オーストラリアの地図 アイルランド 1988/3/1 発行 (200%) |
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ウェストオーストラリア→ |
サウスオーストラリア |
←クィーンズランド ←ニューサウスウェールス ←ヴィクトリア ←タスマニア |
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オーストラリア100年記念 オランダ 1988/8/30 発行 |
イングランド生まれのアーネスト・ガイルスは15才で両親とオーストラリアのアデレードに移住し、17才でゴールド・ラッシュに誘われて金鉱探しに行きましたが金は見つからず、メルボルンに行き郵便局で働き、26才でダーリング河の西の牧羊地を探しに行き、探検調査の経験を積みました。オーストラリアの電信線敷設が始まって、そのルート探検が必要になると、1872年から1876年まで3回に渡る大探検をなして、中央オーストラリアからパースへ到達しました。探検の途中でギブソン砂漠を発見して命名し、エアーズロックを望見し、オルガ岩群を発見して命名しました。その後、探検記を執筆してメルボルンで発刊し、英国地質学協会から金メダルを受賞し、62才で亡くなりました。 |
ウィリアム・アーネスト・ポウェル・ガイルス (1835/7/7〜1897/11/13) William Ernest Powell Giles アーネスト・ガイルスはイングランドのブリストル(Bristol, England)で、商人のウィリアム(William Giles)とジェーン(Jane Elizabeth, nee Powell)夫妻の息子として生まれました。1850年に15才でアデレード(Adelaide, SA)に両親と移住しました。1852年に折から起ったヴィクトリアのゴールド・ラッシュで金鉱(Victorian goldfields)探しに行きましたが、金を掘り当てることなく失敗しましたので、メルボルン(Melbourne)に行き、郵便局職員(General Post Office clerk)の職を得ました。1861年にニューサウスウェールズ(NSW)の西部で、ダーリング河の向う(西)の牧羊に適する土地を探しに、1865年まで探検して貴重な探検の経験を積みました。 第1回探検:〜1872 1872年に、男爵ミューラー博士が準備した探検隊を率いて、中央オーストラリアの電信線敷設ルートを探索しました。 1872年 08/04、南オーストラリア州境のシャーロッテ・ウォーターズ(Charlotte Waters, NT)を出発、 ミッショナリーズ平原(Missionaries' Plain)へとマクドナルド山脈(MacDonnell Ranges)南麓をフィンケ・ヴァレー(Finke valley)沿いに進みましたが、水の欠乏で中断しました。南へと方向を変えてチェンバース・ピラー(Chambers Pillar=議会の柱、NT)へ出て、エアーズロック(ウルル)から北50kmの塩湖(salt-pans)をアマデュース湖(Lake Amadeus、NT)と命名して進みました。馬が弱ったので、帰途に着き、マクドナルド山脈から流れ出るフィンケ川(Finke River、600km)から、シャーロッテ・ウォーターズへ出て、 1873/1月、アデレードへ帰着しました。 第2回探検:〜1873 男爵ミューラー博士が準備した探検隊に、イングランド生まれのウィリアム・ティエットキンス(William Harry Tietkins 1844-1933)を迎えて、アルフレッド・ギブソン(Alfred Gibson 生年不詳〜1874)と2人を連れて総勢6人が馬で、ベルタナ(Beltana, SA)からパース(Perth, WA)への探検を成し遂げましたが、途中でギブソンが亡くなりました。
07/13、シャーロッテ・ウォーターズ到着
第3回探検:〜1875 ベルタナ(Beltana, SA)から総勢7人で、パース(Perth, WA)への探検。 1875年 03/13、トーマス(Sir Thomas Elder GCMG 1818-1897)の参加を得て、 フォウラー湾(Fowlers Bay, SA)から北へ出発 トレンス湖(Lake Torrens)の北岸からトーマスのベルタナ基地着 ベルタナ基地で準備。ティエットキンスを再度連れていく 05/06、ベルタナをラクダのキャラバンで出発 05/23、ポートオーガスタに着き補給を受ける ウィンブリング(Wynbring)、ウールディーア(Ooldea)、ウールダビナ(Ooldabinna) ボーダリイダム(Boundary Dam)を経て、515kmの間一滴の水も無く渇きで苦しんで 偶然に見つけた少しの水のある窪み(small hollow)で、9日間休息後に出発 05/23、南オーストラリア州と西オーストラリア州の境に到着、 10/06、グレートヴィクトリア砂漠(Great Victoria Desert)を515km踏破 10/16、現地人の襲撃を受けるも火炎で対抗して追い払う、その後 クィーン・ヴィクトリア・スプリングス(Queen Victoria Springs)を発見 11/04、奥地の白人畜産業者の牧場に着く 11/10、カルハム基地(Culham station)でジョン・フォレストに出会い、 11/13、彼の手引きでパース着、2ヵ月滞在、 ティエットキンスとヤング(Jess Young)は船でアデレードへ行く 1876年 01/13、帰途の探検にパースを出発、砂漠を横断して、マーチソン川(Murchison Rivers 780km)、 アシュバートン川(Ashburton Rivers 680km)、ギブソン砂漠を横切り、 1874年に救助されたローリンソン山脈(Rawlinson Ranges)に着いて、 2度に渡り中央オーストラリアを横断し、約644km踏破して、電信線施設ルートを探検 08/23、アデレードに到着。 ガイルスはメルボルンで「中央オーストラリアの地理学旅行記」(Geographic Travels in Central Australia from 1872 to 1874)を1875年に出版。アデレードで「忘れられた探検記」(The Journal of a Forgotten Expedition)を1880年に出版。ロンドンで「2度のオーストラリア旅行記」(Australia Twice Traversed)を1889年に出版。英国地質学協会(Royal Geographical Society)のフェロー(fellow)となり、金メダル(gold medal)を受賞。1897年に62才で肺炎(pneumonia)で亡くなり、クールガーディー墓地(Coolgardie Cemetery)に葬られました。
参考HP:〜グレゴリーの探検地図 参考HP:〜 ・ガイルスの探検地図 ・イングランドの区分地図(詳細) ・ブリストルの場所地図 ・アデレードの場所地図(日本語) ・アデレード付近の地図(詳細) ・シャーロッテ・ウォーターズの場所地図 (AliceSpringsとOodonadattaの中間にCharlotte Waters有) ・アマデュース湖の場所地図 ・マクドナルド山脈の場所地図 ・オーストラリアの山脈の場所地図(日本語)(マクドナルド山脈、マスグレーヴ山脈が有) ・エーア湖湿地帯の地図(マレーダーリング水系の地図)(Finke River、600km有) ・フォウラー湾の場所地図(Fowlers Bay有) ・キングス・キャニオンの場所地図(Kings Canyon、Ayers Rock、Alice Springs有) ・ギブソン砂漠の場所地図 ・サウス・オーストラリアの地図(Lake Gairdner、Lake Eyre、Lake Torrens有) (ゲアドナー湖、エーア湖、トレンス湖が有) ・マーチソン川の場所地図 ・アシュバートン川水域の場所地図 ・ミーカサラの場所地図(Meekatharraの道路地図、ここにローリンソン山脈が有) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2010/5/30 |