★イギリス
ウィリウム・ゴース
1873
エアーズロックを発見

大航海物語★
AUSTRALIA
ウィリウム・ゴース

オーストラリア 1976/6/9 発行

AUSTRALIA
エアーズロック

オーストラリア 1986/8/4 発行
GRENADA
18〜19世紀の英国帆船

グレナダ 1998/4/26 発行

オーストラリアの地図
ノーザンテリトリー(北部準州)
オーストラリアの地図

アイルランド 1988/3/1 発行 (200%)



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オーストラリア100年記念
オランダ 1988/8/30 発行

イングランド生まれのウィリウム・ゴースは8才で両親と兄弟達と共に、オーストラリアのアデレードへと移住しました。17才で南オーストラリア政府に就職して、土地調査省で働いて探検調査を身につけ、30才で中央オーストラリアからオーストラリア大陸西端のパースへの探検隊長に指名され、オーストラリア大陸中央西部地域の探検をなし、探検の途中でエアーズロックを発見して命名しました。探検後、アデレードで心臓発作のため38才の若さで亡くなりました。
ウィリウム・クリスティー・ゴース (1842/12/11〜1881/8/12)
 William Christie Gosse

ウィリウム・ゴースはイングランドのハートフォードシャー(Hertfordshire, England)ホッドスドン(Hoddesdon)で開業医ウィリアム(William Gosse)とアグネス(Agnes, nee Grant)夫妻の2番目の息子として生まれました。父の従兄弟に自然科学者のフィリップ・ヘンリー(Philip Henry Gosse 1810-1888)がいました。

1850年に父の気管支炎(bronchitis)治療のため、両親と4人の息子と2人の娘が、オーストラリアのアデレードへと移住しました。アデレードで彼の父は不治の病人のためのホームとして、イギリス医療協会(British Medical Association)海外支部を創設し、病人のために大きな功績を残しました。3番目のチャーリー(Charles)は目医者になりましたが、1885/7/1に馬の事故で亡くなり、彼を記念してアデレード大学に眼科(ophthalmic surgery)が新設されました。

1859年にウィリウム・ゴースは南オーストラリア政府(South Australian government)の土地調査省(surveyor-general's department)に就職し、検査官(Deputy Surveyor-General)になって、北部アウトバックの測量(三角法)調査(trigonometrical survey)に派遣されました。1868年に東南部地域(south-eastern district )から戻って、メルボルンのリッチー嬢(Gertrude Ritchie 1818-1870))と結婚しましたが、リッチー夫人は翌年に亡くなりました。

1872年に南オーストラリア政府は、ピーター・ワーバートン大佐(1813-1889)による中央オーストラリア(central Australia)からオーストラリア大陸西端のパース(Perth)への探検を計画しましたが、大佐が59才だったために、エルダー一家の三男トーマスに探検隊を組織させ、その隊長にウィリウム・ゴースを指名しました。そのためワーバートン大佐は別の探検隊を組織して出発し、両隊は探検を競うことになりました。
ウィリウム・ゴースは、
1873年に、トーマス・エルダー(Sir Thomas Elder、1818-1897)、
       エドウィン・ベリー(Edwin Berry)、
       ウィリアムの末弟ヘンリー・ゴース(Henry Gosse)、
       白人(White Man)のウィンナル(Winnall)、
       白人(White Man)のナイレン(Nilen)、
       アフガン人(Afghans)の隊員3人、
       アボリジニの少年1人の
       総勢10人が馬とラクダで、
       8ヵ月分の食料を準備しました。
04/15、アリス・スプリング基地を出発
     西方へ進むこと3ヵ月、
     探検結果を地図に詳細に記入し
     マスグレーヴ山脈(Musgrave Ranges)を命名
     ウィリアム・ガイルズも望見していましたが、
07/19、エアーズロック(Ayers Rock)を発見して、命名
09/17、乾燥した台地に少ない水では、
エアーズロック
     もうこれ以上進むのは困難だと断念して、帰途につく
12/19、シャーロッテ・ウォーターズ電信基地(Charlotte Waters telegraph station)に
     水の欠乏で弱り切って、かろうじて到着。
ウィリウム・ゴースの地図は、後のフォレスト卿の第3回探検に大いに役立ちました。

1874/12/22にアレキサンダー・ヘイ(Alexander Hay 1820-1898)の娘アグネス(Agnes 1853-1933)と結婚し、3人の子供、ウィリアム(William)、ジェームス(Sir James)、アグネス(Agnes)が生れました。1875年に土地検査官(deputy surveyor general)になり、1881/7月に健康を害し、長患いの末に38才で、アデレードの家にて、心筋梗塞(heart attack)で亡くなりました。

参考HP:〜
 ・イギリスの地域(州)区分地図(詳細)
 ・イングランドの州区分地図
 ・イングランドの区分地図(詳細)
 ・ハートフォードシャーの場所地図
 ・ホッドスドンの場所地図(赤丸)
 ・アデレードの場所地図(日本語)
 ・マスグレーヴ山脈の場所地図(日本語、エアーズロック有)
 ・パースの場所地図
 ・オルバニーの場所地図(道路地図、パース有)
 ・エアーズロックの場所地図
 ・シャーロッテ・ウォーターズの場所地図
   (AliceSpringsOodonadattaの中間にCharlotte Waters有)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      2010/6/20

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